第16話「夜の実験、癒やしの魔唱」
窓の外では、しとしとと雨が降り続いていた。
夜の闇に包まれたアスコット侯爵家の屋敷を、無数の雨粒が柔らかく叩いている。時折、風が混じるのか、ガラス窓を震わせる音が強くなったり弱くなったりして、それが余計に、もの寂しさを際立たせていた。
天蓋付きのベッドの中、サフィア・アスコットは身体の向きを何度か変え、ふう、と小さなため息をついた。
「……眠れないね」
誰に聞かせるわけでもない独り言が、薄暗い寝室に溶けていく。
豪奢な刺繍が施された掛け布団を肩口まで引き上げるが、どうにも目が冴えてしまったようだ。
今日は雨ということもあって、リハビリ散歩そのものは、そこそこの運動量で終えた。そのあとには父の書斎で、国防の要衝としての領地の位置関係や、遠い国境線の情勢、そして未来の学び舎となるアーカレート学園都市の場所などを教えられたのだ。
9歳の子供の身体としては、十分に休息を欲しているはずだった。手足に程よく気だるさがあるし、昼間の緊張のせいか首や肩のあたりも少し張っている。
けれど頭の中では、あの精巧な立体地図の記憶がぐるぐると巡っていた。山脈の稜線や街道の交差点、魔物の分布図……それらの情報が興奮の余韻となって、眠気を遠ざけている。
(情報過多、というやつね。身体は休みたいのに、脳が活動停止を拒否しているみたい)
サフィアは枕の位置を直しながら、虚ろな目でぼんやりと考えた。
このまま無理に目を閉じても、かえって余計なことを考えてしまいそうだ。前世での経験上、こういうときは眠ろうと思えば思うほど、眠れなくなる。
サフィアは一度大きく伸びをして、それからふと、あることを思いついた。
(……そうだ。せっかくなら、これを実験の機会にしてしまおう)
サフィアのライフワークになりつつある、『歌』と『魔力』の関係についての検証だ。
これまでの経験から、サフィアが歌うことで体内の魔力が共鳴し、周囲に何らかの干渉を及ぼす現象――これを『魔唱』と名付けている――が起きることは、ほぼ確実だ。
だけど、どんな曲が、どんな条件下で、どんな効果をもたらすのか。その法則性はまだ掴めていない。
今、サフィアは『魔唱ノート』に検証結果を書き溜める計画を進めている。今夜の実験も、ノートに加えるべきデータの一つになるだろう。
(気になるのは、歌の歌詞や曲調が、どれだけ魔唱の効果に影響するか、ですね。今日、目指す効果は、身体の回復と治癒、だけど……)
サフィアはベッドの上で姿勢を正すと、胸の前で手を組んだ。
選んだ曲は、『ふわふわ、すやすや』。前世の記憶にあった子守歌に近い童謡だ。
この歌の特徴は、歌詞のほとんどが擬音や比喩で構成されていることにある。歌詞に具体性のある意味が『ほとんどない』というのが、今回の実験にぴったりだ。
ただひたすらに、柔らかく、心地よいイメージを連ねるだけの歌。そこに『回復』と『治癒』を想い願うことで、私の魔力はどう動くのか。
サフィアは一度深く息を吸い、肺の中の空気をすべて入れ替えるようにゆっくりと吐き出した。
目を閉じ、意識を内側へ向ける。
「……ふぅ」
よし、と心の中で合図を出し、サフィアは唇を薄く開いた。
囁くような、けれど芯のある声で歌い始める。
「ふわふわ もこもこ 羊の毛
ぽかぽか ぬくぬく 陽の匂い」
最初のフレーズを口にした瞬間、サフィアは胸の奥にある魔力の源泉が、反応するのを感じた。
春の日差しを浴びた雪解け水のように、あるいは温めたミルクのように、じんわりと温かいものが胸の中心から滲み出してくる感覚。
強張っていた身体が、その温かさに触れてほぐれていくような安堵感。
(ああ、これは……優しいね)
サフィアは歌声が途切れないよう注意しながら、冷静な目で己の状態を分析した。
大声で歌う必要はない。この部屋いっぱいに届く程度の声量だ。
そのまま、続く歌詞を紡いでいく。
「そよそよ ゆらゆら 春の風
とろとろ うとうと 夢ごこち」
(……うん、いい感じ)
頭の中に、歌詞通りの映像が浮かんでくる。
柔らかな羊毛の手触り。日向ぼっこをしているときのような匂い。若草を揺らす風。
それらは魔力という媒体を通して、より鮮明な質感となってサフィアの感覚に訴えかけてくる。
窓の外の雨音が、少し遠ざかった気がした。
サフィアと雨音の間に、目に見えないふかふかとしたクッションが生まれたかのように、音が丸く、優しくなってきた印象だ。
「きらきら ぴかぴか 朝の露
のびのび すくすく 緑の葉
ぷかぷか ぽっかり 白い雲
ゆったり このまま 夢の中」
Bメロに入ると、魔力の流れはさらに滑らかさを増した。
胸のつかえが取れていく。呼吸をするたびに、きらきらした何かを取り込んでいるような錯覚さえ覚える。
心が軽くなる。ふわりと浮き上がっていくような浮遊感。
(次はサビ……願いを乗せてみる)
サフィアは歌いながら、意識の焦点を少し広げた。
この屋敷で眠るすべての人々へ。
厳格だが愛情深い父、優美な母、心配性な兄たち、そして屋敷を支える使用人や騎士たち。
今日一日を懸命に生きたみんなに、安息と回復を。傷ついた心と身体が癒えますように。
そのような純粋な祈りを込め、サフィアは歌った。
「嬉しい出来事 待っている
楽しい思い出 増えていく
瞳をそっと 閉じたなら
明日はもっと いい日だよ」
部屋の空気が変わった。
ランプの光が、ふっと柔らかく拡散したように見えた。
サフィアの身体から発せられた魔力の波紋が、壁をすり抜け、天井を越え、雨の夜の向こう側へと静かに広がっていくイメージが脳裏をよぎる。
それはまるで、屋敷全体を薄いベールで包み込んでいくように、慎ましやかに広がった。
(……不思議。魔力を消費しているはずなのに、ちっとも疲れない。むしろ、使えば使うほど満たされていくような……)
自身の内側で循環するエネルギーが、心地よい熱となって全身を巡っている。
サフィアはそのまま、二番の歌詞に移行した。
今度は、より具体的な『温かさ』や『美味しさ』を連想させる言葉が並ぶ。
「むくむく ふっくら 焼いたパン
たっぷり とろける 濃いバター
とろとろ つやつや 苺ジャム
じっくり ことこと 豆スープ」
歌っているだけで、お腹の底がじんわりと温かくなる。
リハビリ散歩で溜まった疲労が、ふくらはぎや太もものあたりから、溶け出していくのがわかった。
こわばっていた首筋のこりも、バターのようにとろりと緩んでいく。
気のせいではなく、魔唱による効果なのは間違いない。
「くるくる まあるい 毛糸玉
ぬくぬく あったか 冬の服
ふかふか もふもふ 羽布団
すやすや くうくう 子守唄」
足先を少し動かしてみる。軽い。
昼間の疲れが嘘のように、関節の動きも滑らかになっている。
治癒、あるいは回復。そう呼んで差し支えない効果が、この歌には顕れた。
サフィアの口元に、自然と穏やかな笑みが浮かんだ。
実験は成功だ。それも、期待以上の成果と言っていい。
「静かな時間が 降りてくる
心も体も ほどけてく
やさしい夜に 包まれて
朝がくるまで 眠りましょ」
二度目のサビを終える頃には、強烈な眠気がサフィアを襲っていた。
先ほどまでの『目が冴えて眠れない』状態が嘘のようだ。瞼が重く、身体がベッドに沈み込んでいくような感覚。それは抗いがたい引力を持って、サフィアを夢の世界へと手招きしている。
最後の力を振り絞り、エンディングに向けて丁寧にフレーズを紡ぐ。
「ぐいぐい ずんずん 土の根が
のびのび すくすく 大きな木
しっかり ぴったり 閉じた窓
のんびり ゆっくり 夢の旅」
最後の音を余韻と共に消し去ると、部屋には再び静寂が戻ってきた。
けれど、その静寂は、歌う前の孤独で冷たいものではない。濃厚な安心感に満ちた、温かな沈黙だった。
サフィアはゆっくりと深い呼吸を繰り返す。
(……心が、ふわふわする。あんなに重かった足も、今はもう気にならない)
頭の中で、明日の朝に行うべきタスクを整理する。
魔唱ノートの項目。歌詞や曲調による精神への影響と変化、疲労軽減の度合い、そして『歌詞に関係なく』回復効果を歌に乗せることができたという事実。
書くべきことはたくさんある。だけど、今はもうペンを持つ気力もなかった。
「……続きは、また明日」
とろんとした瞳でランプの明かりを見つめ、サフィアは小さく呟いた。
自分の歌が、誰かを傷つけるための力ではなく、こうして自分自身や、もしかしたら他の誰かを癒やすためにも使えるのだという事実。それが何よりも嬉しく、誇らしかった。
これなら、安心して歌える。
この力があれば、前世と違って過労で倒れる前に、自分で自分をメンテナンスすることもできるはずだ。
サフィアは枕に頬を埋め、布団を鼻先まで引き上げた。
窓の外の雨音は、今や何も感じられない。そのささやかな雨声は、まるで世界が奏でる、もう一つの子守歌のようだった。
明日の朝、屋敷のみんながすっきりとした顔で起きてきたら、きっとこの実験は大成功だったと言えるだろう。
そんなささやかな楽しみを胸に抱きながら、サフィア・アスコットの意識は、柔らかく温かい眠りの底へと誘われていった。




