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泥の町  作者: 山口 にま
17/17

最終話 革命前夜

 梅雨入り宣言が出され、泥の町全体が泥水の中に沈んだようになった。そんな夜、多聞の電話が鳴った。発信者の表示は美咲だった。多聞はためらったが、話だけならいいかと自分に言い聞かせて電話に出てみた。


 美咲は元気そうだった。ひとしきり挨拶を交わした後、

「あ、別によりを戻したいとかってわけじゃないから。実はね、うふふ、私、明日からQ国に行くの」

「ビザが下りたの?」

「今回は短期のビザだけどね。仕事で行ってくる。多分もう研究ビザは下りないだろうけれど、いいわ。研究なんて辛気臭いことはやってられないもん」

「良かったね。Q国にはどのくらい行くの?」

「一週間。駐在したいけれど、そういうチャンスはまだ巡って来ないの」

「家庭もあるしね」

「家庭はないわよ」

えっ、と多聞は聞き返す。

「あれから離婚することになっちゃってね。最後にごねられたけれど離婚してもらえたの。多聞の言う通りね。いろんな人を傷つけちゃった」

「どうして離婚したの?」

「多聞のことがばれちゃって」

「そうだったの?なんか責任感じちゃうな」

「多聞のせいじゃないって。もともと離婚するつもりだったもの。向こうも特定の女性がいるみたいだったし。でも元夫が多聞の名前とか職業とか知っていて驚いたわ。まさかとは思うけど、彼から何にも接触はないよね?」

「俺の方には特にないけど。旦那さん、探偵でも雇ったのかな?」

「それが・・・あやちゃんの逆襲があって」

「あやの?」

「あやちゃんがあの人に言ったみたい」

多聞はしばらく口がきけなかった。我に返り、

「ごめん!本当にごめん!」

「大丈夫大丈夫。多聞とは何にもないって言いきった。元夫も信じたみたい。と言うか、信じたいでしょ?嘘も方便よ」

「でも・・・・君のお父さんにも迷惑をかけちゃったし」

「父?」

美咲は黙り込む。

「お父さんの方は大丈夫だった?ずいぶん怒っているみたいだったけれど」

「去年の八月に、父は死んだんだ」

美咲は声を潤ませた。別れを告げた日に、美咲が自分を訪ねてきたのは、葬式の後だったのだろうか、と多聞は思う。

「父も死んでしまって、母も姉夫婦の近くに越していくの。だから、もう、そっちには戻らない」

「泥の町には戻らないんだね」

「泥の町?そう、泥の町ね」

美咲は低く笑う。

「泥の町だけど、私が育った場所よ」

「俺、この町に来て良かったと思っている。君と会えたし」

そして一呼吸おいて、

「君のこと、大好きだった」

美咲はふふんと笑って、

「会っている時は一言もそんなことを言ってくれなかったくせに」

「それは君が望んでいないと思ったからさ」

「そんなことはないわよ」

美咲の声は揺れている。笑っているのか泣いているのか分らなかった。

「振出しに戻るんだ」

美咲は自分に言い聞かせるように言った。

「振出し?」

「いろんな人を傷つけて、自分も傷ついて、そうして元いた場所に帰るんだ」

「そうだね」

美咲も多聞も電話を切ることが出来なかった。受話器の向こうで美咲は泣いていた。

「泣かないで」

「うん」

「父と交わした最後の言葉は・・・」

「最後の言葉は、何?」

「帰って来てもいい、だった。この泥の町に」

美咲の嗚咽が漏れる。

「Q国での君の活躍を祈っている」

美咲は

「明日、早いからもう切るね」

そして、静かな声で

「さようなら」

と言った。多聞もさようならを返し、電話を切った。


 二年半ぶりに降り立ったQ国は変わっていた。町は急速に近代化し、新宿と見まごうばかりに高層ビルが林立している。そして何より変わったのは、警備の物々しさだ。

「何なんだ。町中軍人だらけではないか」

タクシーから外を眺める上司、千田は驚きの声を上げる。

「革命前夜ですよ」

と美咲。

「革命前夜?」

「学生たちが民主化運動に目覚めてしまって、連日デモですよ。暴れる学生と鎮圧する軍隊の追いかけっこです」

「これじゃ歩いた方が早いよ」

ともう一人の上司橋本は言う。突発的に学生たちが座り込みを始めたらしく、美咲たち三人を乗せたタクシーは渋滞に巻き込まれる。

「Q人も変わりましたよね。以前はお上に盾突くことなんて考えもしなかったのに」

橋本は思いついたように言った。

「そういえば、クー何かという民主化運動家がいたね」

美咲は、

「クー・リシエ先生は私の恩師です。あと八年は獄につながれていると思います」


 翌日以降は地方の工業団地への視察。帰国間近に首都に戻ると、座り込みをする学生の数が膨れ上がっていた。学生たちは官庁街に集結しているらしい。彼らは民主化を求めるプラカードを手に、美咲たち一行を乗せたタクシーを追い越していく。

「即釈放 クー・リシエ」のプラカードも見えた。美咲はタクシーの中からそっとそのプラカードを撮影した。

「やめた方がいいですよ。軍にカメラを没収されます」

運転手が注意をする。美咲はカメラをしまう。クー先生、見えますか。やっと時代がクー先生に追い付いたのですよ。みんなが当たり前に自由な社会を要求するようになったのですよ。


 やがてタクシーは全く動かなくなった。

「地下鉄で行きませんか?」

美咲は上司に提案する。地下鉄の駅へはここから歩いて十分程度だ。美咲たちが地下鉄を目指していると、彼らを追い越すように軍用装甲車が数台、座り込みの学生の群れに近づいて行った。

「無許可での道路占拠は禁止されている。即刻撤収せよ」

装甲車からの呼びかけは数度続いた。もちろん学生たちは立ち上がろうとしない。軍人が銃を構えているのが見える。

「千田さん、橋本さん、やばい状況ですよ」

美咲は上司に言う。

「催涙弾を撃ち込まれますよ。急ぎましょう」

美咲はバックからハンカチを出して口を覆いつつ、駅に向かった。乾いた音が響いた。ああ、やだ。催涙弾だ。玉ねぎを切った時みたいに目が痛くなるんだよね。美咲は反射的に目を強く閉じた。しかし、玉ねぎの匂いもしなければ、目への刺激もなかった。美咲は恐る恐る目を開けた。軍人が撃ったのは催涙弾ではなく実弾だった。あまたの学生たちが血を流して路上に倒れていた。


 美咲たち三人は一目散に地下鉄を目指して走った。土地勘があるのは美咲しかいない。ヒールのあるパンプスで美咲は二人の上司を導くように、先頭を切って走った。地下鉄の入り口に飛び込むように入り込む。地下鉄構内は別世界のように静かで平和だった。その平和な世界で三人の日本人だけが震えている。まもなく学生たちが頭や腹から血を流している仲間を抱えて地下鉄になだれ込んできた。痛い痛いと声を上げているもの、痙攣を起こしているもの、ぽかんと目と口を開けたまま絶命しているもの、様々だった。美咲がスマートフォンを構えると、美咲に気が付いた学生たちが頷いた。撮影の許可が下りた。美咲はその地獄絵を余すことなく動画に収めた。


 三人がホテルに戻ると、すでに軍が来ていて、宿泊客の外出を禁止した。しかしテレビだけは古いソープオペラを流している。さっき見たあれは何だったのだろう。耳を澄ませても、もう銃声は聞こえなかった。


 翌日は帰国である。何故かホテルから空港に向かうバスが用意されていて、美咲を始め外国人は強制的に詰め込まれる。銃を構えた軍人も同乗する。すべての窓のカーテンは閉じられている。カーテンの隙間から覗いてみると、バスとすれ違うのは軍事車両ばかりだ。一人の日本人がカーテンを開いて町の様子を撮影しようと試みた。

「ストップ!」

軍人が制止する。日本人からカメラを取り上げ、何も撮影されていないことを確認してからカメラを返す。美咲は自分のスマートフォンをカバンの底にしまった。軍人はすべての窓のカーテンを閉めるように改めて命じ、その後はカーテンに触れることも許さなかった。


 空港は水を打ったような静けさだ。誰も無駄口を叩こうとはしない。美咲は搭乗ロビーで見知った顔を見かける。

「井口先生じゃないですか」

美咲は中年の女性に声を掛ける。彼女は地質学者で、専攻こそ違うが、美咲とは学者仲間だった。女性は美咲を認めると、驚いた顔をする。

「こんなところで桐島さんとお会いするなんて」

美咲が学会から追放されたことを知っているようだ。

「先生はどうしてここへ?」

「学会があったの。あなたは今は何を?」

「民間に就職しました」

「そうだったの」

美咲は井口に顔を近づけて、小声で聞いた。

「先生、昨日の、見ましたか?」

井口は口を一文字に結んだままで、小さく頷いた。

 

 成田行きの飛行機は定刻に離陸した。数時間で成田だ。美咲の上司の千田も橋本も、昨日目撃した発砲事件については何も言わない。

「疲れた・・・」

年長の千田はそういうと、離陸するとすぐに座席を倒し、目を閉じた。


 夕方成田空港に着いた。到着ロビーに出ると、報道陣が待ち構えていた。

「Q国はいかがでしたか?軍が学生たちに発砲したとの情報がありますが、何かご覧になりましたか」

レポーターたちがQ国から帰国した一団にマイクを突き付けてくる。やはりニュースは世界を駆け巡っていたのだ。地質学者の井口は一言も発せずに、報道陣から逃げるように立ち去る。千田も橋本もうつむいて報道陣と目を合わせまいとする。美咲も二人の影に隠れるように京成の乗り場に向かった。誰も報道陣の質問には答えない。事が起こったら軍が乗り込んできて、宿泊客を事実上ホテルに監禁、出国するまで火器を携帯した軍人が目を光らせて、いかなる自由も許さない。帰国者たちはQ国の恐ろしさを身をもって思い知ったのだ。


 「桐島さん。桐島美咲さん」

美咲は自分の名前を呼ばれて、立ちどまった。声の主は報道カメラを構えた男だった。この人___。美咲が留学中、大学の前で声を掛けてきたジャーナリストの赤川だった。美咲はこの男にQ国大使館前の抗議を撮影させたのだ。

 赤川はもう一度美咲の名前を呼んで、

「Q国は革命前夜だったと言われていましたが、革命は成就したのでしょうか」

と質問した。美咲は帰国者たちを掻き分けて、カメラの前に立つ。

「やめなさい」

千田が美咲の腕を取る。美咲は質問に答えた。

「革命は成就しませんでした。軍が座り込みの学生たちに向かって発砲していました。数えきれないほどのけが人が出て、息をしていない人も見ました。みんな、血まみれでした」


 「革命は成就しませんでした」

多聞は美咲の声を聞いたように思い、声のする方を振り返った。世界人権デーの日曜日と同じように、美咲はよく通る声でカメラに向かって訴えかけていた。


 多聞は、祐子と、祐子の息子三人で温泉に来ていた。祐子の息子は片時もゲーム端末を手放さないような五歳児で、そんな息子と多聞は祐子が湯殿から戻るのを、部屋で横になりながら待っていたのだ。振出しに戻る。多聞は美咲の言った言葉が現実となることを思った。振出しとはこういうことか。


「多聞、ねぇどうしたの?」

部屋に戻って来た祐子が多聞の顔を覗き込む。

 多聞はチャンネルを変えることが出来なかった。


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