第5話「次兄ローレンの過保護なリハビリテーション」
「……よし。準備はいいか、サフィア」
「はい、兄様。いつでも大丈夫です」
「いいか、絶対に無理はするなよ。少しでも辛かったら、すぐに言うんだぞ。本当に、すぐだからな?」
「ふふ、わかっています。兄様は心配性ですね」
生死の境をさまよい、奇跡的に目を覚ましてから、幾日かが過ぎていた。
あの日からしばらくの間、私はベッドの上で大人しく過ごすことを余儀なくされていた。
医師や家族の過剰なほどの心配を受けながら、上体を起こして本を読んだり、布団の中で足を曲げ伸ばししたり、夜にこっそり歌ったりといった、ごく軽いリハビリを繰り返す毎日。当初は指先ひとつ動かすのにも苦労したものだが、ここ最近はだいぶ身体の自由も利くようになり、ようやく今日、医師から「部屋の外の廊下まで」という条件付きで歩行許可が下りたのだ。
私はベッドの端に腰掛け、床に足を下ろした。ひやりとした床の感触が足裏に伝わってくる。
目の前には、私の三倍くらいありそうな厚みの胸板と、頼りがいのある腕が差し出されていた。次兄のローレン・アスコットである。
私は遠慮なくその腕に捕まり、ぐっと足に力を入れた。
「……よい、しょっと」
「お、おお……っ! 大丈夫か!? 膝、笑ってないか!?」
「平気です。ちゃんと立てています」
立ち上がった瞬間、視線の高さが変わる。それと同時に、自分の身体の軽さと、頼りないほどの『か弱さ』を改めて実感した。
私の今の肉体は、9歳の男の子――という設定のはずだが、鏡で見た姿はどこからどう見ても線の細い美少女だった。
支えてくれているローレン兄の腕が、太い丸太のように感じられる。鍛え上げられた筋肉の感触が、服の上からでも伝わってくるほどだ。
(さすがは武門を誇るアスコット家の次男。これぞ騎士って感じね)
中身がアラサーの元OLである私からすれば、このシチュエーションは「イケメン騎士様によるお姫様エスコート」そのものだ。ただし、私はお姫様ではなく、男の子なのだが。
「よし、行こうか。……あー、その、肩に手を回したほうがいいか? それとも手首を掴んだほうが……いや、折れそうで怖いな……」
「兄様、普通に手を引いてくだされば十分です」
ローレン兄は、私の身体のどこを支えるべきか、しばらく宙に手を彷徨わせていたが、結局はおっかなびっくりと、私の背中にそっと手を添えることにしたようだ。
まるで硝子細工か爆発物でも扱うような慎重さである。
私たちはゆっくりとした足取りで、寝室の扉へと向かった。
重厚な扉が開かれると、そこには長く続く廊下が伸びていた。
窓から差し込む陽の光が、磨き上げられた床に反射してキラキラと輝いている。風に乗って、中庭の若草の香りがふわりと漂ってきた。
「……わあ」
思わず、感嘆の声が漏れる。
ただの自宅の廊下だ。前世の記憶にあるオフィスの無機質な通路とは比べものにならないほど豪華だが、それでもただの廊下に過ぎない。
けれど、数日間ずっと天井とカーテンしか見ていなかった私にとって、この「奥行き」のある景色は、とても新鮮だった。
「眩しくないか? 風、冷たくないか?」
「大丈夫です。とっても気持ちがいいです」
「そうか……なら、あの窓のあたりまで行ってみよう」
ローレン兄が指差したのは、ここから十メートルほど先の窓辺だ。
たかが十メートル。前世なら三秒で走れた距離だが、今の私にはちょっとした冒険だ。
一歩、足を踏み出す。太ももの筋肉がわずかに震え、ふくらはぎが負荷を訴える。
けれど、確実に前へ進める。
(動く……! ちゃんと私の意志で、地面を踏みしめてるわ)
体内の魔力が、運動に呼応してじんわりと熱を帯びる感覚がある。以前のような暴走する気配はなく、血管の中を温かいスープが巡るような、心地よい循環だ。
ひたひたと歩く私の横で、ローレン兄は、半歩後ろで様子を窺っている。
その視線が、忙しない。私の顔をのぞき込んだと思えば足元を確認し、つまづきそうな段差がないか前方を睨みつけ、また私の顔に戻る。
「サフィア、歩幅はきつくないか? もう少しゆっくりにするか?」
「いえ、これくらいが丁度いいです」
「そうか。……その、なんだ。お前がこうして歩いているのが、まだ夢みたいでな」
ローレン兄は、照れくさそうに鼻の下を擦った。
この人は、根っからの武人肌で熱血漢だが、私に対しては甘い。甘すぎる。
それに加えて、今の私の外見はどう見ても「可憐な妹」なので、兄としての「弟への接し方」と、男としての「美少女への本能的な庇護欲」が混じり合って、脳内バグを引き起こしているのが見て取れた。
さっきから、背中に添えられた手が微妙に浮いたり触れたりを繰り返している。
(兄様、挙動不審ですよ。他人から見たら完全に『初デートで手を出せない初心な彼氏』に見えるわよ、これ)
内心でツッコミを入れつつ、私は愛想よく微笑んでみせた。
「兄様がそばにいてくださるから、安心して歩けます」
「うっ……! そ、そうか! 任せておけ! 魔物が出ても俺がワンパンで沈めてやるからな!」
「廊下に魔物は出ません」
武門を誇るアスコット家の屋敷内に魔物が出ようものなら、それはもう治安崩壊まったなしだ。
頼もしいような、どこかズレているような兄との会話を楽しみながら、私はふと気になっていたことを口にした。
「そういえば兄様。今は、学園はお休みなのでしょうか?」
ローレン兄は、15歳。王都にある名門、アーカレート学園の生徒のはずだ。
私が尋ねると、兄は「ああ」と軽く頷いた。
「今は『聖華の社交期』だからな。それに合わせて学園も『大公休』に入ってるんだ」
「聖華の社交期……。新成人の方々が、女王陛下に拝謁する時期ですね」
「おう。本来なら王都中がお祭り騒ぎで、貴族たちは夜会だのお茶会だので大忙しだ。俺のクラスメイトも、着飾って浮かれてる頃だろうよ」
ローレン兄は、少しだけ皮肉っぽく笑った。
知識として聞いてはいたが、なるほど、そういう時期だったかと改めて気付かされる。
この国の春の風物詩で、新成人の貴族子弟が社交界デビューを果たす、一年で最も華やかな季節。
学園もそのために長期休暇となり、多くの生徒は王都に行って社交に勤しむか、実家に戻って領地の行事に参加するようだ。
「兄様は、王都に行かなくて、よろしかったのですか?」
「俺はもうデビュタントは済ませてるからな。それに――」
ローレン兄は足を止め、真剣な眼差しで私を見下ろした。
「病に伏せってる弟を放っておいて、王都でダンスなんぞ踊ってられるか。俺にとって大事なのは、着飾った令嬢たちより、お前の無事だ」
「兄様……」
きっぱりと言い切るその表情は、文句なしに格好良かった。
15歳にしてこのイケメンぶり。将来有望すぎて末恐ろしい。
(これ、私が本当の妹だったら完全に恋に落ちるルートよね。あるいはブラコン街道まっしぐらか)
残念ながら私は元アラサーで、現在は弟だ。ときめきよりも「いいお兄ちゃんだなあ」というほっこり感が勝る。
でも、その言葉が嬉しかったのは事実だ。
「ありがとうございます……わざわざ戻ってきてくださって、嬉しいです」
「おう! もっと喜んでいいぞ!」
単純な反応に、思わず笑みがこぼれる。
私たちは、目標地点だった窓辺に辿り着き、そこで足を止めた。
窓の外には、手入れの行き届いた中庭が見える。アスコット領の春はまだ浅く、木々の緑は淡いが、陽射しには確かな暖かさがあった。
私は窓枠に手をかけ、一息つきながら、さりげなく聞いてみることにした。
「……ねえ、兄様」
「ん? 疲れたか?」
「いえ、少しお聞きしたくて。……倒れる前の私は、どんな子供だったのでしょうか?」
記憶喪失、ということになっている私にとって、これは重要な情報収集だ。
以前の「サフィア」がどんな性格で、どんな話し方をしていたのか。あまりにキャラが違いすぎると、記憶喪失という免罪符があったとしても、ボロが出るかもしれない。
ローレン兄は少し考え込むように視線を宙に漂わせ、それから優しく私の頭を撫でた。
「そうだな……お前は昔から元気で、ちょっと無鉄砲で、負けず嫌いだったな」
「無鉄砲、ですか」
「ああ。俺や兄貴の後ろを、小さい足で必死についてきて……転んでも泣かない強いやつだった」
ローレン兄の目は、どこか遠くを見ているようだった。
その言葉は具体的でありながら、どこか抽象的で、当たり障りのない「思い出」のように聞こえる。
(……兄様、気を使ってくれてるのね)
私が何も覚えていないことを知っているから、具体的なエピソードを話して私を混乱させたり、思い出せないことに罪悪感を抱かせたりしないようにしているのだろう。
その優しさが、少しだけ切なく、そして温かい。
私は、それ以上聞くのをやめて、素直に頷くことにした。
「そうですか……では、これからは、もっとお淑やかにしないといけませんね」
「うっ、ぐ……! そ、その見た目でお淑やかにされたら、兄としての理性が……いや、なんでもない!」
「?」
「と、とにかく! 昔がどうあれ、今のお前が生きて笑ってくれているなら、俺はそれでいいんだ!」
ローレン兄は顔を赤くして、誤魔化すように大きな声を出した。
そして、私の両肩をガシッと掴む――つもりだったのか、直前で力を抜いて、そっと触れる。
「サフィア。何があっても、俺が守ってやるからな。お前は何も心配せず、ゆっくり治せばいい」
「はい……頼りにしています、兄様」
その言葉に嘘はないだろう。この熱血で過保護な兄は、きっと何があっても私を守ろうとしてくれる。
自分が「守られる側」のポジションにいることが、前世の私からすると不思議な感覚だった。けれど、今の華奢で非力な身体には、その誓いの言葉が頼もしく感じられた。
「……さて、そろそろ戻るか。あまり長居して、また熱でも出したら大変だ」
「そうですね。少し、足が疲れてきました」
正直に言うと、ふくらはぎがプルプルと小刻みに震え始めていた。たかが十メートル程の往復でこれだ。
帰りは行きよりもさらに慎重に、ローレン兄に半ば抱えられるようにして部屋へ戻った。
ベッドに腰を下ろした瞬間、どっと心地よい疲労感が押し寄せてきた。
けれど、胸の中には確かな達成感があった。
自分の足で歩いた。外の空気を吸った。
たったそれだけのことだが、この数日間の「絶対安静」の日々からすれば、大きな一歩だ。
(次は、あの窓のもう少し先まで)
私は小さく息を吐きながら、頼もしい兄の笑顔を見上げた。
焦らなくていい。ゆっくりでいい。私の新しい人生は、まだ始まったばかりなのだから。




