第十六話 離婚届の保証人
電車に乗った後も美咲の涙は止まらなかった。美咲は父親を亡くしたばかりだった。初七日が過ぎ、多聞に会いたかった。会って優しく励まされたかった。学会から追放されて辛いとき、いつも多聞がそばにいたではないか。
多聞が最後に言った、
「周りが不幸になる」
「俺は別の人と付き合っている」
が美咲の胸に突き刺さった。
好きなのに、こんなに好きなのに。もうおしまいだ。私は嫌われたんだ。多聞は美咲を拒絶した。私はもう一人なんだと美咲は思う。多聞は言った。「旦那のところに帰れ」と。あそこに帰って、何があると言うのだろう。気の合わない配偶者とともに、つまらなく老いていくだけだ。
電車の窓の下で、泥の川がゆっくりと流れていく。こんな泥の町でも私が生まれた町だ。泥の町で私と多聞はいろんなものを分かち合っていた。それなのに。多聞もいない。お父さんもいない。私は一人になってしまったのだ。
もう美咲に帰る場所は夫の元しかない。淀んだ気持ちで美咲は改札を出た。地下鉄から地上に出ると、人々の熱気が押し寄せてくるようだった。今日は秋の大祭の日だったのだ。神輿が通った後らしく、往来は車の行き来が止まり、浴衣や甚平姿の男女が笑いさざめいている。美咲はまっすぐ家に帰る気になれず、神輿を追いかけるように祭りをしている神社に向かった。
日がすっかり落ちた神社は祭りのクライマックスで、宮入のため神輿が何基も大鳥居の前で待機している状態だった。法被姿の男たちが、自分たちの神輿を我先に宮入りさせようと競り合っている。この祭、多聞と来たかったな。美咲は目の奥に涙がたまっていくのを感じる。屋台の照明で神社前は昼間のような明るさだ。美咲は一組の男女を見かける。男は女の腰に手を回して楽し気に耳元で何かをささやいている。その後姿、わが夫健悟だった。
美咲は音のない世界に放り込まれる。やはりここにも戻れないのだと美咲は実感する。男は後ろからやって来る神輿を警戒するように振り返った。美咲と健悟は目が合った。健悟は女の体から手を離す。そばにいた女は急によそよそしくなった健悟をいぶかし気に見やり、そして彼の視線の先を探った。美咲はバッグの肩ひもを命綱かのように固く握り、健悟の出方を待った。
美咲が帰宅すると、すぐに健悟が帰って来た。
「近所でいちゃいちゃしないでよ。噂になるじゃない」
美咲は言った。
「いちゃいちゃなんかしていないよ。テニスサークルのメンバーとたまたま会って・・・」
「へー、テニスなんかしていたんだ」
健悟は急に居直るような態度になって、
「君は僕には無関心だもんな。実家にばかり出かけていて。実家に行くと言って、本当はどこに出かけていたのやら。今日はてっきり泊りになると思ったよ」
「親が死んだんだから実家に戻るのは当たり前でしょう!私の親が死んだときに、何をやっているのよ!」
美咲は自分でも驚くほど大声で健悟を責め立てた。愛するものを立て続けに失った悲しみや、夫に裏切られた悔しさが一気に美咲に押し寄せた。
「親が死んだとき?」
健悟は美咲の言葉をせせら笑った。
「じゃあ聞くがな、俺が物理学賞を取った夜、お前はどこに行っていたんだよ。横手とかいう中学校の教員の部屋に上がり込んでいたんだろう」
健悟の口からいきなり多聞の名前が出たので、美咲は返事が出来ずにいた。
「お前がこそこそ夜中にメールしたり電話していたことは全部気づいていたんだぞ。離婚だ離婚!この家から出ていけ。お前は勝手に生きろ!慰謝料を請求してやりたいぐらいだ」
「浮気なんかしていませんよ、私は」
「嘘つけ!証人がいるんだからな」
「証人?」
「あやっていう女の子がうちに来たぞ」
健悟の言葉に美咲の目の前が暗くなる。暗転した画面に、ゲームオーバーの文字だけが点滅している。美咲はソファーに座り込み、しばらく手で顔を覆っていたが、
「離婚することはやぶさかじゃありません。週明けにでも用紙を取り寄せます。部屋が決まり次第出て行きます。それでいいでしょう?」
美咲は寝室から布団を取って来て、ソファーの上に敷いた。
「もう別々に寝ましょう」
健悟は憎々し気に美咲を睨みつけた後、音を立てて寝室のドアを閉めた。
美咲は一度だけ実家に戻った。
「健君と離婚しそうなの」
美咲は母親に言った。母親は心配顔で、
「どうして?健悟君が浮気でもしたの?」
「私が浮気しちゃった」
美咲が正直に言うと、母親は顔をくしゃくしゃにさせて、
「何だってそんな馬鹿なことを!」
と叫んでむやみやたらと美咲の頭や背中を叩いて来た。
「自分の娘が淫乱だったなんて!お父さんが生きていたら、どんなに嘆くか」
淫乱。今時B級ピンク映画でもこんな言葉は使われないのに、時代だなぁと美咲は思ったが黙っていた。テーブルにうっつぶして母親は泣き崩れる。美咲は母親の震える背中に向かって、言った。
「お父さんは知っていたよ」
母親は顔を上げる。
「男の人と会っている現場を押さえられたこともあるもん」
「お父さんは何て言っていたの?」
「健君と合わないんだったらこっちに帰って来ても良いって言ったよ」
「じゃあ私だけが知らなかったってこと?」
「まあそうなるね」
母親は何かを考える顔になり、
「そう、そうなの・・・。お父さんは意識がなくなるまで、ずっとあなたのことを心配していた。だからなの・・・・」
病床でも父は自分を案じていたのか。しばらく美咲はぐずぐずと泣いていたが、泣き止んだ頃を見計らい、母親は聞いた
「浮気相手と今後はどうするの?再婚するの?」
美咲は首を横に振った。
「振られちゃった。お父さんが倒れた後、しばらく連絡しなかったら、好きな人が出来たんだって」
美咲の返答に母親はため息をついた。
喫茶店で向かい合う多聞と祐子。生徒や保護者の目を避けるために、互いの勤務地から離れた場所で会っている。祐子は頬を赤らめ、
「この間はあんなことになっちゃって・・・・」
「いいんじゃないですか。自然な流れで」
と多聞は答えた。裕子は不安げな面持ちで、
「私たちのこれからなんだけれど」
多聞は一呼吸置いた後で、
「立花先生さえ良ければ、これからもお付き合いしたいな」
多聞の言葉に祐子は表情を緩める。しかし、すぐに改まった態度になり、
「私、横手先生に言っておきたいことがあるの」
祐子に言葉に多聞は身構える。また既婚者ではないだろうな。祐子は言いにくそうにしていたが、やがて
「私、死別した夫がいました」
と言った。多聞は驚いたが、
「それは大変でしたね」
と何とか返した。多聞は祐子が独り身だと知ってちょっとほっとする。祐子は言葉を継いだ。
「夫との間に、六歳の息子がいます」
多聞は息を飲む。こう来たか。今さら駄目だとは言えなかった。
美咲が健悟と住んでいたマンションに戻ると、すでに離婚届が用意されていた。保証人の欄は健悟の父と母が記名捺印してある。届出人である夫妻の名前はまだ書かれていない。
「ここまで来たら離婚で良いですよ。でもね、これだけは言わせて。不貞行為は一切ありませんからね。あやっていう女の子があなたに何を言ったか知らないけれど、あの子は心の病気で仕事にもつけないような人なのよ。そんな人の話を真に受けて・・・・」
健悟から慰謝料を請求されてはたまらない。美咲は肉体関係だけは否定し続けた。
「横手君とは大学の同期で、普通の友達よ。たまたま駅前で会えばお茶ぐらい飲むわよ。それを家に入り浸っているとか、浮気をしているとか。あなた、自分のことを棚に上げて良く言えるわね」
「ピルを飲んでいたじゃないか。あいつとの子どもを作りたくなかったんだろう」
健悟の反論に美咲は黙る。ピルを飲んでいたのは、他ならぬ健悟の子どもを産みたくなかったからだ。多聞とは結局一度しか肌を合わせていないが、避妊はきちんとしてくれた。あなたとの子どもを作りたくなかったからだ、そう美咲は言いたかったが、それはそれで背信行為になりそうなので美咲はあくまで、「婦人科の医師の判断だ」で押し通した。
「ねぇ美咲」
健悟は優しい声を出した。
「今回のこと、親にも相談したんだ」
「そうでしょうね」
「親は何て言ったと思う?」
「慰謝料を取り立てろ、と」
健悟は苦笑しつつ、
「そんなことは言わないよ。早水家の嫁になるような子だ、美咲ちゃんはそんなことをするような人じゃない、信じてあげなさい、そう言ったんだよ」
美咲は保証人欄に記載された義父母の名前に目を落とした。
「美咲、離婚する理由がないじゃないか。君がお父さんを亡くしたばかりなのに、軽率なことをしたことは、俺も反省している。まさか、彼女と変な関係だと疑っているんじゃないよね?だから離婚するなんて言わないで」
健悟と元の鞘に収まるのか。多聞も言った。旦那のところに戻れと。また健悟とベッドを共にして、妊娠をし、早水家の子どもを産んで・・・・。そしてこんな退屈な結婚を陰で支えてくれる多聞はいない。
「美咲が研究をやめて、結婚したいって言ってくれた時、嬉しかった」
健悟が顔を背けているのは涙をみせまいとしてか。美咲の気持ちは決まっていた。
「私、結婚したいなんて一言も言っていないわ」
えっ。健悟は目を見開く。
「研究をやめて日本に帰って来るとは言ったけれど」
健悟は記憶の糸を辿るように、考え込む。
「それから私、あなたに黙っていたことがあるの」
「何?」
「研究をやめたのは、学会から追放されたからよ。Q国の政治犯を支援して、Q国に入国できなくなったのよ」
「何でそんな大切なことを言ってくれなかったんだ」
「あなたの授賞式の夜に言おうとした。でも、あなたの家では、私の身辺を探るような動きがあるからとても恐ろしくって言えなかった」
「身辺なんか探っていないよ」
「家風が合いません。離婚してください」
美咲は深々と頭を下げた。健悟はしばらく悲し気に美咲を見ていたが、深く息を吐くと、離婚届の夫の欄に記名捺印して、美咲の前に差し出した。
多聞が言った。「いろんな人を傷つけるだけだ」と。ここに至るまでに、数えきれない人の心を傷つけてきたのだ。美咲は一字一字刻むように自分の名前を記し、捺印した。




