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第一話 見えない足音

第一話 見えない足音


それは、十月の雨の夜から始まった。


会社員の田中誠一は、いつものように夜間清掃の仕事から帰ってきた。見えない存在として、ビルの中を動き回る。それが彼の日常だった。


だが、その日は違った。


ビルの地下二階。誰も来ない場所。そこで、誠一は何かを感じた。


視線。注視される感覚。


見えない存在である自分を、見ている何かがいる。


誠一は、その場を離れた。だが、気配は消えなかった。


「誰だ?」


誠一が呟いた時、それは現れた。


足音。見えない足音。


自分と同じように、見えない存在が、ビルの中にいるのだ。


だが、その足音は、誠一のものとは違う。もっと重い。もっと不規則だ。


足を引きずるような音。骨が擦れるような音。内臓が揺れるような、湿った音。


誠一の全身が、鳥肌立った。


同じ見えない存在でも、これは違う。これは、人間ではない。


誠一は、急いで地上に上がった。千佳が清掃をしている時間帯。彼女の傍に行けば、安全だと思った。


だが、その足音は、誠一を追ってきた。


見えない足音。見えない呼吸音。見えない何かが、誠一を追跡している。


誠一は、走った。見えない身体で、階段を駆け上がった。


その時、背後から、見えない何かが掴みかかった。


見えない手が、誠一の首を締めた。


「ぐっ...」


誠一は、その手を振り払おうとした。だが、その力は、誠一よりも強かった。


まるで、人間のものではない力。もっと古い。もっと根源的な力。


握力だけではなく、何か別のものが、誠一を締め付けている。まるで、彼の存在そのものを圧潰しようとするような力。


「助け...」


誠一は、千佳を呼ぼうとした。だが、声が出ない。見えない何かが、彼の声帯を締め付けている。


その瞬間、千佳が現れた。


「誠一さん?」


千佳は、何か異常を感じた。いつもと違う気配。恐怖に満ちた気配。空気そのものが、重くなっている。


「ここにいるんですか?」


誠一は、必死に千佳から遠ざかろうとした。見えない何かから逃げるために。彼女を守るために。


だが、見えない何かは、千佳に近づいていた。


空気が、ぶつかるような音。見えない足音が、千佳に向かって動く音。


「人間の少女...」


見えない何かが、語った。その声は、腐ったような音。複数の声が重なった、不気味な音。それは、一つの喉から出ているとは思えない。もっと深い場所から。もっと古い場所から。


「温かい...生きた...血の匂い...」


千佳は、その声を聞いて、悲鳴を上げた。


「誰ですか!」


彼女の声は、パニックに満ちていた。何が起きているのか、理解できない。見えない何かがいる。それは、誠一ではない。もっと危険なもの。


見えない何かは、千佳に手を伸ばした。


その時、誠一は、自分の身体をぶつけることで、見えない何かを押さえつけた。


見えない手と見えない手が、空中で激突した。


千佳は、その光景を見ることはできなかった。だが、感じることはできた。何か、見えない存在が二つ、自分の周りで戦っている。


空気が、ぶつかる音。見えない衝撃波が、彼女の身体に伝わってくる。


床が揺れた。見えない力が、床を破壊している。ヒビが入り始めた。


「逃げろ!」


誠一が、叫んだ。唯一、聞こえた言葉。


千佳は、走った。階段を駆け降りた。見えない何かから逃げるために。


だが、その階段の途中で、彼女は転んだ。


見えない何かの足が、彼女の足を引っ掛けたのだ。


それは、二つに分裂していたのだ。一つは誠一と戦い、もう一つは千佳を追う。


千佳は、階段から落ちた。


数段、転がり落ちた。彼女の体が、階段に何度も激突する音。骨が折れるような音。


「きゃあ!」


千佳は、叫びながら落ちた。


その時、誠一は、彼女に掴みかかっていた見えない何かから自分を引き離し、千佳を支えた。


見えない手が、彼女の腕を掴んだ。彼女の堕落を防いだ。


「大丈夫だ...」


誠一は、千佳を壁に背中をつけるように支えた。


「俺がいる...」


千佳は、全身が痛かった。階段に激突した時の痛み。だが、それよりも、恐怖が勝っていた。


見えない何かが、彼女を追ってきた。階段を一段また一段と上ってくる。


その足音は、もはや人間のものではない。複数の足が、同時に動いているような音。


誠一は、千佳を後ろに下がらせた。


そして、見えない何かに立ち向かった。


見えない手と見えない手が、激突した。


今度の戦闘は、前のものとは違った。


見えない何かが、複数に分裂している。同時に誠一を攻撃し、同時に千佳を狙う。


誠一は、何度も何度も、見えない何かの攻撃を防いだ。


だが、その力は、次第に誠一を圧倒していた。


見えない何かは、一つではなく、複数の意志を持った存在なのだ。もしくは、何か別のもの。


「ああ...ああ...」


見えない何かが、声を発した。複数の声。複数の呼吸。複数の存在。


それらが、一つの身体を形作っている。


「生きた...温かい...」


見えない何かは、千佳に近づいた。


誠一は、その間に割って入った。


「来るな!」


誠一の力が、限界に達していた。疲労が、彼を圧倒していた。


この時間が、どのくらい続いたのか、誠一にはわからなかった。


だが、その間ずっと、千佳の悲鳴が聞こえていた。


「誠一さん!誠一さん!」


彼女の叫び声。彼女の恐怖。彼女の痛み。


すべてが、誠一を強くした。


見えない何かは、一瞬、後退した。


「何だ...この力は...」


見えない何かが、ゆっくりと後退していった。


だが、完全には消えていない。


「お前の中に...見える世界への想いがあるのか...透明人間が...」


見えない何かの声は、嘲笑していた。


「そんなもの...汚い...」


見えない何かは、やがて姿を消した。


だが、その時に聞こえた言葉は、誠一の心に深く刻まれた。


「これは...終わりではない。俺はここにいる。いつも。ずっと。見えない世界に。お前をずっと追う。お前の愛を。お前の存在を。すべてを奪ってやる」


誠一は、千佳に駆け寄った。


「大丈夫か!」


千佳は、全身が震えていた。彼女は、見えない何かの気配を、今もまだ感じていた。


「誠一さん...何ですか...あれは...」


千佳の声は、弱々しかった。恐怖に満ちていた。


「俺は...俺は何だ...」


誠一は、彼女を抱きしめた。


「大丈夫だ。俺がいる。もう安全だ」


だが、彼自身も、それが嘘であることを知っていた。


安全ではない。あれは、消えたわけではない。


あれは、ずっとここにいるのだ。


見えない世界に。


見えない暗闇に。


そして、それは、また戻ってくるだろう。


誠一と千佳を引き裂くために。


その夜、千佳は眠ることができなかった。


彼女は、誠一に抱きしめられながら、見えない世界の恐怖を感じていた。


見えない足音。見えない呼吸。見えない何かが、彼女を狙っている。


そして、何よりも恐ろしいことは。


その見えない何かが、誠一よりも強いかもしれないということ。


誠一が、彼女を守ることができなくなるかもしれないということ。


その恐怖が、千佳を蝕んでいた。


朝が来た。


誠一は、千佳の傍で、見守っていた。


彼女の顔は、恐怖に歪んでいた。悪夢を見ているのだろう。


誠一は、何もできなかった。見えない手で、見える少女の心を守ることだけができた。


だが、それも、次第に限界に達しようとしていた。


見えない何かは、誠一を追い詰めようとしていた。


千佳を傷つけることで。


千佳を脅すことで。


誠一の愛を、壊すことで。


見えない世界の脅威は、一夜だけでは終わらなかったのだ。


それは、これからも続く。


毎晩。毎晩。毎晩。


誠一と千佳の日常は、今、変わっていた。


恐怖という、新しい色に塗り変わっていた。


終わり

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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