第12話「深海に沈む歌声、静かな眠り」
夜の帳が下りたアスコット侯爵家の本邸は、静寂に包まれていた。
侍女のリリアが恭しい一礼と共に、扉が音もなく閉ざされる。それが、今日という一日の終わりを告げる合図のようだった。
あとに残されたのは、あまりにも広すぎる空間と、贅を尽くした調度品、そしてベッドの上にちんまりと収まった9歳の男の子――サフィア・アスコットだけである。
サフィアは上体を起こし、ふかふかすぎて逆に落ち着かない最高級の羽毛枕の位置を直した。背中に当たるシルクの感触は滑らかで、肌に吸い付くようだ。前世において、安物の煎餅布団で寝起きしていた私としては、この極上の寝心地にいまだ恐縮してしまうときがある。
(……静かだね)
耳を澄ませても、聞こえてくるのは己の呼吸音と、衣擦れの音だけ。
アスコット侯爵家は武門の名家であり、昼間は騎士たちの訓練の声や使用人たちの活気ある音が遠く聞こえてくるのだが、夜となれば話は別だ。とりわけ病み上がりで「深窓の令嬢」扱いされているサフィアの私室周辺は、皆が音を立てないよう細心の注意を払っているため、恐ろしいほどに静まり返っている。
窓枠の向こうには、夜空に散らばる星々と、薄い月明かりが見えるだけ。時折、風が吹くたびに厚手のベルベットのカーテンが揺れ、遠くの木々がざわめく音が、まるで別世界の出来事のようにかすかに届く。異世界だけに?
本来なら安眠を誘うはずのこの完璧な静寂が、今のサフィアには逆効果だ。
(今日もよく歩いたし、身体は疲れてるはずなんだけどね……)
日中は図書室へ行くのに加え、中庭へも足を延ばした。魔力停滞症による長い昏睡から目覚め、ようやく自分の足で歩けるようになった喜びもあって、少しリハビリのペースを上げすぎたのかもしれない。ふくらはぎや太腿には、心地よい疲労感が重しとなって蓄積されている。
けれど、その身体の重さとは裏腹に、頭の中は驚くほど冴え渡っていた。
目を閉じても、意識のスクリーンにはノイズひとつ走らない。思考はクリアで、次から次へと新しいアイデアや旋律が浮かんでくる。
(こういう静かな夜は、余計、いろいろ考えて目が冴える。……悪い癖ね)
前世で締め切りに追われ、深夜までデスクに向かってエナジードリンク片手にキーボードを叩いていた頃の習性が、こんな優雅な生活を送る異世界に転生してなおも引き出されるとは。
サフィアは小さく苦笑し、膝の上まで布団を引き上げた。
眠れないのなら、無理に羊を数えるよりも、少し有意義な実験をしてみるのも悪くないかもしれない。
サフィアは自身の胸の奥、膨大な魔力が眠る場所へ意識を向けた。
かつては命を蝕む毒でしかなかったその力は、今やサフィアの意思に呼応してうねる、巨大なエネルギーの源泉となっていた。
以前、訓練場で歌ったアップテンポな曲――『UNLIMITED』の効果は劇的だった。身体強化に近い爆発的なエネルギーをもたらし、周囲の騎士たちを熱狂と興奮の渦に巻き込んだ。あれはあれで、この世界で生き抜くための強力な武器になるんだろうね。
しかし、夜に歌うのはちょっと……
(必要なのは、もっとこう……意識を深く沈めていくような曲だ)
高揚ではなく、鎮静。
発散ではなく、収束。
サフィアは記憶のライブラリを検索する。かつての世界で、仕事に疲弊し、神経がささくれ立っていた夜によく聴いていたプレイリスト。
都会の喧噪を遮断し、狭いワンルームを聖域に変えてくれたアンビエント・ポップやヒーリング・ミュージック。その中に、今の気分に合致する一曲があったことを思い出す。
タイトルは確か『深海の呼吸』。
激しい抑揚や派手なサビがあるわけではない。ただ淡々と、海の底へ沈んでいく過程を描写した、静かで透明な曲だ。
(あの曲なら、魔力を鎮静化させる方向で作用するかもしれない。……試してみようかな)
今日はサフィア一人の実験日だ。誰に聞かせるわけでもない。失敗しても、ただ少し夜更かしになるだけのこと。
サフィアはベッドの上で姿勢を正し、軽く咳払いをして喉の調子を確かめた。一度深く息を吸い込み、肺の中の空気をすべて入れ替えるつもりで、ゆっくりと吐き出す。
目を閉じ、イメージするのは深い青。
コンクリートジャングルではなく、もっと根源的な、生命が生まれた場所のような深い水の色。
口から紡がれるのは、歌というよりも、メロディに乗せた独白に近い、柔らかな声だった。
「水面に揺れる 陽の光
遠く 眩しく 遠ざかる
泡のひとつが 頬をかすめて
重い体を 解いてゆく」
歌い出した瞬間、部屋の空気が変わった。
先ほどまでの『音がない』だけの静寂とは違う、もっと密度の高い、物理的な重みを持った『静けさ』が満ちていく感覚。
(ああ、やっぱり……声が、空気に溶けるのが早い)
サフィアは歌いながら、自身の魔力が音に反応して動き出すのを感じていた。だが、それは『UNLIMITED』のときのような、外へ向かって弾け飛ぶ激しい奔流ではない。
とろりとした粘性のある液体が、ゆっくりと広がっていくような感覚だ。
視界の端で、サイドテーブルに置かれたランプの炎が、まるで凍りついたようにゆっくりと止まり始めた。
窓の外から聞こえていた風の音や、遠くの虫の音が、まるで分厚いガラスの壁に隔てられたように遠のいていく。
「青いカーテン 幾重にも
重ねて 外を 閉ざす世界
指先さえも 重さを忘れ
ただ 青い闇に 委ねてゆく」
声量を上げる必要はなかった。
囁くようなウィスパーボイスなのに、サフィアの膨大な魔力が増幅器となって、隅々まで染み渡っていく。
サフィアは自身の四肢が、心地よい重さに包まれるのを感じた。
重力そのものが優しくなったような、あるいは水の浮力が身体を支えてくれているような、そんな浮遊感。
指先の感覚が曖昧になり、身体の輪郭が溶けていく。
(……不思議。なんだか重たいのに、苦しくない)
むしろ、その重さが安心感をもたらしていた。
何枚もの分厚い布団に包まっているような、あるいは母の胎内にいるような安らぎ。
魔力の波紋が、サフィアを中心にして同心円状に広がっては、壁に吸い込まれて消える。その繰り返しが、呼吸のリズムと完全に同期していた。
体内を巡る魔力もまた、静止する湖面のように、その状態を変えていく。
「深く 深く 潜るほどに
音は 透明に 透き通る
自分の鼓動 砂の音
耳の奥で 響き出す」
目を閉じているはずなのに、まぶたの裏には鮮明な青色が広がっていた。
天井も、壁も、床もなくなり、ただ無限に広がる群青色の世界。
サフィアの意識は、その深淵へとゆっくり沈降していく。
雑念が削ぎ落とされ、思考のノイズが消えていく。今日あった出来事や、明日の予定、ラグナへの言い訳、父や母への想い、そんな日常の些末な事柄が、すべて彼方へと置き去りになっていく。
残るのは、トクトクと脈打つ自身の鼓動と、静かな魔力の脈動だけ。
澄んだ水のように、思考がゆっくりと透明になっていく。
(これが、私の魔力の本来の形……?)
かつての自分の魔力は、もっと制御不能な嵐のように感じた。けれど、本来はこうして静かに凪いでいるものなのかもしれない。
荒れ狂う嵐ではなく、すべてを飲み込んで静まり返る深海。
そのイメージが、今のサフィアにはひどくしっくりときた。
怖いものではない。ただ、そこにあるだけの力。
「たったひとつの 点を見つめて
私だけの 底へ
ただ 満ちてゆく 青の中へ
呼吸を 止めて
見つめる 光」
最後のフレーズを歌い終え、サフィアは声を空気に溶かした。
歌が終わっても、すぐに目を開けることはしなかった。余韻を楽しむように、しばらくの間じっとしていた。
部屋の中は、先ほどまでとは質の異なる静寂に包まれていた。
音がないのではない。音がすべて、柔らかな膜に包まれて吸収されているような、そんな静けさ。
サフィアはゆっくりと長く息を吐き出し、胸の上に置いていた手を下ろした。
(……深い、ね)
率直な感想が、言葉にならずに頭の中を巡る。
テンションが上がるどころか、意識が強制的にシャットダウンされそうだった。まぶたが重く、指一本動かすのも億劫だ。
心地よい倦怠感が全身を支配している。
(これは完全に、就寝専用ね。もし昼に歌ったら、全員参加の昼寝大会が始まりそう)
屈強な騎士たちが訓練場でバタバタと倒れ、集団で幸せそうに熟睡している光景を想像して、サフィアは口元を緩めた。それはそれで平和的な制圧方法かもしれないが、あとでラグナにこってり絞られそうだ。
「サフィア様、皆様を冬眠させるつもりですか」と、あの冷静な声で呆れられる未来が容易に想像できた。
サフィアは重くなった身体を横たえ、動くことを放棄した。
枕に頭が沈み込み、そこが本当に海底の砂地であるかのような錯覚を覚える。シーツの冷んやりとした感触さえ心地よい。
先ほどまでの冴え渡っていた神経が嘘のように、今は強烈な眠気が押し寄せていた。
(この曲は、安眠するにはもってこいね)
魔力の流れを鎮め、精神を安定させるには、この上なく相性がいい。歌い方やタイミングを調整すれば、もっと効率的に休息を取るための手段として確立できるかもしれない。
歌には、人の心を動かすだけでなく、精神的な現象――魔力の性質そのものに干渉する力がある。
攻撃や強化といった派手な使い方だけではない。『休む』『落ち着く』『眠る』。そんな穏やかな日常のためにも、この力は使えそうだ。
サフィアは薄く目を開け、枕元のランプを見やった。
炎は小さく、しかし決して消えることなく、安定した光を放っている。その揺らぎのない光は、今のサフィアの心そのもののようだった。
「……おやすみなさい」
誰にともなく小さく呟き、サフィアはゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏に残るのは、深い青の広がりと、水面の向こうに揺れる一点の光。
その光を見つめたまま、サフィアの意識は、心地よい微睡みの底へと静かに、どこまでも深く沈んでいった。




