第20話「初めての魔術指導、できる教官」
窓の外は曇りがちだったが、差し込む光は柔らかく、涼やかな風が静かに入り込んでいた。
アスコット侯爵家本邸の一室。学習机や黒板、本棚が整えられたこの私室で、サフィア・アスコットは静かに息を吐いた。
机の上には革表紙の『魔唱ノート』が開かれている。昨夜、自らの歌声が及ぼす影響をしたためたページが、真新しいインクの匂いを漂わせていた。
「サフィア様、お加減はいかがですか。お顔色もよろしいようですが」
サフィア付きの侍女であるリリアが、手早く衣服の乱れを直し、体調を気遣うように顔を覗き込んだ。
「ええ、大丈夫です。少し緊張していますが、体調は万全ですよ」
サフィアが丁寧に答えると、リリアは安心したように微笑んだ。
サフィアは戸籍上、れっきとした男の子だが、美しい銀髪に紫の瞳という容姿のせいで、黙っていると可憐な女の子に見られがちだ。しかし、身に纏うのは動きやすい男の子用の衣服であり、リリアも過剰に飾り立てるような真似はしていない。
コンコン、と控えめで規則正しいノックの音が室内に響いた。
「どうぞ」
サフィアが声をかけると、重厚な扉が開かれた。
姿を見せたのは、魔術師団副長であるフレーニア・ロアクルスと、その父であり魔術師団長でもあるゼイヒム・ロアクルスだった。
「失礼いたします、サフィア様。本日から魔術の基礎指導を担当させていただきます、フレーニアです」
「付き添いのゼイヒムです。サフィア様、よろしく頼みます」
二人が入室するのを見届けると、リリアは静かに一礼をして退室していった。
扉が閉まる小さな音を最後に、部屋の中は一瞬、静まり返る。
フレーニアは手にした鞄から、計測器具や書類を淀みない手つきで机の上に並べ始めた。紙や金属が触れ合う微かな音だけが響く。
彼女の纏う空気は完全に仕事モードで、サフィアはすぐ(まずは安全手順から入るつもりなのかな)と理解した。前世の記憶を持つサフィアにとって、この徹底した段取りの良さは好ましかった。
「では、さっそく始めましょう。サフィア様、初回である本日は、魔法を放つ訓練は行いません」
「はい、フレーニア先生。まずは安全手順の確認からですね」
サフィアが頷くと、フレーニアは少しだけ目元を緩め、一枚の羊皮紙を広げた。そこには『安全手順書』と記されていた。
「ご明察の通りです。我々魔術師団において、最も重んじられるのは才能の行使ではなく、事故の未然防止です。まずはこの手順書に目を通し、内容に同意していただきたいのです」
示された項目には、事細かな禁止事項や遵守すべきルールが並んでいた。
サフィアは(随分と細則が多いな)と内心でツッコミを入れつつも、過去に自身が魔力停滞症で危篤状態に陥ったことを思い出していた。膨大な魔力を抱える身として、制御を誤ればどうなるかは推して知るべきだ。
サフィアは指先で書面の各項目をなぞりながら目を通す。このところの読書によって見慣れた王国語だが、依然として頭の中では、それを日本語として理解していた。翻訳チートさまさまだ。
「わかりました。安全第一ということですね。すべて同意します」
「ありがとうございます。魔術は不確かなものを扱うからこそ、才能任せにするのではなく、事故の想定を排除せず、危険に備えるという習慣が必要なのです」
フレーニアの言葉に、サフィアは深く頷いた。
続いてフレーニアは、具体的な危険サインと、その際の停止方法についての説明に入った。
「魔力を行使する際、危険を知らせるサインには大きく分けて二種類あります。一つは身体的なサイン。急な息切れ、冷や汗、あるいは視界がチカチカするような感覚です。もう一つは魔力的なサイン。体内の熱の偏りや、魔力の波形が乱れる感覚が生じた場合は、即座に中断しなければなりません」
「なるほど……。身体の不調と、魔力そのものの不調を区別して把握するのですね」
「その通りです。もし異常を感じたら、決して無理に制御しようとせず、すぐに私に合図を出してください。そして魔力の流れを断ち切るために、呼吸を整え、姿勢を一度リセットします。やってみましょう」
サフィアはフレーニアの指示に従い、深く息を吸って吐き出し、身体の力を抜く動作を確認した。
(医療の注意点と魔術の注意点が、見事に噛み合っているな)
サフィアは安堵とともにメモを取った。
今日の授業は『魔法を使う』ことよりも『魔法を止める』ことに主眼が置かれている。それが何よりも誠実な指導に思えた。
「では、次に基礎計測を行います。魔力を動かすといっても、ほんの僅かな操作のみです」
フレーニアは卓上に、透明な輝石がはめ込まれた小さな計測器具を置いた。
「この輝石に軽く触れ、魔力をほんの少しだけ流し込んでみてください。安静時の魔力の『量』と『流れ』を測ります」
フレーニアが手本として輝石に触れると、内部に淡い光の線が浮かび上がった。
「このように。決して無理はなさらず、指先に少し熱を集める程度の感覚で構いません」
「やってみます」
サフィアは深呼吸をして胸の奥で渦巻く魔力を意識し、ほんの一滴だけを指先へ流し込むよう意識を集中させる。そして慎重に手を伸ばし、冷たい輝石の表面に指を触れた。
途端に、輝石が眩い光を放ち、内部の光線が複雑に錯綜した。派手な爆発などは起きなかったが、明らかにフレーニアの時とは異なる強い光だ。
(やっぱり、私の魔力は常識外れなのかな……)
サフィアは変に興奮して魔力を暴走させないよう、急いで指を離し、先ほど教わった通りに呼吸を整えて自制した。
「……素晴らしい出力と密度です。ですが、波形は驚くほど安定していますね」
フレーニアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに驚きを隠し、手元の羊皮紙に素早く数値を書き留めた。
未知の現象を前にしても、即座に観測項目に落とし込む彼女の顔は、まぎれもなくプロフェッショナルのそれだ。
「サフィア様、机に出されているそのノートは、ご自身で『魔唱』について記録されているものですね?」
フレーニアの視線が『魔唱ノート』に向けられた。
「はい。私が歌を歌ったときに、魔力がどう動くかを書き留めておきたくて。ただ、まだ手探りの状態でして」
サフィアが答えると、フレーニアは少し身を乗り出した。
「非常に良い心がけです。以前にもお話したように、そのノートを今後の授業の記録として、是非、活用していきましょう。まずは、後から比較検討できるよう、記録の様式を統一するところから始めた方が良いですね」
「記録の型、ですか。具体的にはどのように書けばよいのでしょう」
「そうですね。まずは『前提条件』、その日の体調や天候。次に『体感』、魔力を動かした際の感覚。そして『周囲への変化』と『持続時間』。これらの項目を毎回必ず埋めるようにすれば、貴重な研究資料となります」
フレーニアの提案に、サフィアは少し照れくささを覚えつつも嬉しくなった。
遊び半分で書き始めたノートだったのに、きちんと必要性を受け入れた上で、学術的な意味を持つ記録となるよう提案してくれたからだ。
「おいおい、フレーニア。初日からそんなに詰め込んで、サフィア様が疲れてしまわないか?」
それまで壁際で静かに見守っていたゼイヒムが、苦笑混じりに口を挟んだ。
「団長。私はあくまで安全に指導を進めるための最低限の基盤を作っているだけです」
「分かっているさ。お前の段取りの良さは俺が一番信頼している。だが、安全第一は当然として、息を抜くことも覚えさせないとな」
ゼイヒムは大きな歩幅で近づいてくると、サフィアに向かってニッと笑いかけた。
「サフィア様。こいつは少し堅物だが、腕と知識は確かだ。焦らず、ゆっくり学んでいってくれ。何かあれば俺も力を貸すからな」
「ありがとうございます、ゼイヒム様」
サフィアは(団長としての圧と、父親としての軽さが同居しているな)と内心でツッコミを入れつつも、二人の親子仲の良さに自然と頬が緩んだ。
ゼイヒムは要所で口を出すが、最終的な判断や授業の主導権は娘であるフレーニアに完全に委任している。魔術師団としての責任の所在が明確に共有されている空気は、非常に居心地が良かった。
安全手順や才能の話が一段落したところで、サフィアの脳裏にふと一つの疑問が浮かんだ。これからの魔術の学びにおいて、避けては通れないかもしれない概念。
「フレーニア先生。少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「魔術の才能や、不思議な力のことを話す際によく『加護』という言葉を耳にします。一般常識として、加護とは一体どのようなものと捉えればよいのでしょうか」
サフィア自身、自らの歌が引き起こす特異な現象が何らかの加護によるものなのかと考えることがあった。だが、それを直結させすぎないよう自制しつつ、あくまで一般的な知識として尋ねた。
特に自分の『魔唱』は、魔術なのか加護なのか? その境界が、いまだによくわからないのだ。
フレーニアは少しだけ表情を引き締め、真摯に答えた。
「加護というのは、厳密な魔術理論の枠組みには収まらない概念です。神々から与えられる特別な恩寵として、信仰や人々の生活の中に根付いている常識、あるいは特異な才能を説明するための語り方でもありますね」
「特別な人だけの伝説、というわけではないのですね」
「ええ。ですが、加護の有無やその性質は、時に噂となり、政治や社交の場でも慎重に扱われるものです。魔術師団としては客観的な事象を優先しますが、避けては通れない知識でもあります」
フレーニアはそこで言葉を区切り、少しだけ声を和らげた。
「神々や加護のより詳しい成り立ちについては、次の機会にでも礼拝室で学ぶのがよろしいでしょう。あちらには、そうした歴史を伝える資料も多く揃っていますから」
「礼拝室で……。分かりました、楽しみにしておきます」
サフィアは頷いた。
加護への興味が強まると同時に、自分の力をどう位置づけるかという新たな視点を得た気がした。
「本日の指導はここまでといたしましょう。初回から長引かせては、お疲れも出ますからね」
フレーニアが手際よく器具を片付け始める。
本格的な魔法の行使には至らなかったが、サフィアの心には確かな手応えがあった。
安全手順の確立、基礎の計測、そして記録様式の統一。魔唱というはっきりしない現象を「技術として扱う」ための入り口に、ようやく立つことができた気がする。
初めての授業に緊張したのか、知らずに疲れが出たようだ。知らなかったことを一つ一つ学んでいく実感、それも前世では絶対に知ることのない魔術の授業だ。胸が躍らないはずはない。
サフィアはノートの真新しいページに、今日の日付と『第一回魔術指導』という文字を丁寧に書き込み、静かにノートを閉じた。




