操作済みの愛国心
諜報局第三分析課、通称「三課」の執務室は、いつも薄暗い。
窓がない。空調が古い。コーヒーメーカーだけが妙に最新式だ。
佐伯涼介は、その薄暗い室内で上司の机の前に立ち、渡された資料を三回読み返した。一回目は内容を理解するため。二回目は自分が読み間違えていないか確認するため。三回目は、やはり自分は読み間違えていないという事実を受け入れるためだった。
「……これは、本当に公式の作戦なんですか」
「そうだ」
上司の桐島管理官は、疲れた目で天井を見上げたまま答えた。五十代半ば、白髪交じりの頭に刻まれた皺の数は、この仕事の年季を雄弁に物語っている。
「信じたくない気持ちはわかる。俺もそうだ」
「いえ、あの……」佐伯は資料に目を落とした。「確認なんですけど、要約すると、ネット上に流す『好みの女性像』として挙げられているのが――」
「言わなくていい」
「でも確認が」
「言わなくていい、と言っている」
桐島は深く息を吐いた。老いた猟犬が諦めたように横になる、そういう種類の息の吐き方だった。
「わかってる。おかしい。常軌を逸している。だが上から決定が降りてきた以上、俺には覆す権限がない」
佐伯はもう一度資料を見た。
北の隣国が、AIとデザインベビー技術を組み合わせて「最適化されたハニートラップ要員」を育成しているという情報は、三ヶ月ほど前から出回っていた。眉唾な都市伝説として処理されていたが、傍証が積み重なるにつれて、局内でも無視できない話題になりつつあった。
そこで上層部が考えた作戦が、いわゆる「餌撒き」だ。
こちらのネット空間に「偽の嗜好情報」を大量に流し、もし本当に向こうがそれに合わせた人材を送り込んでくるなら、技術の実在が証明される。合わせてこなければ、噂は噂に過ぎなかったということになる。
理屈としては、悪くない。
問題は、その「偽の嗜好情報」の内容を、局内の上層部が決定したという点だ。
資料の三枚目には、三名の上層部それぞれが「匿名で」提案した嗜好プロファイルが記載されていた。匿名とはいえ、担当者にとっては誰が何を言ったかは筒抜けだ。
一件目。腕が六本から八本ある女性。備考欄に「幼少期より千手観音に強い関心」とあった。
二件目。乳房が通常より多い女性。備考欄には「牛の効率的な構造に審美的な関心」とある。審美的、という言葉の使い方が間違っている気がしたが、佐伯は深く考えないことにした。
三件目。身長四メートル前後の巨躯を持つ女性。備考欄に「大型犬との幼少期の触れ合いが人格形成に影響」とだけ書いてあった。
「……なんで自分たちの性癖を諜報作戦に持ち込んでるんですか」
「それを俺に聞くな」
「誰に聞けばいいんですか」
「誰にも聞くな。聞いた者が損をする」
佐伯は資料をそっと机に置いた。
「これで本当に向こうが動くと思ってるんですか? いくら技術があっても、こんな……こんな仕様で人間を作れるとは思えません。生物学的に」
「それはそうだ」桐島は腕を組んだ。「だからこそ、もし本当に来たなら技術の実在が確定する。来なければ情報が嘘だったというだけだ。どちらに転んでも損はない」
「損はない……」
「お前の精神衛生上の損失については、俺の管轄外だ」
佐伯は黙って頷いた。
情報の流布は、三課の技術班が粛々と実施した。SNS、まとめサイト、特定の掲示板群。統計的に自然に見えるよう、少しずつ、しかし確実に、「最近こういう外見の女性が好きな男が増えている」という空気を醸成していった。
佐伯の仕事は、その反応をモニタリングすることだった。
向こうのネット空間での言及頻度、関連ワードの検索トレンド変化、諜報員と思しきアカウントの動向。毎日データを眺め、報告書を書き、コーヒーを飲んだ。
三週間が過ぎた。
何も起きなかった。
佐伯は内心でほっとしていた。そうだよな、いくらなんでも無理だよな、と思いながら四週目の報告書を書き始めた、そのときだった。
「佐伯」
桐島が執務室に入ってきた。いつもより顔色が悪い。正確には、いつもより三割ほど血の気が引いている。
「なんですか」
「……来た」
佐伯の手が止まった。
「来た、というのは」
「来た、というのはそういう意味だ」
桐島が置いたタブレットの画面には、監視カメラの映像が映っていた。
佐伯は画面を見た。
見た。
もう一度、見た。
「……これは」
「そうだ」
「CG処理とかじゃ」
「生身だ。確認済みだ」
映像の中の人物は、確かに女性だった。顔立ちは整っている。服装も一見普通だ。ただし、コートの袖から出ている腕の数が、解剖学的に想定される数より著しく多かった。信号待ちをしている間、持て余した腕がそれぞれ別々の動きをしていて、二本は鞄を持ち、一本はスマートフォンを操作し、残りは微妙に宙を泳いでいた。
「……本当に来た」
「本当に来た」
「あの情報を元に」
「そういうことになる」
佐伯は椅子に深く座り直した。
翌日には、別の報告が入った。今度は身長の件だ。映像を見た佐伯は、しばらく言葉を失った。四メートルというのは誇張ではなかった。当該人物は国内某所のホテルに滞在しており、廊下を歩く姿が防犯カメラに映っていたが、天井にかなり近い位置に頭部があった。ドアをくぐる際、膝を深く曲げていた。
さらにその翌々日、三件目の報告も来た。佐伯はその映像の確認を、少しだけ先延ばしにした。業務上の優先順位的に、という言い訳を自分に言い聞かせながら。
「で、工作の成果は?」
一週間後、佐伯は桐島に尋ねた。
三名のスパイと思しき人物は、それぞれ上層部の三名に接触を図ったことが確認されていた。問題は、その後だ。
「三名とも、篭絡失敗だ」桐島は淡々と言った。「Aは確かに接触したが、結果的に向こうの要求を一切呑まなかった。Bも同様。Cに至っては……」
「Cは?」
「当該人物を、自宅に招いてしまった」
佐伯は眉をひそめた。「それは篭絡成功じゃないんですか」
「Cが言うには、国家機密の類は一切話していないし、話す気もないそうだ。ただ、大きくて安心するから、うちで飼いたいと言っている」
沈黙が落ちた。
「……飼う」
「飼う、と言っている。向こうも困惑しているようだ」
諜報員として送り込まれたのに、飼われそうになっている。佐伯には、その女性スパイの心境を思うと、なんとも言えない気持ちになった。
「ともあれ」桐島は続けた。「国家機密の漏洩は確認されていない。向こうの技術の実在は証明された。作戦目標は達成だ」
「達成……」
「達成だ。文句あるか」
佐伯はしばらく宙を見つめた。
窓のない薄暗い執務室。古い空調のうなり声。最新式のコーヒーメーカー。
向こうの国には、AIと遺伝子操作技術を組み合わせて、誰かの歪んだ理想に合わせた人間を作れる技術が、本当に存在する。
しかもそれが、千手観音への憧憬や、牛への審美的関心や、大型犬への郷愁によって、現実に形になってしまった。
佐伯はふと、ある考えが頭をよぎるのを感じた。
サキュバス、というものがいる。あれは悪魔の一種とされているが、もしかしたら、遠い昔の誰かが、同じようなことをやらかした結果として生まれたのではないだろうか。技術の名前も、組織の名前も、時代が違えば変わる。でも、誰かの歪んだ嗜好が現実の形を作ってしまうという構造は、案外、ずっと昔から変わっていないのかもしれない。
そういう、妙にしみじみとした気持ちになっていた。
「佐伯」
桐島の声がした。
「はい」
「お前……同じことしようとするなよ?」
佐伯は一瞬だけ間を置いてから、
「……しません」
と答えた。
間が、一瞬だけあったことを、桐島は見逃さなかったようだった。
執務室は、やはり薄暗かった。




