第11話「言葉の秘密、そして兄の帰還」
部屋の扉が控えめにノックされ、執事長のラグナが入室してきたとき、サフィアは窓辺の椅子で軽い足首の運動をしていた。
ラグナは一礼すると、いつも通りの落ち着いたバリトンボイスで告げた。
「サフィア様。ハロルド医師より許可が下りました。本日から、条件付きではありますが、図書室へのご利用が認められます」
その言葉を聞いた瞬間、サフィアの心の中で高らかなファンファーレが鳴り響いた。
「本当ですか? ありがとう、ラグナ」
内なる快哉をおくびにも出さず、サフィアは努めて冷静に微笑んでみせる。
ラグナが差し出した腕に手を添え、ゆっくりと立ち上がる。まだ足元に頼りなさはあるものの、目覚めた当初に比べれば格段に力が入るようになっていた。
廊下に出ると、磨き上げられた床が窓からの陽光を反射して輝いている。
サフィアはラグナのエスコートで、その堅い床を一歩一歩踏みしめて歩いた。自分の意思で地面を蹴り、前に進む感覚。それが心地よい。
ラグナはサフィアの歩調に合わせてゆっくりと進みながら、時折その顔色を窺っている。呼吸が乱れていないか、顔に赤みが差していないか。過保護とも言えるその視線に気づきつつも、サフィアは苦笑するだけに留めた。彼や家族にとって、サフィアが生死の境をさまよっていた記憶はまだ鮮烈なのだろう。
(無理をして倒れたら、せっかくの許可が取り消されてしまう。ここは慎重にいかないとね)
はやる気持ちを抑え、サフィアはあくまで優雅に、貴族の一員らしく振る舞った。
図書室の重厚な両開きの扉が開かれると、ふわりと紙とインク、そして古い革の混じり合った独特の香りが鼻腔をくすぐった。
高い天井まで届く本棚が壁一面に並び、そこには数えきれないほどの書物が収められている。窓からは柔らかな春の光が差し込み、宙を舞う埃が金の粒子のようにきらめいていた。
「おお……」
思わず感嘆の声が漏れる。ここはまさに、情報の宝庫だ。
ラグナはサフィアを窓際の閲覧席へと案内すると、静かに注意点を述べた。
「長時間の滞在はお控えください。また、高い場所にある本をお取りになる際は、必ず私か近くの者を呼ぶように。何かございましたら、その鈴を鳴らしていただければ、すぐに参ります」
「わかりました。あまり無理はしません」
一礼してラグナが退室すると、図書室には静寂が満ちた。聞こえるのは、外の小鳥のさえずりと、自分の衣擦れの音だけだ。
(さて、どこから攻めようか)
サフィアは椅子から立ち上がり、本棚の間をゆっくりと歩き始めた。
アスコット侯爵家は武門の名家であるため、やはり戦史や戦術に関する本が多い。だが、棚を見て回るうちに、財政や社交、芸術に関する書物もかなりの数があることに気づいた。これはおそらく、母の実家であるフレンメル家由来のものだろう。
サフィアはまず、ファンガール王国の建国史に関する手頃な厚さの本を抜き出し、パラパラとめくってみた。
文字を読むことに支障はない。誰に教わった記憶もないが、当たり前のように意味が頭に入ってくる。
(まあ、こちらの言葉が話せるんだから、文字が読めるのも不思議じゃない……のかな?)
少し小首を傾げつつ、サフィアはその本を脇に抱え、さらに奥の棚へと進んだ。
そこで、一冊の異質な本が目に留まった。
黒い革表紙に金箔模様で飾られた、分厚い書物だ。背表紙に刻まれている文字は、先ほどの歴史書とは明らかに字形が異なっている。角ばっていて、どこか厳めしい印象を与える文字の羅列。
サフィアはその本を慎重に抜き出し、閲覧席に戻ってページを開いた。
瞬間、奇妙な感覚がサフィアを襲った。
目に映っているのは、確かになじみのない、幾何学的な記号のような文字の羅列だ。
けれど、視線が文字をなぞった端から、その言葉が示す『意味』が脳内へ直接流れ込んでくる。
『――東方山脈における竜騎兵の展開については、風向きと上昇気流を考慮し……』
(えっ?)
サフィアは思わず目を瞬かせた。
もう一度、文字を見る。やはり読めないはずの字形だ。それなのに、脳内では日本語で翻訳された文章を読むのと変わらない速度で、内容が理解できてしまう。
(これ、明らかにファンガール王国の言葉じゃない。たぶん、隣接する帝国の言葉……だよね?)
サフィアは自分の手を見つめ、再び本に視線を落とした。
意識して解読しようとしているわけではない。ただ『見る』だけで、その意味が自然と頭の中に形成されるのだ。
(前の世界の記憶に、こんな言語の知識はない。サフィアとしての記憶は……知りようもない。だとしたら……)
サフィアは椅子の背にもたれかかり、小さく息を吐いた。
この世界には、『神の加護』という概念がある。
言葉に不自由しないこと。文字を習わなくても読めること。そして今、未知の言語さえも理解できてしまうこと。
これらを繋ぎ合わせれば、答えは一つしかない。
(私には、言葉に関する何らかの『加護』がある。それも、かなり強力なやつが)
オタク的な思考回路が、瞬時に現状を分析する。これは、いわゆる『翻訳チート』というやつではないだろうか。
便利な能力だ。この世界の歴史や魔法、文化を学ぶ上で、言語の壁がないというのは計り知れない有利になる。
(でも、あまり不用意に『異国語も全部読めます』なんて言ったら、気味悪がられるかもしれない。……うん、これは当分、私だけの秘密にしておいた方がいいかもね)
サフィアは誰に見られるわけでもないのにコクリと頷き、再び本に視線を落とした。
静かな図書室で、ページをめくる音だけが響く。
読書に没頭しかけていたその時、無視できないほどの異音が、サフィアの集中をかき乱した。
ドスン、ドスン、ドスン。
重たい靴音が、廊下の向こうから近づいてくる。
その足音は図書室の前を通り過ぎて遠ざかったかと思うと、また戻ってくる。行ったり来たり、まるで落ち着きのない熊が檻の中をうろついているようだ。
(誰だろう? ラグナじゃないよね。もっと重くて、それに……焦ってる?)
探し物でもしているのだろうか。それにしても、屋敷の中でこれほど大きな足音を立てて歩く人物など、心当たりがない。
サフィアがいぶかしんで顔を上げた、次の瞬間だった。
バンッ!
図書室の扉が勢いよく開け放たれた。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
肩で息をしながら飛び込んできたのは、長身の青年だった。
見上げるような長身に、使い込まれた革鎧と剣帯。肩には深紅のマントを羽織っている。彫刻のように整った顔立ちに、意志の強そうな眉と瞳。
どこからどう見ても、物語に出てくる『美形騎士』そのものだ。
(うわ、すごい美形。……でも、なんでそんなに必死な顔で息切れしてるの?)
サフィアがきょとんとしてその人物を見つめていると、青年の視線がサフィアを捉えた。
彼は一瞬、見知らぬ令嬢を見たかのように目を丸くし――次の瞬間、サフィアの銀髪と紫の瞳を認め、顔をくしゃりと歪めた。
「サフィア……っ!」
絞り出すような声だった。
その声色には、安堵と、抑えきれない歓喜が滲んでいた。
(サフィア? 私の名を呼んだ……)
この屋敷で、自分をサフィアと呼び、これほど感情を露わにする、騎士の姿をした青年。
家族から聞いていた情報が、サフィアの脳内で合致する。
遠征中だったという、長兄。
サフィアは椅子から降りようとし、ふらつかないように慎重に立ち上がった。
青年はツカツカと大股で歩み寄ってきたが、サフィアの目の前で急ブレーキをかけたように立ち止まった。大きな手を伸ばしかけ、しかし触れていいものか迷うようにそれを止める。
その不器用な挙動に、サフィアは内心で少し和みつつ、丁寧に問いかけた。
「あの……あなたが、ラアル兄様でいらっしゃいますか?」
青年――ラアルは、一瞬言葉に詰まったように喉を動かし、深く頷いた。
「ああ……ああ、そうだ。俺だ、ラアルだ」
その必死な様子に、サフィアは確信した。この人は、本当に弟のことを心配してくれていたのだ。
サフィアにとって、以前の記憶はない。目の前の兄は、実質的には初対面の他人だ。
そうであってもサフィアは姿勢を正し、できる限りの真心を込めて頭を下げた。
「……ラアル兄様。お帰りなさい。ご心配をおかけしました。でも、もうこんなふうに歩けますし、本も読めるくらいには元気です」
顔を上げると、ラアル兄は目元を赤くし、何度も頷いていた。
「よく、ここまで歩けるようになったな……部屋に行ったらいなくてな、まさか倒れたんじゃないかと、屋敷中を探していたんだ。ここにいると聞いて……」
「すみません、いれ違いになったようです」
「いや、いいんだ。ずっと、またお前と話せる日を待っていた」
ラアル兄の安堵の溜息は深く、それまでの緊張がいかに強かったかを物語っていた。
ふと、ラアル兄の目が、サフィアが手に持ったままの本に止まった。
「それは……帝国語の戦略書だぞ」
ラアル兄は驚いたように眉を上げた。
「簡単には読めないはずだが……お前、本当にそれが読めているのか?」
サフィアの心臓が小さく跳ねるのを感じた。
やはりこれは普通のことではない……よね? やっぱり。
(正直に言うべきか? いや、全部読めると言うと角が立つかも)
サフィアは少し困ったように微笑み、言葉を選んで答えた。
「不思議なんです。知らないはずの文字なのに、意味が勝手に頭に入ってきてしまって……自分でも、少し変だと思うくらいで」
「意味が勝手に……?」
ラアル兄は目をぱちくりとさせたが、すぐに破顔した。
「昔からお前は覚えが早かったが……ここまでとはな。まあ、勉強熱心なのは良いことだ。頭の回転が速いのは、アスコットの人間として頼もしい」
どうやら『神の加護』という飛躍した発想には至らず、『弟は天才だ』という好意的な解釈で落ち着いたようだ。サフィアは内心でほっと胸を撫で下ろした。
「でも、この世界のことを知るには、とても助かっています」
「そうか、……そうだな」
ラアル兄は屈み込み、サフィアと目線の高さを合わせた。近くで見ると、その瞳の奥には、弟への慈愛があふれている。
「遠征先でも、何度お前の容体を尋ねたかわからん。『目を覚ました』と聞いた時も、戦局が膠着していてすぐに帰れず……歯痒い思いをした」
武骨な手が、サフィアの銀髪をそっと撫でる。
その手つきは、壊れ物に触れるように優しかった。
「……俺のことを覚えていなくても、いい。無理に思い出さなくていいんだ。今のお前がここにいて、こうして笑ってくれているなら、それで十分だ」
サフィアが以前の記憶を失っていることは、既に手紙かラグナの報告で知っていたのだろう。
それにしても、誰も彼も「笑ってくれるだけ十分だ」と言ってくるのには、思わず苦笑いした。アスコット侯爵家の家訓にでも書かれているんだろうか?
それはそれとして、実際に忘れられている現実を突きつけられるのは辛いはずだ。けれどラアル兄は、それを微塵も責めず、ただ今のサフィアを受け入れようとしてくれていた。
じわり、とサフィアの胸が温かくなる。
(ああ、私は愛されているんだな)
前世の記憶がどうであれ、今この世界で、自分を大切に思ってくれる家族がいる。その現実は、何よりも私の心に安らぎをくれた。
「今はまだ無理はさせられんが、体がもっと良くなったら、一緒に庭を歩こう。それに……訓練場も、遠くからなら見せてやれる」
まるで子供をあやすような約束。
サフィアは嬉しそうに目を細め、力強く頷いた。
「はい。もう少し体力をつけて、ラアル兄様と一緒に歩けるように頑張ります」
「ああ、楽しみにしている」
「それまでは、ここでたくさん本を読んでおきますね。この世界のことを、もっと知りたいんです」
その時、ラグナの足音が近づいてくるのが聞こえた。過保護なラグナのことだ、そろそろ止めに来たのだろう。
「話が長くなってしまったかな?」
ラアル兄は名残惜しそうに立ち上がり、しかし満足げな笑みを浮かべてサフィアの頭をもう一度撫でた。
「また後で来る。あまり根を詰めすぎるなよ」
兄が図書室を出ていくと、再び静寂が戻ってきた。
けれど、先ほどまでの静けさとは、少し違って見える。
サフィアは椅子に座り直し、手元の本を開いた。
整然と並ぶ文字たちは、見るだけでサフィアにその意味を語りかけてくる。
言葉がわかる。家族がいる。
何もないところから始まった第二の生だが、手札は意外と悪くないのかもしれない。
(さて、次はどんな本を読もうか)
いつか学園に通い、もっとたくさんの人たちと話し、歌い、この世界を見て回る日のために。
サフィアは期待に胸を膨らませながら、新たなページをめくった。




