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泥の町  作者: 山口 にま
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第四話 結婚式は誰のもの

 「もう研究はやめようと思うの。三月には院も卒業する」

美咲は長い付き合いの恋人、早水健悟をまっすぐ見据えて言った。レストランのテーブルには美咲が差し出したバレンタインのチョコレートが置かれたままだ。

「Q国での研究も一段落ついたし、日本で就職するわ」

「いいのかい?」

「もう十分研究したから満足よ」

健悟はちょっと黙ってから、

「君が出した答えならば、それで良いよ」

 健悟自身は二年にわたりアメリカに身を置いて物理学を研究しており、最近日本の企業に就職が決まったばかりだった。国境が二人を分かち、普通の恋人たちのように週末ごとに会うような関係はここ数年は築けなかった。

「もしかして僕に合わせて帰国してくれるの?」

「ううん、違うわ。ちょうどいい区切りだから」


 美咲は帰国の理由をどう言おうかと考えあぐねた。

 美咲にQ国の研究ビザが下りないのだ。理由はデモ行進およびQ国大使館前で抗議活動したことしか思い当たらなかった。抗議団の中でスパイがいたのだろう。それは誰?考えたくもないが、まさかタシか?


 「じゃあ色々準備をしなくちゃね」

健悟はそっと美咲の手に触れる。

 何の準備だろう、美咲は健悟の次の言葉を待った。

「よく決心してくれたね。君だってそろそろ結婚したいよね」

美咲は今日がバレンタインデーであったことを思いだす。結婚をせがんだつもりじゃなかったんだけど。しかし妙にうきうきと指輪や式場の話をし始める健悟に対しては何も言えなくなっていた。それに美咲自身も自分の薬指にはめられる大ぶりなダイヤモンドや、人生最良の日にウェディングドレスで微笑む自分を想像すると気持ちが浮き立った。

 研究職としてもキャリアは失ったも同然だった。だから恋愛だけは成就させたかった。結婚を拒む理由はなかった。


 健悟の実家は茨城県南部の守谷市だった。

手入れの行き届いた広い庭が、この家が中流以上であることを暗示させた。健悟は両親に軽く美咲を紹介してからは、積極的に口を開こうとしない。いつもの健悟と違う。美咲は不安に思った。沈黙を避けるためにもっぱら健悟の母親と美咲がしゃべり続けた。

「結納はどうしようかしら」

母親は聞いた。

「ありがとうございます。では両親とも相談の上改めて相談させて頂きます」

美咲は頭を下げた。

「お式はどうするつもりなの?」

重ねて母親は問う。

「式場に空きがあったらなるべく早くするつもりだよ」

と健悟。

「じゃあ、披露宴の余興はあんりちゃんにやってもらいましょうよ。あんりちゃんって中学生のうちの孫なんだけど、ピアノが得意なの」

「まぁ素敵」

ととりあえず美咲は言っておく。

「式ではウエディングドレスを着るんでしょう?花嫁のドレスの裾を持つ小さな子がいるじゃない?」

「ベールガールのことですか?」

「そう、それ。ベールガールとベールボーイはかのんちゃんとレオ君にやってもらいましょうよ。あ、かのんちゃんとレオ君もうちの孫」

「お孫さんたち、おいくつなんですか?」

「かのんちゃんは三歳、レオ君は五歳」

「ちょっと小さすぎませんか?」

「大丈夫よぉ。すっごくお利口な子供たちなんだから」

美咲は子どもが嫌いで、本音を言えば子どもの式参列自体を断りたいぐらいだった。嫌だなと美咲は思ったし、その思いを顔に出した。その嫌な顔で健悟を見たが、健悟は前を向いたまま美咲の方を見ようとはしなかった。ここで揉めるのもなんなので、美咲はあいまいに返事をして、後で健悟を通じて断わるつもりだった。


 昼食は健悟の母親が作ってくれた。美咲もおずおずと台所に入って手伝う。その間、健悟は父親と一緒にリビングでテレビを見ていた。勝手の分らない台所仕事で、美咲は皿を割りそうになる。ここの家の子の健悟がお殿様みたいに座って、よそのお嬢さんの私がくるくると家政婦みたいに働いている。それを誰もおかしいと思わない。


 夕方に美咲は健悟の実家を後にした。健悟は駅まで美咲を車で送る。

「お父さんもお母さんも優しい人ね。私、ほっとしたわ」

と前置きしつつ

「リングガールのことなんだけど・・・・」

「君、おふくろがその話をしたときに、すっごく嫌な顔をしたよね」

「気づいていたの?そうなのよ、厳粛な感じで結婚式を挙げたいのよ。だから子供を使う演出はちょっと・・・」

「君だけの結婚式じゃないでしょう!」

健悟はぴしゃりと言う。その剣幕に美咲は思わず黙ってしまった。

「結納はやってもらいたい、でも甥っ子姪っ子は出てくるな、じゃ通用しないよ」

じゃあ結納は辞退しましょうか、と美咲はのどまで言葉が出かかった。しかし、親の意向もあるので、自分一人では決められない。美咲は何も言えなかった。


 家に帰った美咲は、健悟の実家に行ったことや、先方から結納の申し出があったことを事務的に伝えた。

「結婚式もするつもりなんだけれど、つい最近まで学生だったからいかんせんお金がないのよ。就職したら少しずつ返すから、結婚式の費用を貸して貰えないかな」

美咲は両親に言うと、父親は笑いながら、

「結婚式のお金はお父さんたちが出すから、安心していいよ」

「ありがとう。なるべく安く済ませるようにするね」

美咲は頭を下げた。

「そんなことは気にしないで美咲たちの好きにしなさい」

と母親。父親も隣で大きく頷いている。美咲はその言葉を暖かいと思った。


 自分の部屋に戻り、健悟の家に今日のお礼の電話を掛けた。母親が出て、みんなを紹介したいから来月にでもまたいらっしゃいと言ってきた。美咲は再度礼を言って、電話を切る。

 机の上には学会で使った資料や写真がひとまとめにしてあった。クリスマスに夜なべをして作ったものだ。年明けに同じ資料をQ国での学会で使おうと思っていたが、それは叶わなかった。入国拒否をされたからだ。これが美咲の学者としての、事実上の引退仕事になってしまった。美咲は資料の山に手を置いた。結婚が決まっているというのに、全然幸せな気持ちになれない。失ったものが大きかったからか、それとも、これからの未来が、夜の暗闇の中を流れていく川の如く何も見えないせいか。美咲は紙袋に資料一式を入れて、引き出しにしまう。


 パソコンを開いて、フェイスブックの横手多聞のページを見たが、クリスマス以来何も更新はされていず、多聞の顔写真一枚も掲載されていなかった。


 結婚式場は多聞の両親の強い願いで都内のホテルになった。美咲としては値段が高いのが気になったが、他に自分には案がないので黙っていた。式場との打ち合わせの時、健悟は開口一番、

「余興で姪っ子にピアノを弾かせたい。ピアノは使えますか?」

「アップライトのピアノでしたら、披露宴会場にお運びすることが出来ますが」

中年男性のウェディングプランナーは慇懃に言った。

「あ、良かったね」

と美咲は健悟に声を掛けた。

「ただアップライトですと、演奏する方が来賓の方々に背中を見せる形になります」

「それで充分です」

美咲が答えると、健悟は険しい顔で、

「それじゃ困るんですよ。演奏者の顔が見えるようにしないと」

「それでしたらグランドピアノにして頂くことになります」

「グランドピアノは貸して貰えるのですか?」

健悟が尋ねると、プランナーは

「ホテル最上階のバーラウンジにグランドピアノがございますので当日披露宴でお使いの場合、運搬料が発生いたしますが」

「運搬料はおいくらですか?」

美咲が聞くと、彼は言いにくそうに

「二十万円かかります」

「それだったらアップライトで良いわよね?」

美咲は健悟に向かって言った。健悟は

「ではグランドピアノにしてください」

美咲もプランナーも目を見開いて言葉を失った。健悟はもう一度、

「グランドピアノにしてください」

と言った。プランナーは美咲の出方をうかがって黙っている。

「健君それは高いわよ。二十万円はピアノに使わなくって、例えば料理のランクを上げるとか、他のお客様も喜んでもらえることに使おうよ」

美咲は言った。

「余興でピアノを弾くお客様は多いですが、大体アップライトをお使いですよ。余興ですから長くて十分ぐらいですし、それにグランドピアノは場所を取りますから、その分お客様同士のテーブルが近くなってしまいます」

プランナーは美咲の肩を持った。しかし健悟は

「姪っ子が弾くので、やはり顔が見えないと親戚から文句が出ますよ。運搬料は払いますのでグランドピアノにしてください」

プランナーは美咲と健悟の顔を見比べている。

「ここで決めないで、相談してから決めない?」

「相談?誰と?」

「うちの親とか、健君の親御さんと」

「君の親御さんは関係ないでしょ」

「だってうちの親が半分結婚式のお金を負担するのよ」

「それは君のうちの問題でしょ」

健悟はけんか腰になると女のような口調になる。それをプランナーに聞かれるのが美咲は恥ずかしい。

「次回の打ち合わせまでに決めて頂ければ結構ですので、ご相談の上ご検討ください」

プランナーは助け舟を出す。


 打ち合わせが終わり、ホテルを出ても、健悟の機嫌は直らない。

「美咲は早水家に入るんだから、少しはうちに合わせてよ」

美咲は耳を疑う。いやしくもアメリカ帰りの若き研究者が言う言葉か。

「家に入るって、そんな昔風な・・・・」

「君だってこんなドレスが着たいとかこんな指輪が欲しいとか、夢があるでしょ。俺だってそうだよ」

そんなことがあなたの夢なの?と言おうとしたが、喧嘩になりそうなので黙っていた。

「別に健君の姪っ子さんがピアノを弾くのが嫌なんじゃないのよ。ただ、二十万円は高いよ」

「でもおふくろも兄貴のところもあんりちゃんも楽しみにしているんだ」

「もう決まったことなの?」

「決まったというか、前々からみんながあんりちゃんのピアノを楽しみにしていたし。これから親戚づきあいが始まるんだし、みんなが満足する結婚式にしようよ」


 二週間後、二人は再び打ち合わせのためにホテルを訪れた。

「ピアノの件はお決まりになりましたか?」

プランナーは二人に聞いた。

「やはりグランドピアノにしてください」

健悟は答えた。

「それで良いのですか?」

プランナーは改めて美咲の方に尋ねる。

「それで結構です」

美咲は三白眼でプランナーを睨みつつ、低い声で答えた。


 機嫌よくホテルを出た健悟は言った。

「来週の衣装合わせにおふくろが来たいんだって。もちろん美咲のお母さんにも来てもらいなよ」

「何しに来る、いや何のためにいらっしゃるのかしら?」

「俺の親さ、このホテルで結婚式を挙げたんだよ。だからおふくろが懐かしんだって」

「いいけど・・・・でもドレスは私が好きに決めさせてよ。ピアノの件はこっちが譲歩したんだから」

健悟は途端に不機嫌な顔になり、

「だから、美咲の親御さんも来てもいいって言ってるじゃん」

 しかし美咲の母親は来なかった。

「その日は歌舞伎を見に行く約束をしちゃった」

母親は申し訳なさそうに言い訳をする。


 当日、美咲が式場の衣装室に入ると、健悟とその母親は既に彼女を待っていた。

「懐かしいわぁ。私もここでドレスを選んだのよ」

母親は興奮気味に話しかけてくる。衣装係が

「お嬢様のご希望は何かありますか?」

美咲はすかさず、

「まず追加料金がかからないこと。それから上半身が太っているので、着やせするドレスが良いです」

衣装係は

「太っているなんてとんでもない。」

と美咲の言葉を否定しつつ、

「上半身のボリュームを気になさっているのならば、肩が出るベスチェタイプが良いと思いますよ。気になる部分を思い切って見せてしまった方が、却って痩せて見えますよ」

美咲は渡されたウェディングドレスを試着してみる。サテン地で余計なレースなどはついていないそれは、美咲をほっそりと痩せて見せた。

 試着室のカーテンを開けて、自分の姿を婚約者の健悟に見せてみる。

「いいんじゃない」

と健悟。その母親は何も言わなかった。

 数着試着してみて、結局一番最初のドレスが似合っていると思ったので、衣装係にそのことを伝えようとすると、今まで黙っていた健悟の母親は、

「まさか美咲さん、そんないやらしいドレスにするんじゃないでしょうね」

「いやらしいドレスってどれですか?」

美咲が聞くと、

「一番最初に着た、肩と胸が出るドレスよ」

衣装係と美咲は顔を見合わせる。

「最近ではこのような肩の出るドレスが主流なんですよ」

と衣装係。

「でもこのドレス、肩ひもがないでしょう?何だか見ているこちらがはらはらしちゃう。最後に着たお袖があるドレスがいいんじゃない?とっても上品に見えたわよ」

「こちらのドレスは追加料金がかかってしまいますが」

と衣装係。

「お金のことは気にしなくていいわよ、美咲さん」

「私は太っているのが気になって・・・・」

「太っているのならばなおさら隠した方がいいんじゃない?こんないやらしいドレスでお式なんて、早水家として恥ずかしいわ」 

こんな時、もちろん健悟は、

「袖のあるドレスの方が似合っていたぞ」

と母親に加勢。衣装係が見かねて、

「やはりお嬢様のご意向が一番大切だと・・・」

「あらあらこの子はお嬢様って年でもないのよ。やっぱりこの子にはうちの嫁として恥ずかしい恰好はさせられないわ」

「健悟さんのお母さん」

美咲は未来の姑の方を向き、

「お金のことも気になりますので、やはり最初に着たドレスにさせて頂けないでしょうか。実はピアノの費用が二十万円掛かりまして、これ以上の出費は押さえたいんです。これから新居のお金もかかりますし」

えっ、と言って健悟の母親は黙ってしまった。隣の健悟は顔をしかめている。変な雰囲気になったのを衣装係も感じ、おずおずと

「どうなさいましょうか?」

と全員に対して聞いて来た。美咲はこの中で自分の意見を言うことが出来ない。助けを求めるように健悟を見ても、健悟はもちろん無視だ。

「後で決めてもいいですか?」

美咲はそれだけ言って、健悟親子とともに衣裳部屋を出た。


 ホテルのロビーで健悟の母親と別れた後、健悟は険しい顔で、

「何でおふくろにピアノの話をするんだ」

「だって、二十万円掛かるのは事実じゃない。無駄な出費は押さえようよ」

「で、ドレスはどうするの?あの肩の出るドレスじゃおふくろは納得しないよ」

「おかあさんの結婚式じゃないのに・・・・」

「でも君だけの結婚式じゃないよ」

「またそのセリフ?健君はとにかく私を我慢させようとするよね」

「そんなこと、ないよ」

「健君、こんな人だったっけって思っちゃう」

「そんなことを言わないでよ。午後から不動産巡りだよ。さ、頑張って」

健悟に促されて、美咲は重い足取りで駅に向かった。


 夜、美咲が実家に戻ると、母親が電話で謝りながら話していた。

「美咲が帰ってきましたが、本人からも謝らせましょうか?・・・・そんな、結構ですよ。・・・・それでしたら結納は辞退させて頂きますわ。はい、はい、主人とも相談させていただきます。ではごめん下さいませ」

受話器を置くと、母親は目を見開いて美咲を見た。

「変な人ね」

「変な人って?」

「健悟君のお母さんよ。美咲がお金のことばかり気にして、安くていやらしいドレスにしようとしているとか、孫が弾くピアノのレンタル料のことで嫌味を言ったとか、散々文句を言ってきたわ。そんなにお金のことが気になるのならば、早水家でドレスの差額代もピアノ代も出すって」

「ピアノ代は健悟君側で出してほしいけれど、ドレスは金の問題じゃないのに。健悟君のお母さんが選んだドレスが私には似合わないから嫌なんだよ」

「私も衣装合わせに行けばよかった。染五郎なんか見ている時じゃなかったのに」

「お母さんのせいじゃないよ」

「向こうがあんまりにもしつこいから、結納は辞退するって言っちゃったわよ」

「結納どころじゃないよ・・・・」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

美咲が暗い目をすると、母親は

「・・・・Q国から帰って来たばかりなんだから、いろんなことを一気に決めなくてもいいのよ」

と暗に結婚を考え直すことを仄めかす。

「そうだね。とにかく今日は疲れた。お風呂に入って来る」

自室に行こうとした美咲に向かって、母親は

「あなた宛ての手紙が来ていたから、部屋に置いて置いたわよ」


 封書は四通あった。美咲が封を切ると、採用を見送ると言う手紙とともに履歴書が送り返されてきていた。すべて同じ内容だった。美咲は手紙を握りつぶした。中途半端に研究を辞めてしまった自分、一度も就職したことのないまま三〇歳を迎えてしまった自分に対する世間の評価はこうなのだ。

 美咲はパソコンを開いて、メールを確認する。何社か面接の申し込みをしたが、その返事はない。深いため息をつき、求人サイトを丁寧に上から順に見て行った。


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