第19話「サフィアの部屋、銀の髪飾り」
雨上がりのしっとりとした空気が、開け放たれた窓から廊下へと流れ込んでいた。
サフィアは、母ミレアと侍女のリリアに付き添われながら、ゆっくりと屋敷の廊下を歩んでいる。
あまりに長くベッドの上で過ごしていたせいで、いつの間にかそこが自分の部屋のように思っていたが、そこはあくまで寝室だった。知って驚いたが、どうやら自分の部屋というものがあったらしい。
(さすがは、お貴族様。あんな広い部屋が寝るためだけだったなんて思いもしなかったよ)
サフィアは内心あきれながら、そっと息を吐いた。これまではベッドの上で過ごす時間が大半を占めていたが、今日からは違う。
これも日常を取り戻すための第一歩だ。
「無理はしていませんね、サフィア」
隣を歩く母が、気遣わしげな視線を向けてくる。サフィアは顔を見上げ、小さく頷いた。
「ええ、大丈夫です。足が軽いくらいですよ」
「ふふ、あまりはしゃいでは駄目よ、サフィア」
母が柔らかな微笑みを浮かべながら、サフィアの銀色の髪をそっと撫でた。母の眼差しには、重い魔力停滞症を乗り越えた我が子への、深い愛情と安堵があった。
やがて真新しい木目が美しい、扉の前に立ち止まる。
「さあ、ここがサフィアの新しいお部屋よ」
母が扉に手をかけ、ゆっくりと押すと、その重厚な扉は音もなく開いた。部屋の全貌がサフィアの目に飛び込んでくる。
そこは、柔らかな光に満ちた空間だった。窓の外には重い雲が残っているが、差し込む光は穏やかだ。
部屋の中央には、サフィアの体に合わせて設えられた立派な机と、座り心地の良さそうな革張りの椅子が置かれている。壁際を占める大きな本棚には、学園への入学準備のための真新しい本や、図書室から移されたであろう分厚い専門書が整然と並んでいた。さらに、今後の魔術指導のための黒板まで備え付けられている。
(ここが私の、新たな生活の中心になるんだね)
サフィアは部屋の中央へと歩みを進め、くるりと周囲を見渡した。この部屋もすごく広い。一人で使うにはもったいないほどだ。
「いかがですか、サフィア様。使い勝手が良いように、奥様と相談して配置を決めさせていただきました」
リリアが机のそばに立ち、椅子を少し引いてみせた。
「座ってみても?」
サフィアが尋ねると、横で見守っていた母が嬉しそうに頷く。サフィアは椅子に腰を下ろし、滑らかな木目の天板を指先でそっと撫でた。高さもちょうどよく、机に向かうだけで自然と背筋が伸びるようだった。
「素晴らしいです。お母様、リリア。私のために素敵な部屋を用意してくださって、ありがとうございます。ここで学ぶのが楽しみです」
サフィアがまっすぐに礼を言うと、母は目元を潤ませてサフィアを抱きしめた。
「あなたが元気になって、こうして机に向かえるようになる日を、ずっと待っていたのよ」
「おっと、感動の場面にお邪魔してしまったかな」
不意に、開いたままの扉から野太い声が響いた。振り返ると、そこにはアスコット侯爵家当主でありサフィアの父であるグランと、兄のラアル、ローレンの三人が顔を揃えていた。
「お父様、ラアル兄様、ローレン兄様」
サフィアが椅子から立ち上がろうとすると、父が大きな手で制した。
「そのまま座っていていい。どうだ、サフィア。具合は悪くなっていないか? 部屋が冷えるようなら、すぐに暖炉に火を入れさせよう」
「いえ、寒くはありませんよ。体調も問題ありません」
「そうか。だが、机の角が少し尖っている気がするな。怪我をしないように角を丸めるように職人に言っておくべきか……」
「父上、それは過保護というものです。サフィアはもう、机の角にぶつかって泣くような年ではありませんよ」
次男ローレンが苦笑交じりに口を挟む。しかし、そう言うローレン兄自身も、本棚の固定金具を念入りに確かめている。
「ローレンの言う通りだ。だが、サフィア、少しでも疲れたらすぐに休むんだぞ。無理をしてまた寝込むようなことになれば、母上が悲しむからな」
長男ラアルも、真剣な顔つきでサフィアの肩に手を置いた。武人肌の父も、優秀な兄たちも、弟のこととなるとどうにも心配性が過ぎるきらいがある。
(本当に、みんな過保護だなぁ)
サフィアは内心で小さくツッコミを入れつつも、その過剰なまでの愛が心地よかった。自分が回復したことが、この家族にとってどれほど大きな意味を持っているのか、痛いほどに感じる。
「ご心配には及びません。リリアもついていてくれますから、無理はしませんよ」
サフィアが微笑むと、父と兄たちは少し照れくさそうに咳払いをした。
「まあ、何かあればすぐに呼ぶといい。私たちは訓練場に向かうが、いつでも飛んでくるからな」
父はそう言い残し、ラアル兄とローレン兄もサフィアの頭を一度ずつ撫でてから、部屋を後にしていった。嵐のようにやってきて嵐のように去っていく男性陣の後ろ姿を見送りながら、母がクスクスと笑いをこぼす。
「みんな、心配でたまらないのね」
和やかな空気が戻った部屋の中で、サフィアは再び机に向き直った。引き出しの開け閉めを試し、使い勝手を確認していく。一番上の浅い引き出しを開けたとき、サフィアの手がピタリと止まった。
引き出しの奥のほうに、小さな布の袋が一つ、ぽつんと入っていたのだ。
なんだろうと思い、サフィアは袋の紐を解いた。中から出てきたのは、銀細工に小さな紫色の石が埋め込まれた、細工の細かい髪飾りだった。
触れてみると、ひんやりとした金属の感触が指に伝わる。美しい品だったが、サフィアには全く覚えがなかった。今の自分が使うようなものではないし。
(これは、誰かの忘れ物?)
サフィアは首を傾げた。欠落している記憶のせいかとも思ったが、どうにもこの髪飾りが自分とは結びつかない。得体の知れない小さな違和感と、理由の分からない胸の痛みを感じながら、サフィアは振り返った。
「お母様、この引き出しに、こんなものが入っていたのですが……誰の物でしょうか?」
サフィアが手のひらに乗せた髪飾りを差し出すと、その瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
母の表情から、先程までの穏やかな笑みがふっと消え去った。母の目は髪飾りに釘付けになり、小さく息を呑んだ。傍らに控えていたリリアもまた、さっと顔を伏せ、気配を消すように一歩後ろへと下がった。
(……いったい、どうしたの)
サフィアは戸惑い、差し出した手を止めた。ただの物ではない。その小さな金属の飾りが、この部屋にいる二人の心を激しく揺さぶっているのは明らかだ。そして、何故か自分の胸もチクリと痛む。そんな言い様のない違和感。
長い沈黙が続いた。窓の外から、遠くの雨だれが地面に落ちるかすかな音が聞こえる。
やがて、母は震える手でサフィアの手から髪飾りを受け取った。母の目には、深い悲しみと愛おしさが混ざり合ったように浮かんでは消えた。
「……これはね、シャノンのものなのよ」
母の声は、ひどく掠れていた。
「シャノン……?」
サフィアがその名を口の中で繰り返す。自分の知らない誰か。記憶を探ってみても、その名前で思い出すものは何もない。ただ、心の奥底で再びチクリとした痛みが走った。
「ええ。あなたは、覚えていないかもしれないけれど……」
母は髪飾りを胸元で両手で包み込み、ゆっくりと息を吐き出した。リリアがそっと母の背中に手を添え、無言で母を支えている。
「このお部屋はね、昔はあなたとシャノンの二人部屋だったの。シャノンは、あなたの……双子の妹だったのよ。でも、ずっと昔に、まだ幼い頃に……神様のもとへ旅立ってしまったの」
その言葉が、静かな部屋に重く降り注いだ。
サフィアは目を瞬かせた。シャノン。幼くして亡くした妹。
(そうか……今の私に欠落している、本来のサフィアとしての記憶。知らないはずなのに、この身体のどこかが覚えているのかな?)
見知らぬ妹の存在に、違和感は感じなかった。むしろ、心の奥底のかすかな痛みに訳もなく納得できた。すでに一度、家族を失っていた。それがどれだけの大きな喪失だったのか。自分に向けられている愛情は『もう失ってはならない』、そんな家族の強い願いによるものではないかと、この瞬間、はっきりと理解したのだ。
どう振る舞うべきだろう、どんな言葉をかけるべきだろう、サフィアは懸命に言葉を探した。
「お母様」
サフィアは立ち上がり、母の震える手を両手でそっと包み込んだ。
「教えてくださって、ありがとうございます。私が忘れてしまっていた大切なことを、お母様が覚えていてくださって、そして私に教えてくださって……感謝します」
母の目から、ついに堪えきれなくなった大粒の涙が零れ落ちた。母は泣き声を噛み殺しながら、サフィアの手を強く握り返した。
「ごめんなさいね、サフィア。あなたの新しい一日に、こんな……悲しい話をしてしまって」
「いいえ。悲しいことではありません。この部屋が、私とシャノンの部屋だったということを知ることができて、私は嬉しいです」
サフィアは真っ直ぐに母の目を見て、はっきりと言った。
部屋を年齢に合わせて整え直すということは、サフィアの未来への準備であると同時に、ここがかつて二人部屋であったという過去の喪失を上書きする意味もあったのだろう。母がどれほどの覚悟で、この部屋の準備を進めてくれたのか、サフィアには痛いほどに理解できた。
母は涙を拭い、何度か深く頷くと、持っていた髪飾りを小さな布袋に戻し、大切そうにサフィアの引き出しの奥へと仕舞い直した。
「これは、またここに置かせてちょうだい。きっとシャノンも、あなたがここでお勉強するのを、見守ってくれるわ」
「はい。大切にします」
やがて母の心は、ゆっくりと落ち着きを取り戻し始めた。そうして、リリアが母を伴って一時退室すると、部屋にはただ独り、静かで穏やかな時間が流れた。
サフィアは改めて、部屋の中を見渡す。
真新しい机、分厚い本が並ぶ本棚、真っさらな黒板。そして、引き出しの奥には、小さな銀の髪飾りが眠る。
点と点が、今ここで重なり合ったような気がした。自分が病を乗り越えて回復したこと、これから学園に向けて学びを深めていくこと、温かく不器用な家族の愛情、そして、かつてここにあった妹の記憶。
サフィアは机の天板に手のひらを当て、その感触を確かめた。記憶の無い自分には、妹だったシャノンのことは何もわからないけれど、双子の片割れである自分が生き延びたことに、大きな意味があるはずだ。
ひょっとしたら、私をこの世界に喚んだ神様が、亡くなった妹の持つ力を私にくれたのかも知れない。私の身体の中の膨大な魔力、そして記憶にない妹を身体のどこかで覚えているという事実。確かに妹のシャノンと、今もどこかで繋がっているのだろう。
悲しみに暮れる必要はない。ただ想いを抱えたまま、前へ進めばいい。ここで魔術を学び、知識を積み上げていこう。
窓の外を見ると、重い雲の隙間から、一筋の光が差し込み始めていた。雨上がりの柔らかな光が、サフィアの銀色の髪を、静かに照らし出していた。




