第17話「魔唱ノートと、魔法の先生」
サフィア・アスコットの寝室は、雨上がりのしっとりとした空気に包まれていた。
窓の外には厚い雲が垂れ込めているものの、そこから漏れ出る光は柔らかく、身体に心地よい。天蓋付きのベッドはすでに綺麗に整えられ、サイドテーブルには湯気を立てる紅茶が置かれている。
室内の空気を入れ替えるために少しだけ開けられた窓から、湿った土と草の匂いが漂ってきた。
「サフィア様、お加減はいかがですか? 昨夜は一度も目を覚まされなかったようですが」
侍女のリリアが、ランプの芯を調整しながら声をかけてきた。彼女の手つきは手慣れたもので、サフィアが快適に過ごせるよう、細やかな気配りを行き届かせている。
「ええ、とてもよく眠れました。身体も軽いですし、気分もすっきりしていますよ」
サフィアは椅子に座り直しながら、リリアに向けて穏やかに微笑んだ。
その言葉に嘘はない。むしろ、想像以上の成果だった。
(昨夜の実験は大成功だったと言っていいはず)
サフィアは手元の革表紙のノートに視線を落とす。
昨夜、就寝前に試した新曲『ふわふわ、すやすや』。その効果は覿面だった。
これまでの魔唱実験の中でも、特に具体的な意味がない柔らかな曲を選んだつもりだったが、歌に込めた願いのせいなのか、目覚めた時の爽快感が段違いだった。身体の節々に残っていた緊張や、病後特有の倦怠感が綺麗に拭い去られている。
おそらく、屋敷の使用人たちにも何らかの影響があったに違いない。廊下ですれ違ったメイドたちが、どこか足取り軽く、表情も晴れやかだったのをサフィアは見ていた。
(早くこの感覚を記録しておかないとね。効果範囲や持続時間、それに主観的な体感データの整理……書きたいことが山積みだ)
サフィアの内心は、研究者としての欲求でうずうずしていた。
リリアの献身的な世話はありがたいし、彼女の淹れてくれる紅茶は絶品だ。けれど今は、一刻も早く一人になって、この湧き上がる考察をノートに書き留めたい。
そんなサフィアの心中を知ってか知らずか、リリアは満足げに頷くと、紅茶のカップをサフィアの手元へ寄せた。
「顔色もとても良くなられましたし、旦那様も奥様もご安心なさいますわね」
リリアが筆記用具を整え、退室の準備を始めたその時、部屋の扉が控えめにノックされた。
リリアが扉を開けると、そこには穏やかな表情の男性が立っていた。アスコット家付きの医師、ハロルドである。
「おや、リリア。サフィア様の様子はどうかな?」
「ハロルド先生。サフィア様はとてもお元気ですよ。昨夜はぐっすりと眠れたようです」
「ほう、それは重畳。顔色も良さそうだ」
ハロルドはリリアの言葉に目を細め、サフィアへと視線を向けた。
リリアは一礼すると、ハロルドと入れ替わるようにして部屋を出て行く。
「後は先生にお任せしますね。サフィア様、あまり根を詰めすぎないでくださいね」
「はい、ありがとうございます、リリア」
扉が閉まり、部屋には静寂が戻った。
ハロルドはいつもの診察鞄を置くと、サフィアが机に広げていたノートに気づき、興味深そうに眉を上げた。
「サフィア様、それは?」
「あ、これは……その、歌と魔力の関係について、私なりに気づいたことを書き留めているんです」
サフィアは少し照れくさそうに答えた。
咎められることはないだろうが、9歳の子供が書く内容としては少々理屈っぽいかもしれない。
「拝見しても?」
「ええ、字が汚くて恥ずかしいのですが……どうぞ」
ハロルドは許可を得て、ノートを手に取った。
そこには、サフィアが独自に分類した魔唱の記録がびっしりと記されていた。
『Cradle in the Dawnlight』――深い睡眠導入、治癒促進。
『UNLIMITED』――強壮効果、身体能力の向上、高揚感。
『深海の呼吸』――鎮静、瞑想状態への誘導。
そして昨夜の『ふわふわ、すやすや』についての速記メモ。精神的負荷の軽減、疲労物質の除去と思われる体感、周囲への波及効果の推測。
ハロルドはページを捲る手を止め、真剣な眼差しで文字を追っている。
「……これは、驚きましたな」
しばらくして、ハロルドは感嘆の息を漏らした。
「ただの感想日記ではない。発動時の状況、身体感覚の変化、効果の持続時間……実に客観的で、詳細な観察記録だ。医師である私がカルテに書く内容と遜色ない、いや、当事者である分、より具体的かもしれん」
「そ、そうですか? ただ、忘れないように書き留めているだけですよ」
サフィアは謙遜して見せたが、内心ではガッツポーズをしていた。専門家の目から見ても、このデータ収集の方向性は間違っていないらしい。
「サフィア様。貴方の魔力は、確かに安定しています。そしてこの記録を見る限り、歌――魔唱は、貴方の健康維持にとっても重要な要素になりつつあるようだ」
ハロルドはノートを丁寧に机に戻し、居住まいを正した。
「ですが、ここから先は私の領分ではありません」
「ハロルド先生?」
「私は医師です。身体の不調を治すことはできても、魔力の正しい制御や、魔術としての体系的な理論を教えることはできない。……自己流の実験は、時として危険を伴います」
その言葉には、医師としての誠実な懸念と、サフィアという幼い少年の才能を正しく伸ばしたいという温かい配慮があった。
(……そうだよね。今はたまたま上手くいっているけれど、魔力暴走のリスクがゼロになったわけじゃない。基礎をおろそかにして、応用ばかり積み上げるのは危ういもんね)
サフィアは素直に頷いた。
「はい、おっしゃる通りです。私も、自分だけの知識では限界があると感じていました」
「わかっていただけて良かった。……実は、今日は専門家をお連れしているのです」
ハロルドが合図するように扉の方を振り返ると、再びノックの音が響いた。
「入りたまえ」
ハロルドの声に応じ、二人の人物が入室してきた。
一人は、岩のような逞しい体格をした中年男性。もう一人は、きっちりと制服を着こなした知的な女性だ。
「失礼いたします、サフィア様。アスコット家、魔術師団長、ゼイヒム・ロアクルスです」
男性――ゼイヒムは、武人らしい切れのある動きで礼をした。
厳つい顔立ちだが、その瞳はとても実直そうだ。ただ、どこか独特の愛嬌というか、隙のようなものも感じられた。
(この人が魔術師団長……。もっと神経質な人を想像していたけれど、なんだか体育会系の先生みたいね)
サフィアが内心で分析していると、続いて女性が一歩前へ出た。
「お初にお目にかかります。同じく魔術師団副長を務めております、フレーニア・ロアクルスと申し……」
フレーニアと名乗った女性は、流暢に挨拶を述べかけて、サフィアと目が合った瞬間にぴたりと止まった。
銀色の髪、紫の瞳。病上がりで白い肌の、可憐な容姿をした少年が、大きな椅子にちょこんと座って見上げている。
そんな姿を目にした瞬間、フレーニアの眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。
「……っ!」
言葉にならない呼気が漏れる。彼女の頬が朱に染まり、視線がサフィアの顔と宙を激しく往復した。
「あ、あの、フレーニア先生?」
サフィアが小首を傾げて尋ねると、フレーニアはハッとしたように咳払いをした。
「し、失礼いたしました! ……フレーニア・ロアクルスです。本日より、サフィア様の魔術教育を担当させていただくことになりました」
声がわずかに上ずっている。必死に表情を引き締め、有能な副官としての仮面を被り直そうとしているが、耳の先まで赤くなっているのは隠せていない。
(……なるほど。この人、可愛いものに弱いタイプだわ)
サフィアは冷静に見抜いた。
我ながら、どう見ても美少女にしか見えない自分の外見だが、アスコット家の人間である彼女なら、自分が「男の子」であることは当然知っているはずだ。それでこの反応ということは…
ゼイヒムが、娘の失態をカバーするように口を開いた。
「コホン。……サフィア様。貴方の持つ魔力は特異かつ膨大です。特にその『歌』による魔術行使は、前例が少ない。アスコット家にとっても、ひいてはこの国の行く末にとっても、決して無視できない力となるでしょう」
ゼイヒムの言葉は真面目だった。アスコット家の三男として、サフィアを十分に配慮しているようだ。
だが、その真剣な表情の端々に、「とはいえ、こんなに小さな子供に難しい話をしてもなぁ」という困惑と、「いや、しかし可愛いな」という混在し、口元が緩みかけているのをサフィアは見逃さない。
「ですので、まずは基礎から。安全に魔力を扱えるよう、我々が全力でサポートいたします」
「ありがとうございます、ゼイヒム様。ご指導、よろしくお願いいたします」
サフィアが丁寧に頭を下げると、ゼイヒムはほっとしたように表情を緩めた。
「さて、具体的な方針ですが」
フレーニアが、気を取り直して手元の書類を開いた。まだ直視するのは眩しいのか、視線はサフィアの首元あたりに向けられている。
「まずは魔力の基礎計測から始めたいと思います。サフィア様の魔力が、歌う前と後でどう変化するのか。そして、どのようなイメージを持って魔力を練っているのか……」
フレーニアはそこで言葉を切り、机の上のノートに目を留めた。
「ハロルド先生から伺っております。そのノート、独自の記録を付けられているとか」
「はい。まだ書き始めたばかりですけど」
「素晴らしいですわ! ……あ、いえ、素晴らしい着眼点です」
フレーニアは身を乗り出し、熱のこもった口調で続けた。
「魔術の習得において、感覚を言語化することは非常に重要です。このノートをベースに、現象を魔術理論の言葉に置き換えていきましょう。サフィア様の感覚と、既存の理論のすり合わせを行うのです」
「私のノートを、授業で使うのですか?」
「ええ、それが一番の近道かと。これはもう、立派な研究資料の原石ですよ」
フレーニアの言葉に、サフィアは胸が高鳴るのを感じた。
自分にとっては、趣味と実益を兼ねた実験ノートだったものが、専門家によって「研究資料」として認められたのだ。
(ただの子供の遊びだと思われても仕方ないと思っていたのに。……嬉しい誤算だね)
「わかりました。フレーニア先生、ぜひ見てください」
「せ、先生……!」
サフィアがそう呼ぶと、フレーニアはまたしても言葉を詰まらせ、口元を押さえて小刻みに震え出した。
「くっ……可愛す……いえ、なんでもありません! では、明日から早速始めましょう!」
「おいおい、フレーニア。あまりサフィア様を困らせるなよ」
ゼイヒムが呆れたように苦笑し、ハロルドもまた、温かい目で見守っている。
少し変わった人たちだが、これからの生活が賑やかになりそうで楽しみだ。
* * *
三人が退室した後、部屋には再び静かな時間が戻ってきた。
窓の外の雲は薄れ、夕暮れの淡いオレンジが差し込み始めている。
サフィアは再び机に向かい、魔唱ノートを開いた。
インクを吸わせたペン先を走らせ、新しいページに項目を書き足していく。
『魔術師団との協力体制について』
『担当教官:フレーニア・ロアクルス先生』
『今後の課題:魔力計測と、理論との整合性確認』
文字にすると、いよいよ本格的な研究が始まるのだという実感が湧いてくる。
これまではトライ&エラーによる手探りで、効果実証を繰り返していた。けれどこれからは、きちんのこの世界の専門知識を持った案内人がいてくれる。
(いつか……もっと大きくなって、学園へ行く時が来たら。このノートがきっと、私の最強の武器になるはず)
サフィアはペンの軸を指先で弄びながら、未来の学園生活に思いを馳せた。
学びたいことは山ほどあるし、試したい曲も無限にある。
寝室のベッドで天井を見上げていた日々はもう終わりだ。
サフィアは満足げにノートを閉じると、ふう、と小さく息を吐いた。その表情は、新しい冒険を前にした子供のように、希望に満ちていた。




