第18話「フレーニア、完璧な指導計画」
雨上がりの雫が、石造りの窓枠から滑り落ちていく。重く立ち込めた灰色の雲は未だ空を覆い隠しており、薄暗い昼下がりだったが、アスコット侯爵家本邸の敷地内に設けられた魔術師団の執務区画には、煌々とした魔力灯の明かりが満ちていた。
魔術師団副長であるフレーニア・ロアクルスは、自席の机上に積み上がった書類の山と格闘していた。彼女の指先は微かなインクの染みで汚れている。周囲には魔道具が発する微かなオゾン臭と、結界維持のために焚かれた香油の薬草めいた匂いが漂っている。
遠くの廊下を行き交う団員たちの足音や、魔道具が駆動する低い唸りを背景に、フレーニアは羽ペンを止めることなく書類の仕分けを続けていた。結界の定期点検報告、遠征部隊からの備品補充の稟議、訓練場の修繕記録。それら日常の裏方業務を的確に処理しながら、彼女は全く別の、真新しい羊皮紙の束を机の右側に分けて置いた。
一番上に記された表題は、『サフィア・アスコット様 魔術指導計画書』である。
(通常業務だけでも手一杯だというのに、全く、頭の痛い話だわ)
内心でそうぼやきながらも、フレーニアの口元は微かに引き締まっていた。侯爵家の三男であるサフィアの魔術指導担当。それは、新人教育の手腕を評価された彼女に直接下された、極めて重要な任務だった。仕事量の多さに現実的な焦りはあるものの、段取りさえ完璧に組んでしまえば現場は回る、と彼女の明晰な頭脳はすでに計算を終えている。
問題は、指導対象であるサフィア本人が抱える特異性だった。
かつての重病、魔力停滞症により伏せっていた彼は、その病から奇跡の生還を果たし、今や膨大な魔力を抱え込んでいる。それだけでなく、彼の歌声と魔力が共鳴し、周囲に特殊な影響を及ぼす現象――魔唱と呼ばれる事象が確認されていた。
(歌の影響は、もはや現場の笑い話や単なる噂では済まされない。緻密な観測と安全運用が必要な、最優先の『案件』ね)
フレーニアが計画書に視線を落とした矢先、開け放たれた事務室の扉から、書記を務める若手団員が小走りで近づいてきた。
「副長、よろしいでしょうか。昨夜の、その……『ふわふわ、すやすや』の件ですが」
「ええ、聞いているわ。屋敷のあちこちで、妙に体が軽くなったとか、疲労が抜けたという報告が上がっているそうね」
フレーニアは羽ペンを置き、若手団員に向き直った。昨夜、サフィアが自室で歌を口ずさんだ際、その魔力波形が屋敷の一部に波及し、まるで治癒魔術のような回復寄りの影響をもたらしたというのだ。
「はい。警備に就いていた騎士たちからも、『肩の古傷が痛まなくなった』『夜勤明けなのに熟睡した後のように頭が冴えている』といった声が続出していまして。現場では、サフィア様の歌声は奇跡の御技ではないかと、ちょっとした騒ぎになっています」
興奮気味に語る団員に対し、フレーニアは冷静な声音で応じた。
「奇跡、という曖昧な言葉で片付けないで。それは私たちが扱うべき『現象』よ。噂話の温度を下げて、正確な観測項目に変換しなさい。……報告を上げた者たちに、聞き取り調査を実施して頂戴。誰が、何時、屋敷のどの範囲で、具体的にどのような身体的変化を感じたのか。それをすべて書面に残すこと」
「あ、はい。すぐに調査様式を作成します」
「それと、この件に関する屋敷外への情報漏洩は厳禁よ。現場がサフィア様を特別な存在だと持て囃すのは止められないけれど、情報が外部に漏れれば、侯爵家にとって無用な厄介事を引き寄せることになるわ。団員たちには、あくまで『未知の魔力現象の観測中』であると徹底させて」
(すでに現場の空気は、彼をただの子供ではなく『特異な恩恵をもたらす存在』として扱い始めている。情報流出のリスクは、日増しに高まっていくわね)
若手団員が足早に去っていくのを見送りながら、フレーニアは再び計画書に向き直った。
彼女は新しい紙を引き寄せ、初回指導の目的を箇条書きにしていく。第一に安全確認。第二に基礎的な魔力量と放出量の計測。第三に記録様式の統一。そして第四に、魔術行使における禁則事項の共有。
これまでサフィアの体調管理は医療の管轄だったが、安定期に入った今、膨大な魔力を安全に運用するためには、魔術師団による物理的な制御・計測によるアプローチが不可欠だった。
(相手は9歳の子供。けれど、その小さな身体で扱う魔力量は、熟練の魔術師を凌駕しかねない。医療の観点である『危険サインの察知』と、私たちの観点である『魔術の制御と再現性』。その二つをどう橋渡しするかが、私の腕の見せ所ね)
思考を回転させ、指導計画の骨組みを書き進めていると、不意に背後から重々しい足音が近づいてきた。振り返るまでもなく、その足音の主が誰であるかは分かっていた。
「精が出るな、フレーニア。サフィア殿の指導準備は順調か?」
恰幅の良い体躯を揺らしながら姿を見せたのは、ロアクルス男爵であり、魔術師団の団長でもあるゼイヒム・ロアクルスだった。質実剛健を絵に描いたような厳格な顔つきの父は、娘の机上に積まれた書類の山を見て満足げに頷いた。
「ええ、団長。初回指導に向けた手順書と、観測用の記録フォーマットを固めているところです。結界の配置と計測道具の選定も、おおむね終わりました」
「うむ、流石だな。いよいよサフィア殿の指導が始動、というわけだ。……指導が、始動。ふっ」
ゼイヒムが口元を歪めて低く笑う。フレーニアは手元の書類から視線を外さず、小さく息を吐いた。
「団長。今は冗談に付き合って笑う時間はありませんよ。備品の棚卸し承認も残っているのですから」
「冷たいことを言うな。緊張をほぐしてやろうという親心だ」
ゼイヒムは肩を竦めると、すぐに団長としての真剣な眼差しに戻った。
「サフィア殿の件、教育計画と現場の指揮はすべてお前に一任する。医療班からの引き継ぎも、お前が最も適任だと侯爵様にもお伝えしてある。何かあれば俺が壁になる。思い切りやれ」
「……承知いたしました。ありがとうございます、団長」
(お父様のこういうところは、本当に助かるわ。団長自らが『私に任せる』と明言してくれたことで、団員たちも完全に私の指揮系統に従う空気が固まった)
親の茶目っ気を受け流しつつ、フレーニアはその言葉の裏にある強い信頼を確かに受け取った。ゼイヒムが短く頷いて事務室を出て行くと、フレーニアは立ち上がり、周囲で作業をしていた数名の団員たちに向けてパン、と手を叩いた。
「皆、手をとめて聞いてちょうだい。明日のサフィア様の初回指導に向けた、最終準備の割り振りを伝えるわ」
彼女の凛とした声に、書記や整備係の団員たちが一斉に視線を向ける。
「まずは計測道具の準備。第三倉庫から、高精度型の魔力測定用輝石を三つと、波形記録用の特製羊皮紙を十束、準備しなさい。それから、指導場所となる中庭の東側エリアに、念のため緊急遮断結界を張るわ。整備係は結界用の銀杭と香油を点検して、すぐに打ち込める状態にしておくこと」
「了解しました。待機場所はどのあたりに設定しますか?」
「結界の外周から十メルト離れた位置に、観測用の天幕を張ってちょうだい。指導中は私がサフィア様に付き添うけれど、万が一魔力が暴走した場合は、天幕から直ちに防護術式を展開できるように人員を配置すること。緊急時の連絡経路は、通常通り赤の魔力弾を合図とするわ」
団員たちが次々と返事をし、足早に準備へと散っていく。指示を出し終えたフレーニアは、自分の段取り一つ一つが、サフィアの安全、ひいては侯爵家全体の安全に直結しているという事実を肌で感じていた。
魔法というものは、決して杖を振って火の玉を出すような派手な術だけで成立しているわけではない。緻密な計算、入念な備品の管理、安全を担保するための結界構築、そして正確な記録。こうした裏方の作業の積み上げがあってこそ、魔術は初めて『技術』として機能するのだ。
(この責任の重さ、嫌いじゃないわ)
ふと、フレーニアは思い出したように、道具の準備に向かおうとしていた若手団員たちを呼び止めた。
「最後にもう一つ、重要な注意点があるわ。心して聞きなさい」
副長のただならぬ気配に、団員たちが少し緊張した面持ちで立ち止まる。
「明日の指導で、皆も遠巻きにサフィア様のお姿を拝見することになると思うけれど……サフィア様は、銀髪と紫の瞳を持つ、非常に愛らしいお顔立ちをされているわ。おそらく、初めて見た者は可憐な少女と見紛うでしょう」
団員たちの間に、戸惑いの色が広がる。サフィアが病弱であったため、実際にその姿を見たことのある団員はごく僅かだったのだ。
「ですが、サフィア様は戸籍上も、ご自身の認識も、立派な『男の子』よ。侯爵家の三男であらせられる。決して物珍しそうに凝視したり、外見について驚きを口に出したりしないこと。あくまで一人の高貴な男子として、そして私たちの『指導対象』として、最大限の敬意と礼節をもって接しなさい。現場の内部ルールとして、これを徹底するように」
「は、はい! 心得ました!」
団員たちが気を引き締めて深く頷き、今度こそ作業へと戻っていった。
(……偉そうに注意したけれど、私自身も初対面で動揺しないように、しっかりと心の準備をしておかなければね)
フレーニアは自らに言い聞かせるように、小さく息を吸い込んだ。彼をただ珍しい存在として消費させてはならない。正しい知識を与え、その強大すぎる力を守り導くことこそが、魔術師団の、そして自分の務めなのだ。
机上の整理を終え、綺麗に揃えられた初回指導用の書類束を革の鞄にしまう。封蝋の硬い手触りと、鞄の確かな重みが、フレーニアの掌に心地よく伝わってきた。
(これで初回指導のセットは完成。あとは屋敷側と明日の動線確認を済ませるだけね)
未知の力に対する不安が全くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、自らが組み上げた手順と段取りがしっかりと機能し始めているという、確かな手応えがあった。
冷めたお茶を一口だけ飲み、フレーニアは窓の外を見やった。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から薄日が差し込み始めている。
明日から、すべてが本格的に動き出す。これが、規格外の力を持つ幼き主君――サフィアの時代の入り口であり、自分の仕事がその物語の重要な歯車になるのだと、フレーニア・ロアクルスは静かな高揚とともに自覚していた。




