幕間「厨房のまどろみと、執事長の叱咤」
アスコット侯爵家本邸の厨房は、いつも戦場のような慌ただしさで一日が始まる。
数百人に及ぶ騎士団員、広大な屋敷を維持する多くの使用人たち、そして何より侯爵家の方々の胃袋を満たすため、夜明け前から竃には火が入り、包丁がまな板を叩く音が途切れることなく響き渡るのが常だ。
しかし、今朝の厨房には、どこか奇妙な空気が漂っていた。
忙しいには違いない。パンを焼く香ばしい匂いが充満し、大鍋ではスープがぐつぐつと煮え立っている。使用人たちも手を止めているわけではない。けれど、誰も彼もがどこか動作が緩慢というか、妙にふわふわとした気だるい空気を纏っていた。
厨房とリネン室を行き来する若いメイドである彼女もまた、その「ふわふわ」の一人だった。
彼女は抱えていた洗濯済みのテーブルクロスの山を棚に置くと、ふう、と小さく息を吐いた。あくびが出そうになるのを、慌てて手で押さえる。
眠いわけではない。むしろ逆だ。
これほどまでに深く、泥のように眠ったのはいつ以来だろうか。
毎朝、重いまぶたをこすりながら無理やり身体を起こしていたのが嘘のようだ。今朝の目覚めは驚くほどすっきりとしていて、視界も明瞭だった。だというのに、身体の芯には心地よい重みが残っている。まるで、極上の羽毛布団に包まれたまま、まだ微睡みの中にいるような不思議な感覚だった。
手足が少し重い。けれど、それは疲労の重さではなく、十分に休養を取ったあとの充足感に近い。
彼女は軽く肩を回し、厨房の中を見渡した。
野菜の下ごしらえをしている同僚たちも、スープの味見をしている見習いの料理人も、皆一様に血色がよく、表情が穏やかだ。普段なら飛び交うはずの「遅いぞ!」「皿が足りない!」といった怒声が、今朝はなりを潜めている。
皆、どこか夢見心地なのだ。
その原因には心当たりがあった。おそらく、ここにいる全員が同じことを考えているはずだ。
「……ねえ。昨日の夜、聞こえた?」
洗い場の方から戻ってきた同僚のメイドが、隣で作業を始めながら、声を潜めて話しかけてきた。
彼女は布巾をたたみながら、小さく頷く。
「ええ、やっぱり? サフィア様のお歌でしょう?」
「そう! あの、すっごく静かなやつ。いつもの元気な感じじゃなくて、こう、水の中に沈んでいくみたいな……」
同僚の言葉に、昨夜の記憶が蘇る。
仕事が終わり、使用人区画のベッドに潜り込んだ頃だった。窓の外、主屋の方角から、風に乗って微かな歌声が流れてきたのだ。
それは以前、屋敷中を巻き込んで大騒動になったアップテンポな曲とは対照的だった。
あの時は、聞いているだけで身体の奥底から力が湧いてきて、じっとしていられなくなった。夜中だというのに窓を拭き始めたり、庭を走り回りたくなったりした者が続出したのだ。
だが、昨夜の歌は違った。
歌声は鈴を転がすように澄んでいて、それでいてどこまでも深く、優しかった。
耳を澄ませているうちに、呼吸が自然と深くなり、心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのがわかった。気がつけば、意識がとろとろと溶け出し、抗えない眠気が波のように押し寄せてきたのだ。
「私、昨日はちょっと考え事をしていて寝付けなさそうだったのよ。でも、あのお歌が聞こえてきた途端、記憶がぷっつり途切れて……気づいたら朝だったの」
「私もです。なんだか、深い海の底にゆっくり沈んでいくような、不思議な夢を見た気がします。怖い感じじゃなくて、守られているような」
彼女が同意すると、近くで芋の皮を剥いていた別の使用人も会話に混ざってきた。
「俺なんて、服を脱ぐのも忘れてベッドに倒れ込んじまったよ。あんなにぐっすり寝たのは子供の時以来だ」
「あたしも。朝まで一度も起きなかったなんて、何年ぶりかしら」
口々に語られる体験談は、どれも判で押したように同じだった。
サフィアの歌を聞いた者は皆、強制的に、しかし極めて穏やかに、深い眠りへと誘われたのだ。
「前回の『元気が爆発する歌』といい、今回の『爆睡の歌』といい……サフィア様は本当に、ただの人間じゃないわよね」
同僚が半分呆れたように、けれど嬉しそうに笑う。
「ええ。もう、立派な魔術師ですよ。あんなに可愛らしい天使様なのに、やることが規格外すぎます」
彼女もつられて笑った。
この屋敷の使用人たちは皆、侯爵家の末っ子であるサフィアに対して、ある種の信仰に近い敬愛を抱いている。
銀髪に紫の瞳を持つあのお方は、見た目こそ可憐な女の子――いや、男の子なのだが、その内側には計り知れない才覚と、不思議な力を秘めている。
以前、生死の境をさまよう大病を患ったとはとても思えないほど、最近のサフィアは精力的だ。そしてその歌声が、こうして屋敷の人々に様々な恩恵をもたらしていることは、もはや公然の秘密になりつつあった。
「おうおう、盛り上がってるなぁ!」
そこへ、野太く陽気な声が割り込んできた。
厨房の主、大鍋担当の料理人だ。見事に禿げ上がった頭をピカピカと輝かせ、恰幅のいい腹を揺らしながら近づいてくる。
その顔は、いつにも増してツヤツヤとしていた。
「今日はずいぶんご機嫌ですね」
「当たり前よ! 見てみろこの肌艶! 昨日のサフィア様の歌のおかげで、身体がすっかり軽いんだわ!」
料理人は豪快に腰を回して見せた。ゴキゴキと骨が鳴る音すら軽快だ。
「いつもなら夜中に二、三回は目が覚めるんだがな、昨日は朝までノンストップだ。悪夢も見ねぇ、寝汗もかかねぇ。おまけに朝起きたら、枕元に妖精が立ってたような気さえするぜ!」
「それはさすがに夢でしょう」
彼女が冷静に突っ込むと、厨房内がどっと笑いに包まれた。
「いやぁ、しかしありがたいもんだ。おかげで今日のスープは最高の出来だぞ。愛情たっぷり、滋養強壮! 騎士団の連中も泣いて喜ぶ味になったわ」
料理人はお玉をマイクのように握りしめ、うっとりとした表情を浮かべる。
「これぞ『癒やしの歌姫』……いや『歌王子』か? とにかく、あの歌は最高の子守歌だ。俺ぁもう、毎晩でも歌ってほしいくらいだぜ」
「あ、わかります! 毎晩あんなふうに眠れたら、お肌の調子も絶対よくなりますよね」
「そうそう、翌日の仕事の効率も上がるし、いいことづくめだ!」
厨房の空気は完全に緩みきっていた。
サフィアの歌への称賛と、次なる歌への期待、そして「自分たちは特別な主に仕えているのだ」という誇らしさが入り混じり、一種のお祭り騒ぎのような高揚感が生まれている。
この調子なら、今夜もまた何か歌ってくれるのではないか。
次はどんな奇跡を見せてくれるのだろう。
そんな期待が膨らみ、おしゃべりの声が少し大きくなり始めた、その時だった。
ふと、彼女の背筋に冷たいものが走った。
厨房の入り口付近。そこから、音もなく忍び寄る『冷ややかな視線』を感じ取ったのだ。
彼女は反射的に振り返り――そして、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、アスコット家の執事長、ラグナ・バルゼルドだった。
元騎士団長という経歴を持つ老紳士は、ただ立っているだけで威圧感がある。
その鋭い眼光が、談笑する使用人たちを静かに見据えていたのだった。
彼女の動きが凍り付いたのを皮切りに、料理人、同僚のメイドたちも次々と異変に気づく。
シン、と水を打ったように静まり返る厨房。
お玉を握りしめていた料理人の額から、冷や汗がたらりと流れるのが見えた。
いつからそこにいたのか。
どれくらい聞かれていたのか。
少なくとも「毎晩歌ってほしい」などという、図々しい願望を口にしていたあたりは、確実に聞かれているだろう。
数秒とも数分ともつかない沈黙が流れたあと、ラグナの薄い唇がゆっくりと開いた。
「――楽しそうだな、お前たち」
低く、よく通る声だった。
怒鳴っているわけでもない。むしろ静かな声だ。
「ひっ、も、申し訳ありません!」
料理人が慌てて直立不動の姿勢をとる。彼女たちも反射的に背筋を伸ばし、頭を下げた。
終わった、と彼女は内心で頭を抱えた。
執事長は職務に厳しい。特に、主家の人間を噂話のネタにすることなど、言語道断だ。たとえそれが称賛であったとしても、使用人としての分をわきまえていないと叱責されるに違いない。雷が落ちるのを覚悟して、彼女は身を縮こまらせた。
コツ、コツ、と革靴の音が厨房の床を叩く。
ラグナがゆっくりと歩み寄ってきた。
「朝の仕込みの手が止まっているようだが……随分と余裕があるらしいな」
「い、いえ! 決してそのようなことは!」
「……まあ、いい」
意外なことに、ラグナの声には、さほどの『圧』はなかった。
彼女がおそるおそる顔を上げると、ラグナは呆れたような、それでいてどこか諦めたような複雑な表情で、皆を見据えていた。
「昨夜は妙に静かだと思えば……どうやら、良すぎる惰眠を貪っていたようだな」
すでにラグナには、昨夜の『異常事態』が耳に入っているようだった。
「サフィア様のお力が、お前たちの鋭気を養う助けになったのなら、それは喜ばしいことだ。……だが」
そこで一度言葉を切り、ラグナは鋭い視線で全員を射抜いた。
「この件を、屋敷の外で面白おかしく吹聴することは許さん。サフィア様の歌が持つ影響力は、単なる子守歌で済ませられるものではない。お前たちも、その意味は理解しているな?」
場の空気がピリリと引き締まる。
そう。これはただの『すごい特技』ではない。人の精神や体にこれほどの影響を与える力は、下手に知られればサフィア自身を危険に晒すことになりかねない。
使用人たちは皆、神妙な面持ちで深く頷いた。
「はい! もちろんでございます!」
「決して、他言はいたしません」
「よろしい」
ラグナは短く頷くと、踵を返した。
「無駄話をしている暇があるなら、その有り余る活力を仕事に向けろ。今日の朝食に不備があれば、昨夜の分まで働いてもらうぞ」
そう言い残し、執事長は颯爽と厨房を去っていった。
その背中が見えなくなると同時に、厨房には安堵の息が漏れた。
「あー、怖かった……。寿命が縮むかと思ったぜ」
料理人が、禿げた頭をタオルで拭いながら苦笑いする。
「でも、やっぱり執事長さまも認めてらっしゃるんですね、サフィア様のすごさを」
彼女がそう呟くと、同僚がこくりと頷いた。
「叱られはしたけど、あのお顔、本気で怒ってる感じじゃなかったものね。むしろ『仕方がない連中だ』って顔だったわ」
嵐は去った。
厨房には再び、日常の喧噪が戻ってくる。
だが、その空気は以前とは少しだけ違っていた。
包丁を刻むリズムも、鍋をかき混ぜる手つきも、どこか軽快で力強い。昨夜の不思議な歌声が残していった『何か』が、彼女たちの身体の中で心地よい変化をもたらしていた。
空いていた手でテーブルクロスを掴み、仕事に戻る前、ちらりと窓の外を見上げた。
この屋敷のどこかにいる、小さな主。
銀髪の天使のような男の子が、次はどんな歌を歌い、どんな騒動――いや、幸福を運んできてくれるのだろうか。
まだ見ぬ未来を想像すると、自然と口元が緩んだ。
(ありがとうございます、サフィア様)
心の中でそっと感謝を捧げ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「さあ、仕事仕事!」
今日もまた、賑やかで愛しい一日が始まる。




