第14話「竜血大戦、語られぬ歴史」
静寂に包まれた空間で、サフィアは古びた革表紙の重みを指先に感じながら、静かにページを繰った。
アスコット侯爵家本邸にある図書室は、二階分の高さがある天井と、壁一面を埋め尽くす本棚を持つ。窓から差し込む午後の陽光は柔らかく、空気中を漂う塵が光の粒のようにきらめいていた。
サフィア・アスコットは、窓際の席に座り、自身の体ほどもある分厚い革表紙の本と向き合っていた。
閲覧席の机に広げられたその書物の背には、『ファンガール王国戦史・西方戦役編』という金文字が刻まれている。
サフィアは指先で文字の列をなぞりながら、時折、眉根を寄せて小さく息を吐いた。
「……また、お父様の名前が出てきた」
独り言ように呟き、サフィアは手元のメモにペンを走らせる。
インク瓶とペン先が触れ合う硬質な音がした。
記述されているのは、サフィアが生まれるよりも前に起きた『竜血大戦』の記録だ。
そこには、サフィアの父であるグラン・アスコットや、執事長のラグナ・バルゼルドの名前が頻繁に登場する。だが、その描写はいささか仰々しいものだった。
『西方防衛の要たるアスコット侯爵軍は、獅子の如き勇猛さをもって敵軍を粉砕せり』
『猛将ラグナ・バルゼルドの剣閃は雷光の如く、帝国兵を畏怖させた』
(猛将……雷光……。あの過保護なお父様や、いつも冷静なラグナが?)
サフィアは内心で首を傾げる。
確かに優れた武人であることは良く知っている。けれど、この本に書かれている人物は、まるで物語の中の英雄のように完璧すぎて、人間味が希薄だ。苦悩も迷いもなく、ただ正義の御旗のもとに勝利を積み重ねているように見える。
(ちょっと、盛りすぎてない? これはまるで、最初から勝つことが決まっているファンタジー小説みたい)
サフィアは顔を上げ、窓の外へと視線を向けた。
厚いガラスの向こう、遥か遠くにある訓練場の方角から、微かに掛け声が聞こえてくる。風に乗って届くその音は、平和な日常の一部として溶け込んではいるが、それは紛れもなく戦のために剣を振るう者の声だ。
本の中の『兵たち』と、今、外で汗を流している『騎士たち』。
その二つが、サフィアの中でうまく結びつかない。
(戦記物としては燃える展開だけど、現実がこんなに綺麗な物語なわけがない。筋書き通りに書かれたみたいでウソっぽいね)
歴史とは、勝者が編むものだということを、前世の知識としてサフィアは知っている。
自分が読んでいるのは、王国の体面を保つための『公式設定』に過ぎないのではないか。そんな疑念が、胸の奥で燻った。
そのとき、図書室の重厚な扉がゆっくりと開く気配を感じた。
規則正しい足音が、深紅の絨毯を踏みしめて近づいてくる。サフィアが振り返ると、そこには整えられた燕尾服に身を包んだ老紳士、ラグナの姿があった。
「失礼いたします、サフィア様。お勉強中でしたか」
「ええ、ラグナ。少し歴史を調べていました」
サフィアは努めて穏やかに微笑み、本から顔を上げた。
ラグナはサフィアの机の脇まで歩み寄ると、開かれたページを一瞥した。その視線が、挿絵として描かれた『竜』の紋章と、戦場の地図に向けられた。
ラグナの眉が、ほんの数ミリ動く。
(ちょうど当事者が出ている箇所を読んでいるところで、ご本人の登場なんて、フラグ回収が早いね)
内心でそんな軽口を叩きつつ、サフィアはラグナの反応を待った。
ラグナはわずかに目を細め、どこか困ったような、それでいて懐かしむような苦笑を浮かべた。
「……『西方戦役編』でございますか。王都の学舎でも用いられる、定番の戦史書ですな」
「はい。とても『良く』書かれています。お父様やラグナのご活躍も」
「大筋は間違っておりません。ですが……いささか読み物として整えられすぎておりますな」
ラグナの言葉は控えめだったが、そこには明確な『否定』が含まれていた。
やはり、とサフィアは確信する。
現場にいた人間から見れば、この華やかな記述は、現実とかけ離れたものなのだ。
サフィアは居住まいを正し、まっすぐにラグナを見上げた。
子どもの無邪気な好奇心を装いつつ、けれどその瞳には真剣な光を宿して。
「ラグナ。もし差し支えなければ、ラグナが見た本当の『竜血大戦』のことを、少し教えていただけますか? 本には書かれていないことが、たくさんあるのでしょう?」
ラグナは少しの間、逡巡するような沈黙を見せた。
その視線はサフィアを通り越し、窓の外の空へと向けられる。彼の瞳の奥に、かつての戦場の煙が見えたような気がした。
やがて、ラグナは静かに息を吐き、サフィアの向かいの椅子に腰を下ろした。
「……サフィア様がそこまでお考えならば、私の知る範囲でお話ししましょう。ですが、あまり聞こえの良い話ではありませんよ」
「はい。覚悟しています」
サフィアが頷くと、ラグナは机の上の地図を、節くれだった指でなぞった。
「竜血大戦とは、我がファンガール王国とディヴォティメイル帝国との間に生じた大きな戦であり、同時に『竜の血』を巡る争いでした。……サフィア様も、魔力の授業でお聞き及びでしょう。強大すぎる力は、器である人の身を壊すことがあると」
「はい。器から溢れれば、暴走すると習いました」
「左様でございます。当時、帝国の一部では、古竜の骸から採取した血を兵士に投与し、人為的に魔力を増幅させる技術が実用化されておりました。それが『竜血兵』です」
ラグナの声のトーンが、一段低くなった。
「竜の血を取り込んだ者は、恐ろしい膂力と魔力を得ます。痛みを感じなくなり、恐怖も忘れる。……ですが、代償として理性を失い、最後には敵味方の区別すらつかぬ怪物へと成り果てるのです」
サフィアは息を呑んだ。本には『帝国軍の精鋭』としか書かれていなかった敵の正体が、そんなおぞましいものだったとは。
「ある夜のことです。我々は、その渓谷で竜血兵の部隊と遭遇いたしました。数は向こうが上。しかも、彼らは死を恐れずに突っ込んでくる。……斬っても突いても止まらない相手を前に、我々の部隊は恐怖に飲み込まれかけました」
ラグナの視線は、ここではない遠い過去を見ているようだった。
「戦史書には『アスコット侯爵の英断により、敵を殲滅せしめる』と一行で書かれております。ですが、あの夜、実際に旦那様が下された命令は『退却』でも『突撃』でもありませんでした。『一人でも多く生かして戻せ』――ただ、それだけでした」
サフィアは息を呑んだ。
ラグナの語り口は淡々としていたが、その言葉の端々には、血の鉄錆びた臭いと、焼けるような喪失感が張り付いていた。
(……これが、戦争の空気)
サフィアは自分の肌が粟立つのを感じた。
「現実には、取り返しのつかない犠牲がいくつも積み重なっております。英雄譚として語られるほど、美しいものではありません」
ラグナの言葉が途切れると、重苦しい沈黙が降りた。
サフィアは膝の上で拳を握りしめる。
怖い、と感じた。
前世の平和な記憶を持つサフィアにとって、それは想像を絶する世界だ。
だが同時に、知らなければならないという想いも強くなる。
「……ありがとう、ラグナ。話してくれて」
サフィアの声は少し震えていたかもしれない。それでも、サフィアはラグナの目を見て言葉を続けた。
「本に書かれていることだけを信じている方が、良かったのかもしれない。でも、私は知りたい。お父様やラグナが守ってきたものが、どんな世界の上に成り立っているのかを」
ラグナはふっと表情を緩め、いつもの穏やかな執事の顔に戻った。
そして立ち上がり、サフィアの背後に回って、乱れた本のページを優しく整える。
「これ以上は、もう少しお歳を召されてからの方がよろしいかもしれませんな。……サフィア様」
「はい」
「私としては……あなた様には、できれば本で読むだけの戦争であってほしいと願っております」
その声には、深い慈愛と、切実な祈りが込められていた。
サフィアは胸が締め付けられるような感覚を覚える。
彼らは、自分たちのような次世代が戦火に焼かれないために、あの地獄を潜り抜けてきたのだ。
「ですが」とラグナは続け、サフィアの肩にそっと視線を落とした。
「ですが、残酷な真実から目を背け、表層だけを信じるのは危ういことです。どうか、本に書かれた『栄光』だけでなく、書かれなかった『痛み』も……あわせて覚えていてください」
「はい、ラグナ。必ず」
サフィアは力強く頷いた。
ラグナが一礼し、静かに図書室を出ていく。
扉が閉まる音がして、再び静寂が戻ってきた。
サフィアは、目の前の戦史書を閉じた。
ずしりとした本の重みが、先ほどよりも増しているように感じる。
(私は……)
サフィアは自分の手のひらを見つめた。
この手には、特異な加護と、前世由来の歌の知識がある。それは使い方を誤れば、人を惑わす力にもなり得るものだ。
いつか自分も、歴史の奔流の中に身を投じる日が来るかもしれない。
そのとき、自分はどのように振る舞うのだろう?
答えはまだ出ない。けれど、ただ漫然と平和を享受するだけの子供ではいられないと自覚させられた。
ふと、本棚の隅にある、別の背表紙が目に入る。
帝国語で書かれた書物だ。翻訳の加護を持つサフィアなら、あれも読むことができる。
(次は、あちら側の本を読んでみるのも悪くない)
敵とされた側には、また別の『書かれなかった物語』があるのかもしれない。
それを知ろうとすることは、きっと自分がこの世界で生きていくための、大切な道標になる。
サフィアは椅子から降りると、新たな知識を求めて、小さな足取りで本棚へと歩き出した。




