第15話「雨の日の書斎、盤上の未来図」
窓を叩く雨音が、絶え間なく鳴り続いていた。
重く垂れ込めた灰色の雲が空を覆い、昼過ぎだというのに屋敷の中は薄暗い。サフィア・アスコットは、廊下の窓ガラスに額を押し当てるようにして、ぼんやりと外を眺めていた。
しとしと、ぱらぱら。リズムを変えながら降り続く雨は、止む気配を見せない。
(今日のリハビリ散歩は短めになりそうだね……)
サフィアは内心で小さくため息をついた。
病み上がりの体調を考慮され、日課となりつつあった中庭の散策も、この天気では許可が下りないだろう。図書室から借りてきた本も読み終えてしまい、手持ち無沙汰な時間が流れていた。今日は図書室に行く日ではないし、侍女のリリアを呼んで……
その時だった。廊下の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
「サフィア様。こんなところにいては、お体が冷えてしまいます」
声をかけてきたのは執事長のラグナだった。私は、相変わらずの心配性に少しばかり苦笑し、振り返りもせずに一言「大丈夫です」と返した。ラグナは仰々《ぎょうぎょう》しく襟を正してから、改めて話を切り出す。
「旦那様が書斎にお呼びです。『時間が空いているようなら少し顔を見せなさい』、とのことですが、いかがされますか?」
「お父様が?」
サフィアは窓から離れ、居住まいを正した。
(お父様の書斎に呼ばれるなんて、何か悪いことでもしたかな?)
一瞬、身構えるが、すぐに思い直した。父であるグラン・アスコットは、家族、とりわけ病み上がりの末っ子であるサフィアには驚くほど甘い。叱責のための呼び出しとは考えにくかった。
(もしかして、何か面白い話を聞かせてくれるのかもしれない)
好奇心が胸の中で小さく跳ねる。サフィアは「すぐに行きましょう」と答え、ラグナの先導で廊下を歩き出した。
重厚な扉をノックし、「サフィアです」と声をかけると、中から「入りなさい」という太く低い父の声が返ってきた。
扉を開けると、そこには外の冷たい空気とは対照的な、暖かな空間が広がっていた。
暖炉では薪が、ぱちぱちと音を立てて燃え、部屋全体を柔らかなオレンジ色の光で満たしている。壁一面を埋め尽くす本棚には、革表紙の書物や巻物がぎっしりと並び、古紙とインクの独特な香りが漂っていた。
部屋の中央、大きな執務机の向こうに、父グランが立っている。ラグナが父に一礼をすると、音も立てず静かに退室していった。ここには父と子、二人きりだ。
「雨で退屈しているだろうと思ってな。たまには、外の話でもしてやろう」
父は書類仕事の手を休め、手招きをした。その表情は、戦場の指揮官としての厳しいものではなく、どこか悪戯を企む少年のように楽しげだった。
サフィアは机に近づき、そこで思わず息を呑んだ。
「これは……」
机の上に、大きな立体地図が広げられていたのだ。
ただの地図ではない。起伏のある山脈、蛇行する川、森の深さまでが精巧に作られた、巨大なミニチュア模型だった。
(すごい……! まるで特撮映画のセットか、博物館のジオラマみたい!)
サフィアの目は輝いた。前世の記憶にあるボードゲームの盤面を、極限まで豪華にしたような光景がそこにあった。
小さな木彫りの駒がいくつも置かれている。城の形をしたもの、砦の形をしたもの、そして色とりどりの旗。
「どうだ、よくできているだろう。軍議で使うこともあるが、今日は特別に見せてやる」
父は満足そうに頷き、サフィアを机のすぐそば、自分の隣に立たせた。
「サフィア、自分の家がどこにあるか分かるか?」
「ええと……」
サフィアは背伸びをするようにして盤面を覗き込んだ。以前、図書室の本で見た記憶の中の地図と照らし合わせてみる。
「ここが、王都ですね? そして……ここが、私たちのアスコット領でしょうか」
サフィアが指差したのは王都より西側、険しい山脈を背負うように広がる地域だった。そこには、アスコット家の紋章が入った小さな旗が立っている。
「正解だ」
父は嬉しそうにサフィアの頭を撫でると、その指先をさらに西、山脈の向こう側へと滑らせた。
「そして、この山脈と川が、西の大国ディヴォティメイル帝国との国境だ」
父の指が示す先には、赤い旗が立てられた駒がいくつも並んでいた。それらはアスコット領のすぐ目の前、川を挟んだ対岸に密集しているように見える。
「見ての通りだ。我らの領地は、帝国に対する防波堤なのだよ。ここを抜かれれば、王都までは平地が続く。敵の騎馬隊なら、あっという間に駆け抜けるだろう」
父は帝国側の駒を一つ摘み上げ、アスコット領の模型の上を飛び越えさせ、王都の場所へとトン、と置いた。
その単純な動作に、サフィアはぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
(ここが破られたら、王都まで一直線……。お父様たちは、こんなにも油断できない状況で戦っていたんだ)
盤上の距離感は、文字で読む情報よりも遥かに切迫したもののように感じられた。この精巧な箱庭の上では平和な日常も、一手のミスで崩れ去る砂上の楼閣のように思える。
「お父様。アスコット家は、王国の盾なんですね」
「ああ、そうだ。誇り高い役目だが、重い役目でもある」
父は低い声で答え、駒を元の位置に戻すその手つきは慎重だった。
「それから、ここだ」
次に父が指差したのは、王国と帝国のちょうど中間。両国の国境線が入り組む山間部に位置する、盆地のような場所だった。
そこには、白く塗られた塔のような模型が置かれている。
「ここがアーカレート。両国から同じくらいの距離にある、中立の学び舎だ」
「アーカレート……」
本で読んだ名前だ。世界最高峰の教育機関であり、あらゆる国から生徒を受け入れる学園都市。
ミニチュアで見ると、その特異な立ち位置がよく分かった。巨大な二つの勢力に挟まれた、小さな空白地帯。
(わざと真ん中に置いて、互いに手を出せないようにしているのかも? まるでチェスの駒がひしめく中、そこだけがルールの異なる聖域みたい)
サフィアがまじまじと見つめていると、父は少し声を潜めるようにして続けた。
「表向きは平和の象徴だがな……人が集まるところ、どこであれ駆け引きの場になる」
「駆け引き、ですか?」
「そうだ。そこには剣も槍もない。だが、各国が自国の理念や文化、あるいは魔法技術の優位性を競い合う『静かな戦場』でもある」
父は、学生を模したと思われる小さな人形の駒を指先で転がした。
「戦場で刃を交えるかわりに、言葉や知恵、あるいはそれ以外で競い合う。そういう場でもあるのだ。誰が誰と手を組むか、どの国の貴族が優秀か。そこでの評判が、そのまま国の力関係に影響することさえある」
サフィアは、白い塔の模型を見つめ返した。
平和の象徴。キラキラとした学園生活。物語で読むような華やかな舞台。けれど父の言葉を聞いた今、その白い塔は、複雑な利害が絡み合う巨大なゲーム盤の中心にあるようにも見えた。
「平和のための学び舎なのに、駆け引きの場でもあるなんて……気の抜けない所なんですね。でも、あらかじめ知っておくべきかと思います」
サフィアが素直な感想を漏らすと、父は少し驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「お前は賢いな、サフィア。そうだ、知っておくことは武器になる」
父は、サフィアの視線の高さに合わせて少し腰を屈めた。
「いいか、サフィア。兵も、学び舎へ行く子どもたちも、時に盤上の駒として見られることがある。国の代表、家の代表としてな」
「その話をされるということは……いずれ私は、そこに行くことになるのでしょう。その時、どんな駒になることをお望みなのでしょうか?」
サフィアの問いに父は表情を堅くしたが、それもつかの間だった。武人の顔から、ただの父親の顔に戻る。
「お前には、できれば好きなように生きてほしい。歌うことが好きなら、それでもいい。だが、この家の子として背負うものを、いつかは知ることになるだろう」
父は、サフィアの小さな手を、自身の大きく無骨な手で包み込んだ。
「だからこそ、自分の立ち位置を忘れてはならん。誰かの手で動かされる駒になるな。盤全体を見据え、自分で一手を選べるようになれ。それがお前への、父からの願いだ」
(自分で、一手を選ぶ……)
前世では、会社の歯車として働き詰め、最後には過労で倒れた。あの時は、盤面などを考える余裕さえなかった。ただ流されるまま、動かされるままだった。
けれど、今は違う。
「はい、お父様」
サフィアは父の瞳を真っ直ぐに受け止めた。
「動かされるだけでなく、自分で動けるようになります。この盤上で」
その時、コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします、旦那様」
扉が開き、執事長のラグナが姿を現した。彼は手にした銀のトレイに書類を載せている。
「帝国の客将に関する件で、一点ご確認をいただきたいのですが」
「ああ、分かった」
父は短く答え、姿勢を正した。その瞬間に身体を纏う空気が変わり、『侯爵』としての威厳が戻る。
ラグナは、机の上の広げられた地図と、その前に立つ親子の様子を一目見た。表情は変えなかったが、微かに目元を和らげたように見えた。
「サフィア様、邪魔をして申し訳ございません」
「いいえ、ラグナ。仕事なのでしょう?」
「恐れ入ります」
一礼して下がるラグナを見送り、父は苦笑しながら言った。
「さて、授業はここまでにしておくか」
「ありがとう、お父様。とても……勉強になりました」
「そうか。なら良かった。またいつでも来るといい」
書斎を出て、一人廊下を歩く。
窓の外は相変わらずの雨模様だったが、サフィアの目に映る景色は、来る時とは少し違って見えた。
雨音は、どこか遠くの国境の川音のようにも聞こえる。
(アーカレート学園都市。ただの憧れの場所じゃない、もっと複雑で、大きな意味がある場所)
自分の足元が、ただの床ではなく、巨大な盤面の一部に繋がっているような感覚。それは少し怖くもあったが、同時に胸の奥を熱くさせるものがあった。
(私はこの盤上で、どんな歌を歌うことになるんだろう)
いつかあの白い塔の下に立つ日のことを想像する。
誰かに動かされるポーンではなく、自分の意志で進むキングのように。いや、もっと自由で、盤面そのものを明るく照らすような存在になりたい。
サフィアは一度だけ振り返り、父のいる書斎の扉を見つめた。
「お父様が守ってきたものを、私もちゃんと見て、考えられるようになります」
誰に聞かせるでもなく呟くと、サフィアはしっかりとした足取りで、自分の部屋へと歩き出す。
雨はまだ、静かに降り続いていた。




