幕間「噂になる歌声」
廊下の窓から差し込む朝日が、いつもより眩しく感じられた。
アスコット侯爵家の若い下働きである私は、リネン室でシーツの束を抱えながら、自分の身体の異変に首を傾げていた。
「……変ね。全然、眠くない」
いつもなら、朝の重労働は重い身体を引きずってこなすものだ。特に昨日は、三男であるサフィア様のご病状に関するゴタゴタで、屋敷中がてんてこ舞いだった。心身ともに疲労困憊で泥のように眠り、朝は死人のように起きる――はずだったのに。
今朝の私は、まるで羽根が生えたように足取りが軽かった。指先の冷えもない。昨日の筋肉痛も、嘘みたいに消え去っている。
この奇妙な爽快感の理由は、なんとなくわかっていた。
脳裏に蘇るのは、昨夜の記憶だ。
* * *
深夜、私は廊下の灯りを点検する当番だった。
しんと静まり返った屋敷の中、自分の足音だけが響く。正直に言えば、少し怖かった。薄暗い廊下の隅に、何かが潜んでいそうな気がして。
けれど、サフィア様のお部屋の前を通りかかったとき、その「音」は聞こえてきたのだ。
「――おはよう 優しい朝の匂い」
ビクリ、と肩が跳ねた。
けれど、すぐにその恐怖は解けた。扉の隙間から漏れてくるその声は、あまりにも透き通っていて、柔らかかったからだ。
歌だ、と思った。
聞いたこともない旋律。幼い子供の声のようにも、どこか遠い国の歌姫の声のようにも聞こえる。
「こわれた欠片が 元通りになる
大丈夫 もう怖くはないよ」
私は吸い寄せられるように足を止めていた。
その声が耳から入って胸の奥に届いた瞬間、ぎゅっと縮こまっていた心臓が、ふわりとほどけるような感覚を覚えたのだ。
「ひび割れた場所も 光で満ちる」
それはほんの短い時間だったけれど、歌が終わる頃には、私は夜の闇が怖くなくなっていた。
あれは、夢じゃなかったんだ。
* * *
「ねえ、やっぱり聞いた!?」
昼前の厨房の片隅。芋の皮むきをしていた同僚のメイドが、私の顔を見るなり目を輝かせて詰め寄ってきた。
私はあわてて人差し指を口に当てる。
「しーっ! 声が大きいってば」
「だって、あんたも昨日の夜、三階の廊下にいたでしょ? 聞いたわよね、あの歌!」
「う、うん。聞いたけど……」
どうやら、昨夜の不思議な体験をしたのは私だけではなかったらしい。
鍋をかき混ぜていた恰幅のいい料理人が、おたまを持ったまま割り込んでくる。
「俺も聞いたぞ。夜中に喉が渇いて水場へ行こうとしたら、上からすげぇ綺麗な声が降ってきたんだ。ありゃあ、精霊か何かが迷い込んだに違いねぇ」
「ですよね! 私なんか聞いただけで、ほら、先週ひねった手首の痛みが消えちゃったのよ!」
「俺なんて十年来の腰痛が今朝になったら治ってたんだぞ! どんな薬より効くじゃねぇか!」
確かに身体は軽くなったし、疲れも取れた。でも、十年来の腰痛が完治ってそれはさすがに言い過ぎじゃないだろうか。
けれど、皆の興奮は収まらない。
「あれはきっと、死の淵から生還されたサフィア様を守るために、神の御使いが降りてきて歌ったのよ」
「いや、もしかしたらサフィア様ご自身が、神様から特別な力を授かって歌われたんじゃ……」
「だとしたらとんでもないことだぞ。歌うだけで人を癒やすなんて、伝説の聖女様か?」
「サフィア様は男の子だってば」
「でも見た目は可憐な美少女……いえ、天使そのものだし」
ジャガイモの皮が次々と剥かれていく中、噂話は雪だるま式に膨れ上がっていく。
「枕元で歌ってもらったらハゲが治るかもしれない」という話になりかけた時、厨房の入り口から低い咳払いが響いた。
「――楽しそうだな、お前たち」
ビシッ、と全員の動きが止まる。
そこに立っていたのは、執事長のラグナ様だった。
いつも通りの完璧な身なり。感情の読めない表情。その鋭い眼光が、私たちを射貫く。
「し、執事長! これはその、決してサボっていたわけでは……!」
料理人が言い訳をしようとするのを手で制し、ラグナ様は静かに私を見た。
「お前だな。昨夜、三階の当番だったな」
「は、はいっ!」
「少し耳を貸せ。……そこの水場まででいい」
終わった。
私は絶望的な気分でラグナ様の後についていった。
夜中に廊下で立ち聞きをしていたことを咎められるのだろうか。それとも、根も葉もない噂話に参加したことだろうか。どちらにしても、雷が落ちるのは確実だ。
厨房から少し離れた水場まで来ると、ラグナ様は足を止め、振り返った。
怒鳴られる、と身構えた私に降ってきたのは、予想外に穏やかな、けれど探るような声だった。
「……昨夜の歌声について、詳しく聞かせろ。どんな歌だった?」
え?
私は瞬きをして、恐る恐る顔を上げた。ラグナ様の表情は真剣そのもので、怒っているというよりは、情報を求めている探索者のような顔つきだ。
「は、はい。その……とても優しくて、温かい歌でした。歌詞はよく覚えていないんですが、たしか……」
私は記憶をたぐり寄せ、昨夜聞いたフレーズを、小さな声で口ずさんでみた。
「『焦らなくていい ゆっくりでいい……』とか、『涙のあとに 花が咲くように』……とか」
自分の音痴な歌声が恥ずかしい。
けれど、ラグナ様は目を細め、深く頷いた。
「ふむ。……やはり、そうか」
「あ、あの。執事長も、ご存知なのですか?」
「いや」
ラグナ様は短く答え、ふっと息を吐いた。その横顔には、困惑と、隠しきれない感嘆の色が混じっていた。
「サフィア様の声だ。……あの方のお部屋から、微かな魔力の波長を感じてはいたが」
「やっぱりサフィア様なんですね!」
私が思わず声を上げると、ラグナ様は人差し指を唇に当てた。
「声が大きい……いいか、この件はあまり大っぴらに騒ぎ立てるな」
「えっ、どうしてですか? あんなに素敵な歌なのに」
「だからだ」
ラグナ様は少し困ったように眉根を寄せた。
「あの方はまだ幼い。それに、病み上がりだ。使用人たちが『腰痛が治った』だの『毛が生えた』だのと押しかけてみろ。サフィア様の身が持たん……それに、あのような『力』のある歌声、外に知れれば面倒な連中も寄ってくる」
言われてみればその通りだ。いや、ハゲは治ってないけれど……
もしあの歌声が本当に奇跡の力を持っているとしたら、王都の偉い人たちが放っておかないだろう。サフィア様はまだ9歳。あんなに小さくて儚い方を、大人の事情に巻き込むなんて想像しただけで胸が痛む。
「わかりました。私たちだけの、秘密にします」
私が大きく頷くと、ラグナ様はようやくいつもの生真面目な顔を崩し、わずかに口元を緩めた。
「うむ……だが、そうだな。お前たちが元気になったのなら、それはサフィア様からの無自覚な『ご褒美』だと思っておけばいい。感謝して、その分しっかり働くことだ」
「はい!」
ラグナ様は踵を返し、執務室の方へと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は思う。
執事長だって、本当はあの歌声に驚いているのだ。もしかしたら、ラグナ様も昨夜こっそり聞いていて、そのおかげで今日は眉間の皺が一本少ないのかもしれない。
* * *
厨房に戻ると、皆が「どうだった?」「怒られたか?」と駆け寄ってきた。
私はとっさに、人差し指を立ててみせた。
「怒られてないよ。ただ、サフィア様は病み上がりだから、騒いでご迷惑をかけないようにって」
「なんだ、そうか……」
料理人が残念そうに肩を落とす。
けれど私は、こっそりと付け加えた。
「でもね、あの歌声が『特別』なのは、執事長も認めてたわよ」
その一言で、その場の空気がぱっと華やいだ。
わっと歓声が上がりそうになるのを、皆で必死に押し殺す。
なんだか、私たちだけで凄い宝物のありかを知ってしまったような、共犯者のようなワクワク感が胸を満たした。
午後の掃除の時間。
私はあえて、サフィア様のお部屋の前を通るルートを選んだ。
もちろん、聞き耳を立てたりはしない。ただ、通り過ぎるだけだ。
分厚い扉の向こうからは、今はもう歌声は聞こえない。静かな気配がするだけだ。
もしかしたら、お昼寝中かもしれない。
(サフィア様、ありがとうございます)
心の中でそっとお礼を言う。
あんなに小さな体で、死にかけていたというのに、こんなにも私たちを元気にしてくれるなんて。
昨日の夜、廊下で感じた「何かに守られているような感覚」は、きっと気のせいじゃなかった。
「……またいつか、聞けるといいな」
私はモップを握り直すと、昨日よりもずっと軽い足取りで、廊下の続きを歩き出した。
この屋敷には、小さな天使がいる。
その噂は屋敷の外にこそ広まっていないが、ラグナ様の言いつけを守る使用人たちの間では、消えることのない確信となって語り継がれていくことになった。
『今日のサフィア様』の様子を報告し合うのが、私たちの密かな楽しみとなるのは、今より少し先のお話。私は意気揚々と午後の仕事に向かった。




