第9話「検診再び…そして新たな一歩」
「……息苦しさはありませんね?」
「はい、ありません」
「胸の奥が熱かったり、逆に冷たく感じたりすることは?」
「今のところ、そういった感覚もありません」
ベッドの上でクッションに背中を預けたまま、私は医師ハロルドの問いかけに、できるだけはっきりと答えた。
私の胸元には、ハロルドが持つ聴診器のような魔道具が当てられている。金属のひんやりとした感触が肌に伝わり、背筋が少しだけ伸びる思いがした。
今日の診察は、今までのような「峠を越えられるか」という切迫したものではない。
私の身体が、死の淵を彷徨った『魔力停滞症』という状態から脱し、今後どれくらいの活動が許されるかを見極めるための、いわば社会復帰に向けた重要な判定会だ。
内心で『判定会』などと仕事めいた単語を選んでしまうのは、中身が可愛げのない大人だから仕方がない。けれど、表面上はあくまで9歳の、病み上がりの侯爵令嬢として振る舞うとしよう。(三男だけど)
私は視線だけを動かし、ベッドの両脇に控える両親の様子を盗み見た。
右側には、父――アスコット侯爵家当主であるグラン。豪胆な武人である父は、腕を組んで椅子に座り、じっとハロルドの手元を見つめている。その表情は真剣で、どこか強張っていた。
左側には、母のミレア。母は両手を膝の上で固く握りしめ、私の顔とハロルド医師の表情を交互に見比べている。私が目覚めてからも、母の心配性はなかなか治まらない。
そして少し離れた場所には、執事長のラグナが控えていた。彼はいつものように感情を読ませない涼しい顔をしているが、その耳が会話を一言も漏らさず拾おうとしているのは分かる。
家族をこれ以上心配させないためにも、今日の診察では良い結果を出さなくてはならない。
私は意識して呼吸を整え、ハロルドの指示に従った。
「では、魔力の測定を行います」
ハロルドが鞄から取り出したのは、厚みのある透明な水晶板だった。
以前、目覚めた私に対して使ったものと同じだ。あれが胸の上に置かれると、ずしりとした硬質な重みを感じる。
「少しの間、じっとしていてください」
「はい」
ハロルドが私の額に手をかざす。
その瞬間、私の視界が鮮やかな紫色に染まった。
カッ、と音がしそうなほどの強烈な輝きだった。
水晶板が私の体内にある魔力に反応し、爆発的な光を放っているのだ。薄暗い部屋が一瞬にして真昼の屋外のように照らし出され、部屋にある調度品の影も見えないほどだ。
父と母が、あまりの眩しさに思わず目を細め、身を引いた気がした。
(相変わらず、とんでもない光量ね……)
普通、この水晶板はぼんやりと淡く光る程度のものだと聞いている。これだけ激しく発光していれば、『まだ異常があるのではないか』と疑われても仕方がない。
けれど、水晶板を覗き込むハロルドの表情には、焦りも恐怖もなかった。額にうっすらと汗を滲ませながらも、その目は冷静に光を観察している。
「……ふむ」
長い数秒間の後、ハロルドが手を離すと、紫の光は名残惜しげに収束していった。
部屋の明るさが元に戻り、私は何度か瞬きをして、残像を追い払う。
「どうだ、ハロルド。数値は」
父が待ちきれない様子で身を乗り出した。
ハロルドは水晶板を丁寧に布で拭きながら、ゆっくりと頷いた。
「極めて安定しています」
その言葉に、部屋の空気がふっと緩んだのが分かった。母が「ああ、よかった」と深く息を吐き、父の肩から力が抜ける。
「光の強さが示す通り、サフィア様の魔力総量は依然として常識外れの数値です。普通の人間なら、これだけの魔力を抱えれば身体が耐えきれず、内側から崩壊してもおかしくありません」
ハロルドは淡々と、しかし容赦のない事実を告げる。
その言葉に再び緊張が走りそうになったが、彼はすぐに穏やかな声色で続けた。
「ですが、魔力の『流れ』は驚くほど滑らかです。以前のような淀みや、暴走の予兆となる不規則な波形は一切見られません。魔力量は凄まじいものの、まったく破綻することなく、静かに、そして力強く循環している状態です」
「では、もう危険はないと?」
「少なくとも、今すぐに命に関わるような事態は起きないでしょう。そして、魔力停滞症そのものは、間違いなく『完治した』と判断して構いません」
ハロルドの完治宣言に、母が目元を押さえた。父も、太い指で目頭を乱暴に擦っている。
私も胸の奥で、ほっと安堵の息を吐いた。
どうやら『高出力の魔力炉心』を積んだまま生きることには変わりないようだけれど、少なくともその炉心は正常に稼働しているらしい。
「ただし」
ハロルドが眼鏡の位置を直し、声音を引き締める。
その「ただし」こそが、私が一番聞きたかった部分だ。
「魔力の問題は解決しましたが、長い昏睡状態による体力の低下は否めません。筋力、心肺機能、持久力。すべてにおいて、同年代の子供より劣っているのが現状です。急に元通りの生活に戻せば、身体がついていきません」
「……やはり、まだベッドからは出られませんか?」
私が恐る恐る尋ねると、ハロルドは少しだけ口元を緩め、首を横に振った。
「いえ、むしろ逆です。これからは、少しずつ動かしていく時期に入ります」
その言葉は、私にとって何よりの朗報だった。
「これまではベッドの上での座位や、軽い足の曲げ伸ばし、歩行練習なども限定的でしたが、今日からは行動範囲を広げましょう。部屋の中での歩行に加え、一日に何回かは、自由に部屋の外へ――廊下まで歩くことを許可します」
「廊下ですか!」
思わず声が弾んでしまった。
たかが廊下、されど廊下だ。この四角い部屋に閉じ込められていた私にとって、扉の外に出られるということは、世界が広がるのと同義だった。
「もちろん、条件付きですよ」
浮き足立つ私を制するように、ハロルドが指を一本立てる。
「必ず誰かが付き添うこと。そして、決して無理はしないこと。最初は短い距離から始めて、徐々に慣らしていく必要があります。また、サフィア様の場合は『呼吸』も重要です」
「呼吸、ですか?」
「はい。深い呼吸と共に、体内の魔力が全身を巡り、余計な熱が外へ逃げていくイメージを持ってください。これは魔力の循環を助け、再発を防ぐ良い訓練になります」
なるほど、と私は頷いた。イメージトレーニングは前世でも得意分野だ。
「それから、歌についてですが」
「あ……はい」
歌うことは、私にとっての楽しみであり、無意識のうちにやっていた習慣でもある。これを禁止されるとちょっと辛いんだけど。
「様子を見ている限り、サフィア様が口ずさむ歌は、魔力の循環を整える効果があるようです。ですから、歌うのは禁止ではありません。むしろ、リハビリの一環として推奨してもいいくらいです」
「本当ですか? よかったです……」
「ただし、これも『適度』であることが条件です。声を張り上げて長く歌い続ければ、当然体力を消耗しますし、魔力の流れが活発になりすぎて、身体への負担になる可能性もあります。当面は、小声で歌うか、静かな曲を歌う程度に留めてください」
許可は出た。けれど、制限付きだ。
ここで重要なのは、その『制限』のラインを明確にしておくことだろう。曖昧なままにしておくと、過保護な両親が極端な解釈をして、「やはり今日はやめておきなさい」となりかねない。
私は一度咳払いをして、できるだけ真面目な顔を作った。
「ハロルド先生。いくつか、具体的にお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ほう? 何でしょう」
「廊下を歩くときは、一度にどれくらいの距離や時間を目安にすればいいですか? それから、もし歩いている最中に苦しくなったら、どういう状態を『危険なサイン』だと判断すればいいのでしょうか」
私の質問に、ハロルドが少し驚いたように目を見開いた。
9歳の子どもがするには、少し事務的すぎただろうか。でも、自分の身を守るためのリスク管理は必須だ。
私は構わず続けた。
「あと、歌ったあとの疲れについてもです。ただの心地よい疲れと、身体に悪い疲れの違いがあれば教えていただきたいです」
ハロルドは感心したように頷き、私の質問一つひとつに丁寧に答えてくれた。
「素晴らしい心がけですね、サフィア様。そうですね……まず歩行ですが、最初は扉から出て、廊下の窓一つ分くらいを往復するだけで十分です。時間にして数分でしょう」
ハロルドは指を折りながら説明する。
「危険なサインとしては、脈が急激に速くなり、休んでもなかなか戻らない場合。それから、冷や汗が出たり、目の前がチカチカしたりする場合です。そうなったら、その日のリハビリは即座に中止してください。歌の場合も同様です。歌い終わった後に頭がぐらぐらしたり、耳鳴りがしたりするようなら、それは『やりすぎ』の合図です」
「頭がぐらぐら、耳鳴り、冷や汗ですね。わかりました。肝に銘じます」
私が真剣に頷くと、横で聞いていた父が、嬉しそうに膝を叩いた。
「うむ! 我が子ながら、なんと賢いのだ。自分の身体の状態を冷静に把握しようとする姿勢、まさに将器を感じるぞ!」
「……あなた。サフィアはまだ9歳で、しかも病み上がりですよ。将器だなんて」
母が呆れたようにたしなめるが、父の勢いは止まらない。
「いやいや、身体さえ戻れば、剣の才能もあるやもしれん。サフィア、廊下を歩けるようになったら、次は庭だ。私が抱えて連れて行ってやるから、訓練場の空気でも吸えばもっと元気になるぞ」
「お父様、それはもう少し先のお楽しみにしておきますね」
「う、うむ……そうか」
やんわりと断ると、父は少し残念そうに肩を落とした。
本当にこの人は、息子に剣を持たせたくて仕方がないらしい。
そんな父を横目に、執事長のラグナが一歩前に進み出た。手にはいつの間にか手帳とペンが握られている。
「医師の指示に基づき、当面のスケジュールを調整いたします」
ラグナの淡々とした声が、場の空気を引き締めた。
「廊下への歩行訓練は、朝食後と夕食前の二回。それぞれ私が付き添います。旦那様と奥様は、サフィア様が頑張りすぎてしまわないよう、ゴール地点でお待ちいただくのがよろしいかと」
「む、私は付き添わんのか?」
「旦那様の歩幅では、サフィア様が焦ってしまいますので」
「……ぐうの音も出ん」
ラグナの的確な指摘に、父が黙り込む。母はくすりと笑い、「よろしく頼みますね、ラグナ」と一言添えた。
「歌に関しては、午後のティータイムに少しだけ、と時間を決めましょう。それなら喉も潤せますし、無理なく続けられるはずです」
「はい、ラグナ。それでお願いします」
完璧な采配だ。
これで『どこまでやっていいのか』というルールが明確になった。
ハロルドも「それなら安心ですね」と満足げに頷いている。
診察が終わり、ハロルドは診察器具を片付け始めた。
父は私の頭を大きな手で不器用に撫で、母は私の手をぎゅっと握って、「無理はしないでね」と念を押す。
ラグナは一礼し、使用人たちへ新しい指示を出すために部屋を出て行った。
やがて皆が部屋を去り、部屋には私一人が残された。
カタン、と扉の閉まる音がして、再び静寂が戻ってくる。
けれど、その静けさは、診察前のどこか閉塞感を伴うものとは違っていた。
「……よし」
私は布団の中で、小さく拳を握った。
あの重たい扉の向こうへ、自分の足で行く許可が出たのだ。
それはほんの数メートル、廊下の窓までの距離かもしれないけれど、私にとっては大きな前進だ。
窓の外からは、相変わらず訓練場の活気ある音が聞こえてくる。
私は布団を少しだけ蹴って、足の指を動かしてみた。
感覚は悪くない。
膨大な魔力という問題は未だ残ったままだし、歌えば疲れる身体だけど。
制御する方法はある。
ルールを守って、焦らず、少しずつ。
いつかは、あの廊下の窓から差し込む光の下まで、自分一人で歩いてみたい。
そんな、小さいけれど確かな目標を胸に、私は窓から差し込む春の光を眩しく見つめた。




