第4話「うっかり歌にバフを盛る」
白いシーツの擦れる、カサリという微かな音だけが、夜の静寂に溶けていく。
昼間の喧噪が嘘のように、アスコット侯爵家の屋敷は深い眠りに落ちていた。
天蓋付きの豪奢なベッドの中、サフィア・アスコットは、ぱちりと目を開けた。
窓の外には、深い藍色の夜空が広がっている。
9歳になったばかりのサフィアの身体は、体力的には消耗しているものの、意識だけは妙に冴え渡っていた。
(……安静にして魔力を制御しろ、か)
昼間、医師ハロルドが言い放った言葉を思い出し、サフィアは心の中で小さくため息をついた。
サフィアの体内に渦巻く魔力は、常人の許容量を遥かに超えているらしい。医師はそれを「奇跡」と呼び、同時に「一歩間違えば暴走する危険物」のようなニュアンスで警告したのだ。
(危険物指定の三男って、なかなかのパワーワードよね。まあ、あんなSF映画顔負けの光り方をする水晶板を見せられたら、ぐうの音も出ないけど)
前世、日本のとあるオフィス街で数字と納期に追われるOLだった記憶を持つサフィアにとって、この状況は「ハードモードな異世界転生」以外の何物でもない。
しかも、今のサフィアの外見は、どう見ても可憐な深窓の令嬢だ。銀髪に紫の瞳、陶器のような白い肌。鏡を見るたびに「誰よこれ」と突っ込みたくなるが、戸籍上は正真正銘、侯爵家の三男である。
私は夜までの間に、サフィアを支えてくれていた人たちの名前を聞き出していた。
侍女のリリア、母のミレア、父のグラン、執事長のラグナ、兄のローレン、そしてハロルド先生。よし、覚えてる!
サフィアは周囲に視線を巡らせた。
ベッドの脇、豪奢な椅子に腰掛けたまま、侍女のリリアがこっくりこっくりと舟を漕いでいる。膝の上には読みかけの本が広げられたままだ。
さらに、部屋の隅にある長椅子では、母のミレアが毛布にくるまって横になっている。
(二人とも……限界ギリギリじゃない)
ランプの淡い光に照らされたリリアの横顔には、化粧でも隠しきれない隈が浮かんでいた。そして眠っているミレアの顔にも、明らかな介護疲れが見て取れた。
サフィアが病に倒れてからというもの、彼女たちは片時も離れず看病を続けてくれたのだ。
(ブラック企業も真っ青の勤務実態よ。私が言うのもなんだけど、ちゃんとベッドで寝てほしいわ……)
胸の奥がきゅっと痛む。
魔力の暴走だか奇跡だか知らないが、自分のせいで大切な人たちをここまで消耗させてしまった事実が、サフィアには何よりも申し訳なかった。
「……ふぅ」
サフィアは小さく息を吐いた。
何かできないだろうか。とはいえ、今のサフィアにできることといえば、大人しく寝ていることくらいだ。身体を起こそうとするだけで、衰えた筋肉が悲鳴を上げる。
(寝たままできること……。そういえば)
喉の調子を確かめるように、ん、と小さく音を鳴らす。
不思議と喉の奥だけは潤っている感覚があった。
前世では、残業続きで終電に揺られていた夜、イヤホンから流れる推しの曲を口ずさむことだけが、荒んだ心の癒しだった。
(この状況でアップテンポなダンスナンバーは、さすがに空気が読めてなさすぎるわね。……あれにしましょうか)
脳内のプレイリストから、一曲のバラードを選び出す。
それは前世でサフィア――緋色茜が、眠れない夜に幾度となく聴いた、推しアイドルの隠れた名曲。
静かで、優しくて、明けない夜はないと教えてくれる歌。
サフィアは唇を湿らせると、小鳥のさえずりのような声量で、そっと歌い始めた。
「長い夜が ゆっくりと溶けていく……」
静寂に、澄んだ声が波紋のように広がる。
自分でも驚くほど、滑らかな滑り出しだった。
「窓のむこう 白く霧が晴れて
冷たい風は どこかへ帰った
静かな呼吸だけが ここに残る……」
(あら……?)
歌詞をなぞりながら、サフィアは内心で首を傾げた。
声が、出しやすい。
前世のカラオケボックスで歌ったときとは比べものにならないほど、音が素直に伸びる。
リリアの身体が、びくりと小さく揺れた。
目を覚ましてしまうかとサフィアは一瞬歌うのを躊躇ったが、リリアはうっすらと目を開けただけで、焦点は合っていないようだった。
彼女は夢うつつのまま、「……きれい……」と、寝言のように呟く。
「昨日までの ちくりとした痛みも
今はもう やわらかく眠ってる
木の葉の上の 朝露みたいに
金色の光を 待っているんだ」
サフィアはそのまま歌い続けた。
子守歌のように優しく、語りかけるように丁寧に。
(Bメロ、ここから少しずつ温度を上げていく感じ……やっぱり良い曲ね)
「誰かの手が そっと包んでくれた
毛布のような 見えないぬくもり
凍えた指先が ほどけていくよ
優しい温もり 胸に満ちて」
歌っていると、不思議な感覚に包まれた。
身体の奥底、丹田のあたりに溜まっていた重苦しい熱の塊――おそらく医者の言う「過剰な魔力」――が、歌声に乗って外へと流れ出していくような気がするのだ。
それは放出というよりも、循環に近い心地よさだった。
部屋の中の空気が、ふわりと変わる。
ランプの炎が、風もないのにゆらりと大きく揺らめき、温かな琥珀色の光を投げかけた。
サビに入ると、サフィアの声はさらに透明度を増していった。
「おはよう 優しい朝の匂い
こわれた欠片が 元通りになる
大丈夫 もう怖くはないよ
ひび割れた場所も 光で満ちる」
ミレアの顔に刻まれていた険しい疲れが、見る間にほどけていく。
まるで極上のマッサージを受けたかのように、強張っていた肩の力が抜け、安らかな寝息が聞こえ始めた。
リリアもまた、本を抱きしめたまま、深く穏やかな呼吸を繰り返している。くたびれて土気色になった顔は、みるみる健康的な赤みを取り戻していた。
(……これ、完全に『強化』かかってない?)
サフィアは冷静にツッコミを入れた。
ただ歌っているだけだ。それなのに、部屋全体が日向ぼっこをしているような、不思議な温かさに満たされている。
壁の隅々までが、優しく発光しているような錯覚さえ覚える。
(まあいいわ。プラシーボ効果だとしても、二人が楽になるなら何でもありよ)
「焦らなくていい ゆっくりでいい
一歩ずつ土を 踏みしめれば
涙のあとに 花が咲くように
私の今日が はじまっていく……」
一番を歌い終える頃には、部屋を満たしていた張り詰めた緊張感は完全に消え失せていた。
サフィア自身、歌えば歌うほど身体が軽くなるのを感じていた。
喉の渇きも痛みもない。むしろ、もっと歌っていたいという欲求が湧いてくる。
(二番もいっちゃおうかしら。この歌詞、今の私にはちょっと刺さりすぎるけど)
サフィアは一度だけ瞬きをして、続きを紡いだ。
「森の向こう ずっと遠い場所に
石積みの高い塔が あるという」
(石積みの塔って、こっちの世界だとガチで魔王とか封印されてそうで怖いのよね……)
「まだ知らない 言葉や不思議が
たくさん待っている そんな気がして
地図のない道を 想像してみる
空はどこまでも 続いているね
小さな靴でも 歩いていける
憧れの場所へ 届くように」
「小さな靴」というフレーズで、サフィアは布団の中で自分の足を少し動かしてみた。
9歳の子どもの足。まだ何者でもない、けれど何にでもなれるかもしれない、小さな足。
前世の記憶と今の状況が重なり、歌詞の一つ一つが胸に沁み込んでいく。
「教わったことを 忘れないように
大事な約束 ポケットに入れて
背中を押す 風が吹いたなら
顔を上げて 前を向くんだ」
リリアが、ふふ、と幸せそうに笑った気がした。どんな夢を見ているのだろう。
サフィアもつられて、口元を緩める。
「ありがとう 優しい朝の匂い
身体の奥から 力が湧くよ
大丈夫 ひとりじゃないから
守られた温もり 覚えている」
歌声は、夜の部屋に溶けていく金色の粒子のようだった。
サフィアは、この歌が持つ「祈り」のような力が、魔力という形を借りて具現化しているのを、肌感として理解し始めていた。
(ああ、なんだか……すごく気持ちいい)
魔力を燃やす感覚とは、これほどまでに清々《すがすが》しいものだったのか。
それはまるで、ずっと堰き止められていた詰まりが解け、清流が流れ出したかのような爽快感だった。
「焦らなくていい ゆっくりでいい
自分の速さで 進んでいこう
涙のあとに 虹がかかる
私の明日へ 続いていく」
最後のフレーズを歌い終えると、サフィアは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
歌の余韻が、優しく部屋を満たしている。
リリアもミレアも、今は泥のように……いや、雲の上で微睡む天使のように、深く満ち足りた眠りに落ちていた。
その寝顔を見ているだけで、サフィアの胸もいっぱいになる。
(お疲れ様、リリア、お母様)
サフィアは布団からそっと手を伸ばし、ランプのつまみを回して光を落とした。
部屋が暗闇に包まれるが、不思議と怖くはない。
自分の胸の内に、小さな灯りがともった気がしたからだ。
「……ん、ふふ」
満足げな笑みをこぼし、サフィアは枕に頭を沈めた。
歌う前よりもずっと、身体が軽くなっている。
あんなに重かった瞼が、今は心地よい重みで自然と閉じていく。
(まさか異世界で、推しの曲を子守歌にする日が来るなんてね……でも、悪くないわ。私の声、意外といい仕事するじゃない)
もしも、この声で誰かを癒やせるのなら。
そんな柄にもないことを考えながら、サフィアの意識は急速に温かな微睡みへと落ちていった。
「おやすみなさい……」
誰にともなく呟いたその声は、優しく夜に溶けていった。




