第二話 クー先生
「君は東京出身かね?」
クー・リシエの問いかけに美咲は驚きを隠せない。
「クー先生は日本語が出来るのですか?!」
思わず日本語で尋ねる美咲。
「若いころ日本にいたことがあるんだよ。」
クーは誇らしげな口調で言う。彼は、美咲の留学先のQ国立大学の法学部教授だった。小柄で痩せている。亡命先が日本だったのかしら、美咲はふと思う。クーは民主化運動家の過去があり、投獄経験もあった。とは言え教員としてのクーは学生相手に冗談も飛ばせば酒も飲む、目つきも穏やかで前科者には見えなかった。
「日本に帰ったら弁護士になるのかな?」
「いいえ、私の専門は農業支援です。この国の法律を知っておきたいので先生の授業を取っています」
「うむ、それはいいことだね。この国は法律だけは民主的だからね」
クーと美咲はふふ、と笑う。
「来年は先生の行政法を取るつもりです」
「そうかい、楽しみだね」
美咲は時々クーに呼ばれて彼の研究室を訪ねた。クーは日本を懐かしがり、日本の話を聞きたがった。
「どうしてこの国は貧しいままなのだと思うかね?」
ある時クーは美咲に問いかけた。
「自然災害が多く、インフラが整備されず・・・・」
「そうだね。しかし一番の原因は自由がないことなんだ。なんで自由がないか?それは支配者層が人々に自由を与えないから。自由を与えたら、支配者層が独占している既得権が脅かされると思っているんだろうね。人々は政治や国の運営に関われない。支配者だけが富を独占し、国は貧しいままさ」
そんな話をする時だけは、クーは老いた革命戦士の顔を覗かせる。
長い休みが明けた後、新年度の履修要綱にはクーの名前はなくなっていた。
大学の職員に聞いても、「クー先生はもう辞めた」としか答えない。さらにおかしなことに、クーの授業を一緒に取っていた学生達も「先生は辞めた」ともうしか言わないのだ。美咲がクーの話を続けようとすると、級友は話を変えるか席を立つかどちらかだった。
「クー先生はどこに行っちゃったのかな」
美咲が寮の部屋で独りごつように言うと、同室の女学生が険しい顔をした。
「いい加減にしなさい。本当はミサキにだって分っているんでしょう」
美咲は声を潜めて、
「投獄されているってこと」
女子学生は口を結んだまま頷いた。
「どうして?」
「知らないわよ。私たちが知ってどうなる問題でもないし」
「クー先生が可哀想だ」
美咲の言葉を女子学生は鼻であしらった。
「同情したところで先生は帰ってこないわよ」
美咲は黙り込んだ。この国では行方不明者が多い。そして、行方不明者に対して報道もなければ噂にもなりはしない。深入りは禁物。明日は我が身だ。人々は口をつぐんで何も考えまいとするのだ。
カナダのプロバイダー経由でアクセスしたフェイスブックやツイッターでは、ミスター・クーは世界的な有名人になりつつあった。
あろうことか、クー・リシエは自分の思いのたけをネットで全世界にぶちまけたのだ。勿論彼の勇み足に気づいたQ政府は瞬時にネットをブロック、国内ではクーの文章も、名前さえも閲覧不可能にした。
「我々はQ国が真の共和国となることを求む」
この書き出しから始まる決意表明文の起草者はクー・リシエだ。
先生、何でこんなことを。美咲はパソコンの画面の前で顔を覆う。
Q国は普通選挙がないから一党独裁の専制政治が続いているだの、裁判なしに国民を投獄できる労働改造所があるだの、宗教は政府の許可制だの、みんなが知っているけれど黙っていることを書きたい放題である。しかも驚いたことに百人近くの賛同者もいる。
彼の支援団体はヨーロッパで発足し、その支援団体に調査によると、彼はQ国内の拘置所に身柄を拘束され裁判を待つ身になっているらしい。
部屋に同室の女学生が入って来る。美咲はパソコンの画面を閉じることなくクーの表明文を読み続ける。女学生は不安げな顔で美咲と画面を見つめた。
ヨーロッパでは支援が始まっているのに、この国では、いやこの大学では教え子たちでさえ見て見ぬ振りだ。でもこんな恐怖政治の国で、私たちは一体何ができると言うのだ。美咲は深いため息をつく。
数日後、美咲は大学を出たところで日本人の男二人に声を掛けられた。留学の下調べに来た日本人かと思い、美咲は尋ねられるままに専攻や研究対象を答えた。男の一人が聞いた。
「クー・リシエ教授の授業は取っていましたか?」
美咲は口をつぐんで男の顔をまじまじと見た。男は声を潜め、
「チャンネルエイトの赤川と言いますが、クー・リシエ氏について取材をしています。ご協力頂けますか」
美咲はあたりを見渡してから、同じように声を潜め、
「ごめんなさい、私の口からは・・・・」
歩調を早めると、赤川と名乗った男は美咲について来た。
「クー氏のことがヨーロッパで大きく報道されているのは知っていますか?」
美咲は男の方を見ずに頷いた。
「名刺下さい」
美咲は前を向いたまま言った。差し出された名刺を指先だけで受け取ると、美咲は点滅した信号を駆け足で渡った。男たちは追いかけて来なかった。
秋が深まるころ、美咲は学会のため日本に戻ることになる。成田で飛行機を降りると同時に肩の力が抜けていくのが分かる。入国ロビーのテレビではどこかの企業が顧客情報を漏洩させたとのニュースが流れている。日本ではこれがニュースになるのか、Q国では個人情報なんて筒抜けなのに。
日本国内では電話もメールもネットも誰にも傍受されない。どこで何を言っても自由だ。京成電鉄の中で帰国を報告するメールを打つ。大学の同期や教授、日本にいるQ国人など。実家につく頃にはお帰りメールが続々届く。この瞬間が好きなのだ。やっと帰国できたと実感する。
「最近レストランを開きました。食べに来てください。一時過ぎならば混んでいません」
こう返信してきたのは在日Q国人のタシだ。留学生として来日し、日本人の配偶者を得てそのまま居ついてしまった口だ。
翌日の昼過ぎに美咲は住所を頼りに店を訪れた。北区十条の商店街の中の小さな店だった。美咲が店に入ると同時に最後の客が出て行った。
「夜はそこそこ混んでいるんだよ」
タシは言い訳するように言う。美咲はQ国名物の辛みの効いた麺を注文する。麺を持ってきたタシは
「どう?Q国は?」
美咲はあたりを軽く見やってから小声で、
「クー先生がいなくなっちゃった。もちろん国内では全然報道されていないわ」
「日本ではニュースになっているよ」
「知っている。先生がノーベル平和賞の候補になったから更に大きく取り上げられるようになったわね」
タシは美咲のテーブルに腰を下ろした。
「クー先生、優しかった。ボクが日本に留学できたのも先生の推薦があったからだよ」
「学生はみんなクー先生が好きよ。でもQ国では誰も先生を庇わないわよ」
私も含めてね、と美咲は付け加えた。
タシは言った。
「クー先生のサポートグループを作ろうと思っている」
「大丈夫なの?」
「ボクはもう日本国籍を取っちゃったし、家族も親戚もみんな日本に呼び寄せた。しばらくQ国には帰らない」
「私も何かしたいな」
「ミサキは無理しないで。Q国に入れなくなっちゃうよ」
「そうね・・・・」
店に客が入って来た。タシは注文を取りに立ち上がり、それきりクーの話は終わりになった。
自宅のパソコンでクーについて検索をしていると、フランスの支援団体がノーベル平和賞授賞式当日に同時多発抗議を呼び掛けていることが分かった。十二月十日にクーが受賞してもしなくても釈放を求めるデモをして、その後Q国大使館前で抗議活動をするのだ。
これならばできるかも。美咲はタシにメールで情報を教えた。タシは日本語の読み書きが得意ではないので英語とQ国語でのやり取りだ。
「デモはやったことはないから分らない」
それがタシに答えだった。Q国ではそもそもデモがない。
美咲「警察とのやり取りとか日本語での告知は私がやるわよ。ただ私が表に出ることはできない。タシがサポートグループのリーダーになって欲しいのだけれど、いい?」
タシ「できる」
美咲「じゃ、今日にでもサポートグループを立ち上げて頂戴」
タシ「どうやって?」
美咲「Support for Mr.Cooって書いたホームページでも立ち上げておけば?クー先生の書いた決意表明文をQ国語、英語、日本語で書いて、十二月十日にQ国大使館周辺でデモを予定していると書いておけばいいわ」
タシ「ボク、ホームページを作ったことがないよ。それに日本語も書けない」
美咲「それも私がやっておく。フランスのサポートグループの日本支部の形にしておこうか」
タシ「了解」
まず美咲がしたことは、クー氏救援協議会という団体名を使い、ツイッターやフェイスブックを始めた。更にフランスの支援団体に連絡を取り、同時多発デモを日本でもしたいこと、自分達はそちらの団体の日本支部を名乗りたいなどと連絡した。
返事はすぐに来た。一緒に十二月十日にアクションを起こそう、ぜひ我々の団体の日本支部を名乗って欲しい。
彼らは大仰な支援団体を名乗っているけれど、実態は在仏Q国人が個人でやっている支援だろう。日本も同じだ。日本支部の会員はタシと美咲の二人しかいない。言い出しっぺのタシは自由のない国からきた外国人だ。自分の意見を公に言う経験がない。デモや抗議の意味さえ分かっていないのだ。
学会の合間に美咲は警察に出頭。デモの趣旨とデモ隊は百人ぐらいだと伝えると、警察がデモのルートを提案してきた。開始時間は午前十時。それで警察の許可は取れた。
許可に次いで、横断幕とクーの顔写真入りのプラカードを三十枚外注、拡張器の手配、更にデモの口上を考案、デモ参加を呼びかけるチラシ作成------。目の回るような忙しさだ。
マスコミでも呼んで派手にやるか。
美咲はチャンネルエイトの赤川の名刺をいまだに持っていた。名刺に書かれたアドレスにメールをした。
「Q国立大学で声を掛けて頂いた者です。十二月十日世界人権デーに合わせて世界同時多発デモを東京でも行おうと思っています。是非取材にいらしてください 桐島美咲」
二日後に返事が来た。
「ご連絡有難うございます。取材に伺います。 赤川太一」
クーはノーベル平和賞受賞者にはならなかった。さらに裁判が終結し、懲役十年の刑が科せられた。しかし彼のことは日本でも世界でも大きく報道されている。報道こそがQ国政府への抑止力や威嚇になるのだ。世界的な有名な受刑者を政府は粗末にできはしない。ネットをフル活用し、救援協議会の名前でデモの告知を至る所で打った。本当は日本での学術仲間や友人たちにも告知したいところだったが、誰がQ政府に通じているか分らないのでやめておいた。
美咲は一度母校の教授にクーについて尋ねたことがある。
「僕もクー先生とは面識があるよ。彼、日本にいたことがあるし」
「日本の学術界で救援活動は起こさないのでしょうか」
美咲の言葉に教授はちょっと困った顔をした。
「クー先生のことはQ国の国内問題だよ。私たちとしては何も出来ない」
「でも、ネットで国を批判しただけで懲役十年っていうのは、ちょっと・・・・」
「確かに可哀想だね。でも私たちがQ政府に意見を言う立場にはないよ」
更に彼は付け加えた。
「それに私たちのやっていることは日Q友好事業だし」
十二月十日晴れ。デモ日和というものがあるならば、今日がその日だ。美咲はつばのある帽子をかぶった。レンズに薄い色がついている太縁の眼鏡をかけてデモ隊出発の公園に出向いた。駅構内の鏡に自分の顔を映す。これならば私だと分らないはず。デモ参加者が公園に入りきらないほどになったらいたらどうしよう-----。
出発時間の午前十時。参加者は二十人足らずしか集まらなかった。タシの友人たちや店の常連、Q国が嫌いな右翼風の男数人。吹けば飛ぶようだ、美咲は思ったが、デモはデモだ。赤川は一人でやって来た。小さなデモだというのに、テレビ局のステッカーを貼った大きなテレビカメラを持っている。
「Release Mr. coo クー・リシエ氏即時釈放」
そう書かれた横断幕を先頭の四人に持たせてとりあえず出発だ。後方の参加者全員にクーの顔写真が付いたプラカードを持たせた。スタッフ腕章を付けた美咲はデモ隊の顔が映らないように横断幕をカメラで納めたり、隊の後ろから写真を取ったりと大忙しだ。
「クー氏を返せ」
「即刻釈放せよ」
なまりのある日本語でシュプレヒコールを飛ばしているのはタシである。シュプレヒコールの合間の口上はタシの日本人配偶者に任せた。
「お騒がせしております。私たちはクー・リシエ氏不当逮捕を受けて緊急で結成した、国際救援グループ、アクション・フォア・クー日本支部でございます。本日十二月十日はノーベル平和賞授賞式、並びに世界人権デーです。世界中の在Q国人並びクー氏を支援する有志がこの日に合わせて世界同時多発抗議を行っています。」
歩道に出た美咲は通行人にクーへの支援を呼びかけるビラを渡す。
「ビラの裏はクー氏釈放の嘆願書になっております。ご署名の上Q国大使館にファックスしてください。」
中には美咲が何も言わないうちに手を伸ばしてビラを求めてくる者もいた。用意した三百枚はデモ中にすべて配り終えた。
タシの妻が更に続ける。クーが獄につながれる原因となった決意表明文を読み上げる。
「決意表明文抜粋
我々はQ国が真の共和制になることを望む。今我がQ国では人民の命は一枚の落ち葉よりも軽く、すべての自由は国家による制限が加えられている。
一党独裁制により、我々は選挙で自分の意見を表明する自由も許されない。
言論の自由はなく、通信の自由も保証されてはいない。すべての通信は国家により傍受され、インターネットではいまだに検閲がなされている。
集会の自由、結社の自由もなく、すべて政府の許可制である。
そんな中で有史以来独自の文化文明を花開いて来たQ民族が、更なる飛躍ができるだろうか。否、否、否である。
我々はQ民族の未来を信じる。人が人として尊重され、当たり前に人としての権利を享受する、そのような社会でこそQ民族が再び輝きを取り戻すことが出来るのだ
Q国有志 代表クー・リシエ」
美咲は沿道の片隅から小さな拍手が起こるのを聞いた。クー先生、あなたは間違っていないのだ。
「シュプレヒコール!クー氏を返せ!」
「クー氏を返せ!」
「フリー・クー!」
「フリー・クー!」
「セーブ・クー!」
「セーブ・クー!」
「リリース・クー!」
「リリース・クー!」
最初はためらいがちだったタシのシュプレヒコールは徐々に熱を帯びてくる。全世界にこのシュプレヒコールを聞かせてやりたい。美咲は思う。クー先生を牢屋に閉じ込めておく権利など誰も持ってはいない。
人数が少ないせいで予定よりもずっと早くデモ隊はQ国大使館近くに到着してしまう。デモ隊全員で大使館前で抗議をしたかったが、警察は許さなかった。大使館は一度に五人しか立てないのだ。タシを含め横断幕を持った先頭の四人と美咲が最初に大使館前に立つ。赤川もカメラを肩に担いでついて来た。
デモと同じようにタシがシュプレヒコールを飛ばす。
「クー氏を返せ!」
「クー氏を返せ!」
大使館前では職員がデモ隊にカメラを向けている。美咲は帽子のつばを下げた。大使館の威圧的な大きさも腹立たしいし、Q国に出入りしているくせにクーの受難を傍観している学術仲間にも日本の教授にも怒りを覚えた。
美咲は大使館に対して怒鳴り声を上げた。
「恐怖政治は許さないぞ!」
横断幕とともに五人は大使館から離れた。タシの目が赤い。タシは言った。
「クー先生の言う自由ってこういうことなんだね。間違っていることは間違っているって言うことなんだね」
赤川は挨拶もそこそこに現場を去る。美咲も自宅に帰って今日のデモの様子をすぐにネットにアップしたかったので、二十人全員が大使館前で抗議を終えるのを待って、すぐに撤収した。
郊外の実家についたのは午後一時前だった。居間のテレビをつけると、一時のニュースをやっていた。
「クー氏を返せ!」
二十人しかいなかったデモなのに、映像で見ると大勢の人がクーの釈放を求めて集まっているように見えた。デモ隊が掲げたクーの顔写真のプラカードがテレビの画面いっぱいにひしめくように映る。次いでQ国大使館前の抗議の場面。一番端に立っているのが美咲だ。あ、映っちゃった。つばのある帽子と眼鏡で素顔は分らない、はず。
「恐怖政治は許さないぞ!」
美咲の怒鳴り声でこのニュースは終わり。拡張器は使っていなかったのに、彼女の声はマイクに拾われていた。
「赤川様 今チャンネルエイトのニュースを見ました。私たちのアクションを取り上げて下さりありがとうございます。クー氏釈放に向けて頑張っているQ国の仲間の励みにもなりますし、第一クー氏を不当に拘束しているQ国政府への牽制になりました。これからもクー氏のことをメディアで取り上げて頂けると幸いです。今日の抗議がクー氏釈放の第一歩になることを信じています。 桐島美咲」
赤川からの返事は来なかった。