第6話「母と秘密の寝台ピクニック」
カーテン越しに差し込む陽射しが、部屋の中をまどろんだ春の色に染めている。
午前のリハビリ散歩を終えてから、少しばかり眠っていたらしい。目を開けると、視界の隅でワゴンの車輪が回る、コトコトという小さな音がした。
続いて、陶器のカップとソーサーが触れ合う、カチリという涼やかな音。
ふわりと鼻をくすぐったのは、香ばしい焼き菓子の甘い匂いと、爽やかなハーブティーの湯気だ。
「あら、目を覚ましたのね。いいタイミングだわ」
ベッドの脇に立っていたのは、母のミレアだった。
いつもなら寝間着のまま見舞いに来ることも多いけれど、今日は仕立ての良いデイ・ドレスを纏っている。その後ろには、ワゴンを押した侍女のリリアが控えていた。
「気分はどう? サフィア」
「……お母様? それにリリアも。そのワゴンは……」
「ふふ、今日はね、階下の談話室の代わりに、ここで小さなお茶会をしようと思って」
母が楽しげにウィンクをする。
リリアが恭しく一礼すると、テキパキと動き出した。私が普段かけている掛け布団の上に、ふわりと真っ白なリネンクロスを広げる。その上に、木製の小さなトレイを慎重に置いた。
トレイの上には、湯気を立てるティーカップが二つと、宝石箱をひっくり返したように綺麗なクッキーや焼き菓子の皿。
あっという間に、私のベッドの上は小さな特等席へと早変わりした。
(うわあ、これは……完全に『寝台ピクニック』だ)
前世、OL時代のお昼休憩といえば、パソコンの前でエナジーゼリーを吸うか、給湯室で立ったままコンビニのおにぎりを齧るかが関の山だった。
それが今や、ベッドの上でお茶と焼き菓子ときた。
貴族すごい。いや、このアスコット家がすごいのか。
「さあ、背中にもうひとつクッションを入れましょうね。よろしいですか、サフィア様」
「うん、ありがとうリリア。……なんだか、すごく贅沢ですね。こんなふうにしていただけるなんて」
私が身体を起こしながら礼を言うと、リリアは少しだけ目を潤ませて、ぶんぶんと首を横に振った。
「とんでもないことでございます! サフィア様が、こうして身体を起こしてくださるだけで……」
「リリア、感動するのはあとになさい。お茶が冷めてしまうわよ」
「はっ、申し訳ございません奥様!」
コントのようなやり取りに、思わず頬が緩む。
背中のクッションに身を預けると、まだ本調子ではない身体がふっと沈み込んだ。けれど、数日前に目覚めたときのような、鉛を詰め込まれたような重さはない。
「午前の散歩で、疲れていない? 胸が苦しかったり、足が痛かったりは?」
母がカップを手に取りながら、心配そうに覗き込んでくる。
その問いかけに、私は自分の身体の感覚を確かめた。確かに、初めて部屋の外へ出て廊下を歩いたときは、自分の足とは思えないほどふらついたし、息も上がった。けれど、一眠りした今は、心地よい疲労感が残る程度だ。
「少し疲れましたけど、今はとても楽ですよ。ここに座ってお茶を飲むくらいなら、全然平気です」
「そう……よかった。でも、無理は禁物よ。少しでもつらくなったら、すぐに言うのよ」
「はい、ありがとうございます。お母様」
リリアが淹れてくれたお茶を、両手で包むようにして持つ。
指先に伝わる温度は、熱すぎず温すぎず、猫舌の私に完璧に合わせて調整されていた。
一口含むと、優しい香りが喉を潤していく。
「本当なら今頃、王都は『聖華の社交期』でね。それはもう賑やかでしょうけれど」
母が窓の外、遥か遠くの空を思うような眼差しで言った。
「新成人のデビュタントに、連日開かれる夜会やお茶会……。華やかだけど、それ以上に気疲れする場所よ。ドレスの裾を踏まないか、変な噂話をされないか、常に気を張っていなければならないんだから」
(出た、ザ・貴族イベント。聞いているだけで胃が痛くなりそうな人間関係の気配がする……)
内心でこっそり身震いをする。
煌びやかな世界への憧れがないわけではないけれど、今の私にはこの静かな寝室のほうがよほどお似合いだ。
それに、母の口ぶりには、華やかな社交界を懐かしむというよりは、そこから離れられてせいせいしているように感じられた。
「私は“身体が弱いことになっている”から、こうして王都の喧噪から逃げられるの。……ふふ、悪いお母様でしょう?」
母は悪戯っぽく唇に指を当てた。
「でもね、本当に弱いのは、ああいう場所で仮面を被って笑っていられる、私の心のほうかもしれないわね」
「お母様……」
さらりとこぼれ落ちた本音に、私はハッとした。
明るくて、活動的で、家族思いの母。けれど、彼女もまた「侯爵夫人」として、あるいは「身体の弱い深窓の令嬢」として、自分を守るための仮面を被って生きてきたのだ。
前世の私が、「優秀で大人しい事務職員」の皮を被ってオタク趣味を隠し通していたのと、少し似ているかもしれない。
(なんだ。この人も、私と同じ『演じる人』だったんだ)
そう思うと、母のことが急に身近な「同志」のように感じられた。
私が今、「記憶喪失のふりをして、少し大人びた子ども」を演じていることも、母はどこかで見抜いているのかもしれない。その上で、何も言わずに受け入れてくれているのだとしたら。
「……あの、お母様」
「なあに?」
「私、倒れる前は……どんな子どもだったんですか? もしよければ、少しだけ教えてもらってもいいですか」
ずっと気になっていたことを、お茶を飲むついでを装って聞いてみた。
母は一瞬、目を丸くしたが、すぐに懐かしむように目を細めた。
「そうねえ……。あなたは、本当によく動き回る子だったわ」
母の視線が、部屋の隅に置かれた飾り棚――そこには使われなくなった小さなおもちゃの剣が飾られている――へと向かう。
「剣が好きでね。いつもお兄様たちの真似をして、庭で木の枝を振り回していたのよ。『ぼくもきしになるんだ!』って」
「騎士、ですか」
「ええ。庭中を駆け回るのが大好きで、泥だらけになって帰ってきては、リリアを驚かせていたわ。時々、高い木に登って降りられなくなったりして……本当に、私たちをハラハラさせてばかりだった」
(この身体の持ち主、剣が好きだったんだ。……なんだか私と好みが合いすぎて、魂の連続性すら感じるな)
前世の私も、刀剣趣味をこじらせて道場にまで通うほど、のめり込んだクチだ。それが後に、男性アイドルオタクへとジョブチェンジし、今や男の子として異世界転生だ。若気の至りも、ここに極まったと言っていい。
しかし、元気で無鉄砲で、夢見がちな男の子かー。
そんな子が病に蝕まれ、少しずつ走れなくなり、剣を握れなくなり……最後にはベッドから出られなくなっていった。
母の語る声が、少しずつトーンダウンしていくのに気づいて、私の胸がきゅっと痛んだ。
私が「サフィア」として目覚めたとき、この身体はあまりにも細く、弱々しかった。
けれど、今は違う。
「……昔のことは、思い出せたらでいいのよ。今のあなたがこうして生きていてくれるだけで、母さんは十分」
しんみりしそうになった空気を払拭するように、私は明るく声を上げた。
「そうですね。……今の私は、静かに本を読むのも好きですし、こうしてお茶を飲むのも楽しいです。それに」
「それに?」
「歌を口ずさむのも、なんだか心が軽くなる気がします」
私の言葉に、控えていたリリアが勢いよく顔を上げた。
「ええ、ええ! サフィア様の歌声は、本当に素晴らしいです!」
普段は控えめなリリアが、珍しく声を張り上げたので、私と母は顔を見合わせてしまった。リリアははっとして、すぐに顔を真っ赤にして口元を押さえた。
「も、申し訳ございません……! ですが、サフィア様の歌声を耳にすると……不思議と、胸の奥が軽くなるような気がいたしまして」
「あら、リリアったら。でも、わかるわ。サフィアの声には、不思議な力があるものね」
「そんな、褒められると照れます……」
私は素直に照れ笑いを浮かべた。夜中こっそりと口ずさんでいたのを、やっぱり聞かれていたんだなと自覚する。
誰かがこんなふうに、私の声を、私の存在を、手放しで肯定して、時間を割いてくれることなんて、あまりなかった気がする。
今の私が「昔のサフィア」とは違っていても、読書が好きで、歌が好きで、ちょっと大人びた私であっても。
この人たちは、それを「成長」として、優しく受け止めてくれている。
「じゃあ、今度はきちんとお母様に聴いていただけるよう、練習しておきますね」
「ええ、楽しみにしているわ。あなたに似合いそうな本も、図書室から探しておくわね」
クッキーをひとつ、またひとつと口に運ぶ。
バターの豊かな風味と、優しい甘さが口いっぱいに広がる。
温かいお茶を飲み干す頃には、急激な眠気が襲ってきた。やはり、久しぶりの散歩とおしゃべりは、病み上がりの身体には少し刺激が強かったらしい。
まぶたが重くなっていくのを隠しきれず、こくり、と船を漕ぐと、母が苦笑混じりの優しい声をかけた。
「今日はここまでにしておきましょうか。リリア、片付けをお願い」
「はい、奥様」
リリアが手早くトレイを片付け、クロスの端を持って鮮やかに撤収していく。
私は抵抗する間もなく、ふかふかの枕へと沈められた。母が丁寧に掛け布団を直し、私の頬にかかった銀の髪をそっと払う。
「また、今日みたいに……ここで一緒にお茶をしてもいいですか?」
眠気で呂律が怪しくなりながらも尋ねると、母は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんよ。何度でもしましょう。……おやすみ、サフィア」
「次は、もっとサフィア様のお口に合うお菓子をお作りできるよう、精進いたしますね」
リリアの声も、どこか誇らしげで温かい。
遠ざかるワゴンの音と、衣擦れの音。
(……寝台ピクニック、思った以上に満足度が高かったな)
王都の華やかな夜会よりも、こっちのほうがよほど『生きている』感じがする。
誰かの体温を感じられる距離感。無理をして虚勢を張らなくてもいい空間。
ここが、今の私の居場所なんだ。
次は、どこまで歩けるだろう。
また、お兄様にも会えるだろうか。母やリリアに、もっと元気な姿を見せたい。
そんな穏やかな希望を胸に抱きながら、私はゆっくりと意識を手放した。
夢の中でも、きっと優しい歌が歌える気がした。




