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泥の町  作者: 山口 にま
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第十四話 パパは名探偵

 「君、妊娠したの?」

ある朝健悟は聞いて来た?

「ううん、どうして?」

「最近生理が来ていないみたいだし」

ピルを飲んでいる美咲は生理が止まったままだ。どう言い訳すべきか、美咲は考えてから

「薬で生理を止めているの。生理痛が強いから」

「大丈夫なの?」

「子どもが産めるか心配ってこと?」

美咲はとげのある口調で尋ね返した。

「そうじゃないよ。美咲が何か怖い病気なんじゃないかって」

「どうせこのことも親御さんにご報告でしょう」

「親には言わないよ」

健悟はうんざりした顔をする。

「別に言っていいのよ。返品したいならばどうぞご自由に」

美咲の剣幕に健悟は何も言えないでいた。


 五月の晴れた日曜日に、美咲と多聞は結ばれた。


 レストランで昼食を済ませた後、生徒や保護者の目を気にして、二人は手をつないだりほどいたりして、川沿いを歩いた。藤棚の下で腰を下ろし、川面を見つめる。川は泥の色をしていた

「泥の河でも離れていると懐かしいのよ。こんな町じゃ娯楽も大してないし、小さい頃は週末ごとに父親と川に来て一緒に釣りをしていたわ。釣れるのは鮒とザリガニばかり。私は釣ったことはないけれど、すっぽんも捕れたそうよ」

「娘と釣りなんていいね」

「私は田舎の子だから男の子みたいに育てられたの。父とは今でも普通に仲が良いわよ」

美咲は釣り糸を垂らしている親子を見やり、

「私にとって、川は泥の色をしているのよ」

「美咲、もうこっちに戻ってきちゃえば」

多聞は言った。美咲は多聞の横顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「家でお茶でも飲もうか」

多聞は立ち上がった。美咲も立ち上がり、多聞に従った。


 部屋の窓を開けると涼しい風が抜けて行った。レースのカーテンを引いた明るい部屋で二人は唇を重ねた。横になった美咲は揺れるカーテンを見つめた。窓の外で鳥が騒いでいる。互いに抱擁する二人。

「多聞、私・・・・」

多聞は拒絶の言葉を言おうとする美咲の唇を自分の唇でふさいだ。もはや美咲は自分の欲望を受け入れざるを得ない。美咲は迫り来る快楽の波に備えて大きく息を吐いた。

多聞が与えた快感は想像以上だった。美咲の閉じられた瞼の奥で熱い涙が湧き上がってくる。

「ああ、美咲」

多聞は切なげに美咲の名を呼んで彼女を強く抱きしめた。こんなに二人は近くにいると言うのに。


 多聞とすべてを分け合った後の美咲は、自分が大きな力を手に入れたような気持になった。離れたくはないと美咲は強く思った。思いは多聞も同じなのかいつまでも自分の腕の中に美咲を閉じ込め、彼女の額や頬に小さな口づけをいくつも施した。

離婚したい、いや離婚できるかも。美咲は確信した。

「私、多聞と一緒ならば何でもできそうな気がするの」

「俺も」

多聞は強く美咲を抱きしめた。


 翌日は祝日だった。連休中は守谷に行かなければならない。美咲は朝からぷりぷりしている。夫婦は昼に守谷に着いた。玄関に入るなり子どもたちの奇声が耳を突く。女たちが水に手を浸しながら働いている。男たちはソファでうたたねをしたりテレビを観たりと気ままに過ごしている。

「こんなに良い休日なのに、私をこんな家に閉じ込めて」

美咲は目を三角にして健悟に嫌味な言葉をささやいた。

「もうちょっと早く来なさい。お母さんが朝から用意しているんだぞ」

と舅。何か言い返せよと言わんげに美咲は健悟を睨みつける。


 五月、絶好の旅行シーズン。窓の外の明るい光が美咲を誘っている。美咲は留学中、休みを使ってはQ国内外を回った。パキスタンのフンザで見た満開の李の花は素晴らしかった。インド・ラダックのチベット寺院巡りも忘れられない。それなのに今は片田舎の年寄りの家に押し込められて、終日嫁としてただ働きだ。しかも楽しくもないのに楽しい振りまでして。退屈で死にそうだ。昨日の私は多聞の部屋で確かに生きていたのに。美咲はうつむいてぱかっとあくびをした。

「ウホン、オホン」

舅のわざとらしい咳払いがまた始まった。嫁は台所で働けと言う意味だ。台所にすでに女が三人もいるではないか。美咲が入り混む余地はない。

 ああ帰りたい。美咲は不機嫌さを隠さない。


 結局いつものように一滴も血のつながらない義理の家族の汚した食器を大量に洗わされ、喫茶店さながらコーヒーの給仕をし、日が暮れた頃に何とか退去を許された。帰り際、健悟が手洗いに立っているのを見計らったように姑が近づいてきて、

「美咲さんはずいぶんご実家に帰っているようだけど」

「健悟さんが言ったんですか?」

「いえね、別に健ちゃんは何も言っていないのよ。ただ私が健ちゃんのところに週末電話すると、美咲さんは大概留守だから」

美咲が返事をせずに黙っていると、

「あんまり頻繁にご実家に帰っていると世間から色々誤解されるし」

誤解って何よ。愛人でもいると思われるってこと?愛人がいるのは本当だけど。

「これから言うことは、健ちゃんから何か言われているわけじゃないのよ。あのね美咲さん、どこか悪いの?病院に通っているそうだけど」

「通っていません」

「そう、それならいいんだけど・・・・」

健悟が戻ってくるのをしおに姑は美咲から離れる。陰険なばばあだ。美咲は思う。


 美咲はもうピルを飲むのをやめていた。健悟との関係は全くなくなっていた。疲れている、体調が良くない、やりたくない、さまざまな理由を並べ立てて健悟の体を避ける。多聞の体を知ってしまってから、もう美咲は戻れない。


 朝から生ぬるい風が吹く週末の夕方、美咲は多聞と駅で待ち合わせをした。美咲は手にデパートの地下で買った惣菜の袋を持っている。今日の二人は部屋で静かにDVDを観て過ごすつもりだった。途中の酒屋でスパークリングワインを買った。多聞が惣菜や酒屋の袋を持ち、空いている手で美咲の腰を支える。二人が多聞のマンションのエントランスを入る直前、

「美咲」

と男の声で呼び止められた。ついに旦那にばれたか、多聞は恐る恐る振り向く。

 しかしそこにいたのは小柄な初老の男性だった。多聞が男性と美咲を見比べていると、美咲は言った。

「お父さん」


 それは美咲の父親だった。多聞は美咲から体を離し、

「横手と申します。初めまして」

と頭を下げる。父親は多聞を上から下まで見て、そして多聞が暮らすマンション名をじっと見た。

「美咲、今日は家に帰って来なさい。お母さんが待っているよ」

嘘だ、美咲はすぐに分った。

「美咲、来なさい」

父親は美咲の背中を押した。美咲は多聞の方を振り返りつつも父親に従った。多聞は美咲にだけ分るように小さく頷いた。多聞は惣菜の袋を手に持ったままだった。

 父親の車はすぐそばに停まっていた。

「健悟君のところに送っていくから」

彼は車のエンジンをかける。二人は無言だった。携帯に多聞からメールが届いたが、美咲は見る気になれなかった。

 父親の車は高速に入る。

「健悟君が大きな賞を取ったばかりだというのに、お前がこんなことじゃ駄目じゃないか」

父親の叱責に、美咲はシートから身を起こして

「物理学者の妻として夫を支える?こんなのは私が望んでいたことじゃないわ」

「さっきの男の人は?」

「横手多聞君。大学のお友達。うちのそばの西中学校で体育教師をしているの」

「付き合っているのかい?」

「付き合っているって程では・・・・。Q国に入国できなくなって悩んでいる時に相談に乗ってもらっていて親しくなった」

「相談なら健悟君に乗ってもらえばいいじゃないか」

と至極まっとうな意見を言う父親。

「あの人は私と向き合おうとしないよ。それになんでも実家のお父さんお母さんに話してしまうし」

「お前の仕事は?」

「おかげさまで順調よ。離婚してもやっていける」

美咲は笑いを含ませて言ってみたが、父親は笑わなかった。


 車は美咲と健悟の住むマンション前に停まった。

「今日はお前はなんと言って家を出たのかい?」

「実家に顔を出すと言って・・・・」

美咲は小さな声で答える。

「お父さんも上まで行って健悟君と会うよ」

父親は車の鍵を抜いた。そして、

「健悟君と合わないのならばこっちに帰って来ても良いよ。でもあいまいな状況でこそこそと男の人と会うのはやめなさい」

美咲は無言で頷いた。

 健悟は部屋にいた。美咲が父親とともに戻って来たことを知り、驚いた顔をした。

「健悟君久しぶりだね。今日は都内でちょっと用事があるから、ついでに美咲を送って来たよ」

父親の不器用なアリバイ工作だ。娘の不貞を隠そうと必死である。

「お父さん上がってください」

と健悟。

「いやいやいいよ、人と約束があるから。じゃあ美咲、またね」

余計なことを喋って墓穴を掘るまい。父親は大急ぎで暇を告げた。


 「今日はもっと遅くなるかと思っていた」

健悟は狐につままれたような顔をしている。

「今日は疲れたから早く帰って来たのよ。何か作るよ」

「夕飯も食べていないの?」

健悟は何かを言いたげにしていたが、美咲は背を向けて米を炊き始めた。


 健悟がテレビを観ている間に美咲は携帯を開く

「大丈夫?俺からお父さんに何か言った方が良かった? 多聞」

美咲は健悟の方を見やりつつ、メールを打つ。

「さっきは変なことになってごめんね。車の中で色々父親と話した。美咲」

返事はすぐに来た。

「お父さんはなんだって?」

「一定の理解は示してくれた。もともとガミガミ言う人じゃないし」

「君が置いて行ったスパークリングワインと惣菜はどうする?」

「食べたり飲んだりして。今度いつ行けるか分らないし」

「そんなこと言わないで。ワインは残しておくよ」

「美咲」

健悟に呼ばれてびくりと肩を震わせる美咲。とっさに携帯を伏せる。

「そんなに驚かないでよ」

美咲は携帯をクッションの下に隠した。健悟は美咲の隣の腰を下ろす。そして美咲の体に腕を絡ませた。

「美咲が帰ってこないかと思った」

「どうして?

「本当に実家に帰っているか不安だった」

「どういう意味?」

「俺の知らない場所に行っているんじゃないかって」

そんなことないって。美咲は笑い飛ばす。

「お風呂に入って来るね」

美咲は立ち上がる。手にはさりげなく携帯を持って。脱衣所で携帯を開き、多聞とのやり取りを削除した。




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