第十五話 夏の終わり
美咲からの連絡は途絶えたままだった。これが潮時と言うことか。家に来てよ、まだスパークリングワインを飲んでいないよ。そんなことも多聞は美咲に伝えらずにいる。そろそろ旦那に返してやろうか。自分がむしり取るように美咲を離婚させたら-----。
美咲と結婚?
彼女からはあんまり家庭的な匂いがしないんだよね。いや、待てよ。海外生活も長いし、それなりに生活能力があるんじゃないか。豚の生姜焼きぐらい焼けるだろうに。あんな女が家にいたら・・・・・。
美咲と肌を合わせている間、彼女は何度も満足げに吐息を漏らしていた。美咲はあんな姿態を旦那にも見せているはずだ。まさか、俺に抱かれた後も家に帰って平然と旦那と寝たんじゃないだろうか。
美咲は二言目には夫とうまく行っていないと言うが、その割には毎晩おとなしく夫の元に帰って行く。俺が目の前にいる時は、俺を好きだと言うが、では俺がいない時は?
多聞の中で美咲への疑念が膨らんで行った。美咲は俺との未来を何一つ望んでいない。
このまま美咲と続けたら誰が幸せになると言うのだろう。いつか旦那にも知られる。美咲が不幸になる。美咲の親も悲しむ。そしてそれを美咲が一番わかっている。とはいえ、多聞は美咲に未練がないわけではなかった。彼女の弾けるような笑顔をもう一度見たいし、彼女の柔らかい体をまた抱きたかった。
一度、昼休みの時間に美咲の携帯に電話をしたことがあった。美咲は出なかった。
夏になって、多聞には一つの出会いがあった。他校との試合で隣の市へ生徒を引率した時、見知った顔を見かけた。県主催の研修会で知り合った、数学教師の立花祐子だ。お互いに会釈だけして、その時は別れた。
翌週の土曜の研修会に、開始時間ぎりぎりに参加した多聞は、空席がなかなか見つからない。
「ここ、空いていますよ」
声を掛けてきたのが、祐子だった。多聞は礼を言いつつ祐子の隣に座る。
「先週はお疲れさま。西中の陸上部は強いって有名ですけれど、横手先生がご指導をなさっていたのですね」
「いやいやとんでもない。生徒たちが勝手に練習してくれるから」
会話を交わしつつ、多聞は祐子の風貌をさりげなく探る。自分より若干年上と言うところか。指輪ははめていない。
研修会の後は交流会と称するパーティーがあった。多聞は申し込みをしていなかったので帰るつもりだったが、祐子に強く誘われて、そのまま残ってパーティーに参加した。祐子は非常に背が高く、ヒールを履くと多聞と変わらないぐらいの背丈になる。祐子は自分から、
「学生時代にバレーボールをやっていて」
と説明した。
「バレー部の顧問ですか?」
多聞の問いに、祐子は首を横に振り、
「運動らしい運動はしていないんですよ。もっぱら今は観る方です」
「ワールドカップも近いですしね」
多聞がそう言うと、祐子は少し言い淀んだ後、
「バレーも観ますけれど、今は違うのが好きで」
「先生は何が好きなんですか?」
「あの、いわゆる総合格闘技が・・・・」
あなたがリングで戦っても十分強そうですよ、と多聞は言いたかったが、あまりに失礼なので黙っていた。多聞は当たり障りなく、有名な格闘家の名前を数人挙げ、
「僕も彼らの試合は観ますよ。テレビで観るだけですが」
「私は会場まで足を運んで観ています」
「すごいですね」
「もし良かったら今度一緒にどうですか?まわりに格闘技好きな友達がいなくって」
いいですね、と多聞は答えておいた。
週明けに職場のパソコンにメールが届いた。
「横手先生 先日はお忙しい中ありがとうございます。さっそくなんですが、来週の日曜日、後楽園で試合があります。ご一緒にいかがでしょうか 立花祐子」
「日曜日ならば空いています。連れて行ってください。横手」
メールを送った後、この人、俺のこと好きなのかな、と多聞は思った。
日曜日、多聞は祐子と後楽園駅で待ち合わせた。美咲とは十条以外に遠出していないことを思い出す。人に見られたらおしまいだからだ。その点祐子とは気楽だった。生徒に見られてもせいぜい冷やかされるだけだ。祐子は長い裾のスカートを着てきた。上は細いストラップのキャミソールだ。彼女はお目当ての選手が出場すると、立ち上がって声援を送る。選手がダウンを取られると悲鳴に近い声を上げた。この人結構激しい、多聞は思った。
その後は祐子に誘われるまま、研修会に一緒に出たり、時々食事を共にする程度の付き合いが続いた。何度目かに新宿で会った時、祐子はいつになく酔っている体だった。一件目を出ると、彼女は
「もう帰っちゃうの?」
と多聞の腕に触れながら聞いて来た。
「もう少し飲みますか?」
多聞は聞くと、彼女は頷いた。多聞が導く形で、良さそうなバーを探して歩いていると、ラブホテル街に続く路地の入口に差し掛かる。多聞が通り過ぎようとすると、祐子は多聞の腕に自分のむき出しの腕を絡めてきた。多聞は前を向いたまま、
「入りますか?」
裕子は特に拒絶しなかったので多聞はホテル街に足を踏み入れ、適当なホテルに入った。今日は山登りだ。大柄な女性と寝ることを多聞はそう表現する。俺は三角締めをされてしまうのだろうか。
服を脱いだ祐子は長すぎる手足を持て余すようにベッドに投げ出した。
「良いのよ、来て」
祐子は言う。多聞は覚悟を決めて、その先へと進んで行った。
全てが終わった後、祐子は体にタオルを巻いて、ベッドの中で煙草を吸う。満足気に煙を吐き出す祐子を見て、多聞は自分が征服されたように感じる。
「横手先生も召し上がる?」
差し出された煙草を、多聞は受け取らなかった。祐子は煙草を一本だけで終えると、時計を見て、
「私、そろそろ帰らないと」
てきぱきと帰り支度を始める。多聞も同じようにベッドから起きて、服を拾い始めた。祐子のまっすぐに伸びた髪は部屋の薄暗さの中でも艶を放っている。鏡に向かってブラウスのボタンをはめている祐子の髪の毛を多聞はそっと触れた。祐子はくすぐったそうに振り返り、笑った。
二人はあわただしくホテルを出て、電車に乗った。祐子は途中の駅で降りて、またね、と手を振った。ふと多聞は、俺はこの人のことを何も知らないんだなと気が付く。どこで誰と住んでいるかとか、恋人の有無だとか。
美咲の白くて丸い体はもう思い出せない。駅を降りると秋の虫が鳴いている。夏も終わりなのだ。一つの季節が過ぎて、美咲はもう記憶の中の女性になってしまった。
九月の初めだと言うのに肌寒い夕方、部活の指導を終えた多聞は部屋で持ち帰りの仕事をしていた。そんな時、美咲からの電話が掛かって来たのだ。多聞は逡巡したが、電話に出てみた。
「多聞?」
懐かしい美咲の声。美咲の声は今日の天気のように、静かで沈んでいた。
「今大丈夫?」
「いいよ」
「今どこなの?」
「家で仕事をしているよ」
美咲はちょっと黙った後に、
「今からそっちに行っていい?」
「もうそういうのはちょっと・・・・」
多聞は拒絶した。
「どうして?」
「いろんな人を傷つけるだけだから」
「私、今からそっちに行くわ」
美咲は言い切る口調だった。
「でも来てもらっても・・・・」
「いいの。行くわ」
美咲はそのまま電話を切る。そして二十分もしないうちに、玄関のベルが鳴った。
しばらく見ないうちに美咲は一回り小さくなったようだ。それは多聞が大柄な祐子と時間を共にすることが多くなったせいか。多聞は美咲を見下ろした。
多聞は美咲を部屋に上げなかった。
「ねぇどうして?私が結婚しているから?」
多聞は頷いた。
「私、離婚するわ」
それは絶叫に近かった。
「そんなことはしないでよ」
多聞はうんざりした顔で言った。
「美咲は旦那のところに帰りなよ」
「何で?何でなの?父から何か言われたのね!」
「お父さんとはあれから会っていないよ」
しかし美咲は多聞の答えを聞いていないようだった。
「父が、父が・・・・・」
そして子どもみたいに声を出して泣き始めた。美咲の涙を見るのはこれで何度目だろう。別れたくない、多聞の決心は鈍るのだ。しかし多聞は自分を奮い立たせるように、
「俺たちが続けていても、周りが不幸になるだけだ」
多聞はさらに言葉を継ぐ。
「俺は今は別の人と付き合っている」
美咲は玄関先で座り込んだ。
「本当にもう駄目だから。ドアを閉めるよ、いいね?」
多聞はゆっくりとドアを閉めた。美咲の足元にスポーツバックが置いてあるのが見えた。美咲は座り込んで、顔を覆って泣いている。よく見ると今日の美咲は化粧も服装もとても地味だ。
ドアを閉じた後も多聞は玄関から離れられないでいる。ドアの向こうで美咲はまだ泣いているだろう。もしかして、何か別のことで泣いているのではないかと思った。話だけでも聞いてはいけないだろうか。
多聞は堪えきれず、ドアを再び開けた。しかし、そこにはもう美咲はいなかった。
多聞は美咲を取り逃がしてしまったのだ。




