第7話「王都からの便りと、密かな野望」
部屋の空気が、ふわりと甘い香りに染まる。
銀製のワゴンが車輪を回す軽やかな音。ティーカップとソーサーが澄んだ音色を立てて重なり合う響き。そして、窓から入り込む春の風、若草と湿った土の匂い。
午後の日差しが差し込むアスコット侯爵本邸の一室は、どこまでも穏やかだった。
どことなく既視感を感じる。目覚めるのは天蓋付きのベッドの上で、いつも変わらぬ窓の景色だ。もう何日が経過したのか、時間感覚がわからなくなってきている。
私はベッドに背を預け、クッションの位置を直してから、膝の上のブランケットを少しだけ引き上げた。
まだ身体の芯に『重し』が残っているような倦怠感はあるものの、こうして起きて家族と会話ができるくらいには回復していた。
「――それでね、王都からまた賑やかなお便りが届いたわ」
ベッドサイドの椅子に優雅に腰掛けた母――ミレア・アスコット侯爵夫人が、手に持っていた封筒の束をひらりと振ってみせた。
その瞬間、窓からの光を反射して、封筒に施された金箔がぎらりと輝く。
重厚な紙質に、これでもかと主張する派手な家紋。封蝋すらも、なんだか無駄に艶やかだ。
(うわ、封筒からしていかにも『金持ちです』って主張してるな……)
前世、オフィスで受け取っていた請求書やダイレクトメールの山とは次元が違う。あれは明らかに、コスト度外視で作られた「貴族の威光」そのものだった。
差出人は、母の実家であるフレンメル侯爵家だ。
「聖華の社交期は、今年も大騒ぎみたいね。見てちょうだいサフィア、この招待状の厚み」
「すごいですね……。なんだか、持っているだけで腕が疲れそうです」
「ふふ、実際重いのよ。物理的にも、意味的にもね」
母は楽しげに微笑むと、ペーパーナイフで丁寧に封を開けた。
カサリ、と硬い紙が擦れる音がする。
王都では今、新成人の貴族たちが女王陛下に拝謁し、夜ごとの舞踏会で華を競う社交の季節真っ只中だ。武門である我がアスコット家や、西の辺境は比較的静かなものだが、中央の熱気はこうして手紙という形に取って代わり、じわじわと押し寄せてきた。
「ええと、『今年の舞踏会における我が家の演出は、レノリア家をも凌ぐ評価をいただき――』……まあ、相変わらず自信満々なこと」
「……フレンメル殿は、財務の要職にあるからな。派手な振る舞いもまた、彼らの仕事のうちなのだろう」
部屋の隅、私の足元近くの椅子に腰を下ろしていた父――グラン・アスコットが、腕を組んだまま低く呟いた。
その表情は苦虫を噛み潰したようにも見えるが、どこか呆れたような温かさも混じっている。父は質実剛健を絵に描いたような武人だが、母の実家との付き合い方を完全に拒絶しているわけではないらしい。
「ええ、そうね。あちらにはあちらの戦いがあるのでしょう」
執事長のラグナが、絶妙なタイミングで私のサイドテーブルに温かいハーブティーを置いてくれた。
一口含むと、カモミールに似た香りが鼻腔をくすぐり、優しい甘みが喉を潤していく。前世の激務中に流し込んでいた泥のような缶コーヒーとは大違いだ。これが「優雅な暮らし」というやつだろうか。
「それにしても、王都の流行は目まぐるしいですね。手紙の内容を聞いているだけで、なんだか目が回りそうです」
「フレンメル家からの手紙は、半分が自慢話で、もう半分が社交界の勢力図報告のようなものですからね。サフィア様が目を回されるのも無理はありません」
ラグナが恭しく、しかしピリッとした毒を含んだ補足を口にする。
壁際に控える彼の立ち姿は、いつ見ても隙がない。アスコット家の家計と政治的立ち位置を支える彼は、この手紙の束から「何が金になり、何が危険か」を冷静に分析しているのだろう。
母が次の便箋を広げ、読み上げる。そこには、流行のドレスの色や、どの家の令嬢が誰と踊ったか、といった煌びやかなゴシップが書き連ねられていた。
「『アスコット家の次代も、いずれはこの華やかな場に顔を出すべきだ』……ですって」
母の声色が、少しだけ低くなる。
その言葉に、父がピクリと眉を動かした。
「サフィアも……いずれはあの場に立つことになるのだろうか」
「えっ、私がですか?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
父はじっと私を見つめている。その視線は、私が将来、きらきらとしたシャンデリアの下で、貴族然として振る舞う姿を幻視しているようだった。
(いやいや、無理無理。ハードルが高すぎる)
今の私は、見た目こそ銀髪に紫の瞳を持つ美少女だが、中身はしがない元会社員だ。あんな伏魔殿のような社交界に放り込まれたら、胃に穴が開く自信がある。
それに、この容姿だ。正装して舞踏会に出たら、十中八九「アスコット家の新しいご令嬢」として認識される未来しか見えない。
「実は三男です」と暴露した瞬間の、凍りつく会場の空気を想像して、私は身震いした。
(……でも待てよ。社交界デビューということは、人前に立つということだ)
ふと、私の脳内で別の回路が繋がる。
舞踏会のフロアではなく、一段高い場所。スポットライト。音楽。
もし将来、学園で仲間を集めて「歌」を披露する機会があるとしたら。それは一種の「社交」に含まれるのではないだろうか。
ドレスや軍服ではなく、動きやすいステージ衣装を纏って歌う未来。
ペンライトの代わりに魔法の光が揺れる客席。
……あれ? それはちょっと、いや、かなり楽しそうかもしれない。
「……お前が望むなら止めはしないが、無理をさせるつもりはない。ただ、お前が笑顔で生きていてくれるなら、それだけで十分だ」
父が不器用にそう付け加えた。
私の妄想が「アイドル路線」に暴走しているとは夢にも思わず、純粋に息子の晴れ姿を案じてくれているのだ。罪悪感が少しだけチクリとする。
「ありがとうございます、お父様。……でも、まだ想像が追いつきませんね。どんな服を着ているのかも、うまくイメージできなくて」
「ふふ、サフィアなら何を着ても似合うわよ。フレンメルのおじ様たちも『あのアスコット家の、硝子細工のように可愛らしい三男は息災か』なんて書いてきているもの」
「……可愛らしい、ですか」
硝子細工。また割れやすそうな比喩を使われたものだ。
私が微妙な顔をすると、父が心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「うちの三男は、そんな生やさしいものではないぞ。可愛らしいだけなどという評価は、この子の本質を見ていない証拠だ」
「あら、親バカね」
「事実だ。この子は……強い子だ」
父は真剣な眼差しで私を見た。
その「強さ」が、私の高い魔力密度を指しているのか、それとも病を乗り越えたことを指しているのかは分からない。けれど、英雄と呼ばれる父にそう言ってもらえるのは、悪い気はしなかった。
「とはいえ、サフィア様はまだ病み上がりでございます」
浮つきかけた空気を、ラグナが冷静な声で引き戻す。
「王都までの移動は、どうしても長旅となります。馬車の揺れは身体に障りますし、何より今は静養を優先なさるのが賢明かと。王都の目は、今は華やかなものに向いておりますが……いずれ、武の力を求める日が再び訪れるやもしれませぬ」
ラグナの言葉は、執事としての気遣いであると同時に、アスコット家の参謀としての判断でもあった。
平和な今の時代、予算を削られ冷遇されている武門が、のこのこと王都に出て行っても良い見世物になるだけだ。力を蓄え、時を待つ。それが今の我が家の戦略なのだろう。
(正直、今の体力で長距離移動はきついから、ラグナグッジョブです)
私は心の中で彼にサムズアップを送った。
王都の華やかさは魅力的だが、今の私にはこの部屋の平穏がお似合いだ。
「そうね。サフィアにはまず、元気になってもらわないと。学園に入れば、嫌でも派閥争いやら何やらに巻き込まれるんだから」
「学園、ですか」
「ええ。我が家は中立に近いけれど、武門のつながりもあるし、私の実家のフレンメルや、魔のレノリアとの関係も無視できないわ。……サフィアはどっちのお友達と仲良くするのかしらね」
母が茶目っ気たっぷりに小首を傾げる。
アーカレート学園都市。
そこは、王国の未来を担う若者たちが集う場所だという。武、財、魔。三つの大きな力がせめぎ合う場所。
(武闘派でもなく、金持ちグループでもなく……文化系? いや、芸能枠とかあれば最高なんだけど)
私の密かな野望は、まだ誰にも言えない。
けれど、「いつかその場所に行くのだ」という確信めいた未来が、私の前に続く道のりにあるようだ。
今はまだ、ベッドの上で話を聞くだけだが。
「今日はこのくらいにしておきましょうか。あまり長話をして、サフィアを疲れさせてしまってはいけないわ」
母が手紙を綺麗に揃え、立ち上がった。
最後の一口分の焼き菓子を口に放り込み、私は名残惜しさと共にカップをソーサーに戻した。バターの豊かな風味が、口の中に余韻として残る。
「ありがとう、お母様、お父様。ラグナも。……外の話が聞けて、楽しかったです」
「ゆっくり休みなさい、サフィア」
「また来るよ。何か欲しいものがあったら、ラグナに言うといい」
父とラグナも母に続き、三人は部屋を出て行った。
扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻ってくる。
私は枕近くの窓に視線を向けた。
ガラス越しに、微かにだが「エイ、ヤァ」という掛け声が聞こえてくる。屋敷の裏手にある訓練場で、騎士たちが稽古をしている声だ。
王都の舞踏会の音楽とは違う、泥臭くて力強い、アスコット家の音。
(向こうには向こうの、こちらにはこちらの世界がある)
王都の煌びやかな世界に少しだけ気後れしつつも、私は不思議な高揚感を覚えていた。
いつか、この身体で、自分の足であの世界に立つのだ。
それがどのようになるのか――ドレスなのか、軍服なのか、それとも誰も見たことのないステージ衣装なのかは分からないけれど。
「……まずは、リハビリからだね」
私は小さく呟いて、ふわりとしたブランケットの中に身体を滑り込ませた。
遠くに聞こえる賑やかな声を子守歌にして、私はゆっくりと目を閉じた。




