第零話 転移
ここにいるよ
第零話 転移
田中誠一が目覚めた時、彼は既に透明になっていた。
彼は、大手製薬会社の研究開発部門で働く会社員だった。給料が良い代わりに、月に一度は新薬の人体実験に参加する契約になっていた。いつもは湿疹程度だ。軽い頭痛。そんなものだ。
だが、十月のその日は、違った。
「被験者001、体調に異常はありませんか。」
スピーカーから、白衣の研究員・田中博士の声が聞こえた。防音ガラスの向こうで、彼は隆々と映るモニターを睨んでいる。
「異常があるに決まってるだろう。俺が透明になってる。」
誠一は冷たく返した。だが、その言葉も虚しく響いた。
「ご安心ください。これは一時的な副作用です。おそらく24時間以内に治ります。その間に、データを取らせていただきたいのですが。」
田中博士の言葉は、誠一の不安を拭い去らなかった。だが、契約は契約だ。彼は黙って、ベッドの上に横たわった。
実験室の天井を見つめながら、誠一は考えた。透明人間。子どもの頃に読んだ小説に出てくる存在。それが自分に起こっている。
まさか、本当に透明になるとは。
48時間が経っても、誠一は透明のままだった。
72時間。96時間。一週間。
田中博士は「個人差がある」と言い張り、誠一を実験室に留めることを主張した。会社の上層部も、この薬の効果検証のためには必要だと判断した。誠一は、緊急停止ボタンを何度も押しかけたが、結局は諦めた。
何のために生きているのか、わからなくなっていた。
十日目の夜。誠一は隙をついて、実験室を脱出した。見えない身体は、警備員の目をすり抜けた。セキュリティゲートも、彼には無力だった。
彼は逃げた。社会から。会社から。人間らしい人生から。
月給は振り込まれなくなった。アパートの家賃も払えなくなった。彼は、都市の隙間を生きるようになった。公園のベンチ。公共図書館の閲覧室。人目につかない廃ビル。
見えない存在は、見えない世界で生きるしかない。
三ヶ月が経った時、誠一は仕事を探すことにした。
見えない身体だからこそ、できる仕事がある。人目につかない作業。誰も手がけたくない仕事。
夜間清掃員。
それが、彼が見つけた唯一の職業だった。
会社の建物の中を、夜中に清掃する。誰にも見られずに。
その仕事を通じて、彼は再び、社会に接触することができた。
見えない手で、見える世界を動かす。
それは、誠一にとって、唯一の救いだった。
そして、彼は千佳に出会った。
同じく夜間清掃員として働く、一人の少女。
彼女も、社会の隙間で生きている人間だった。
誠一が、彼女を支えるようになったのは、自然なことだった。
見えない存在が、見える少女を守る。
それは、彼にとって、初めての目的を与えてくれた。
生きる意味を。
だが、その幸せも、長くは続かなかった。
見えない世界に、もっと古い、もっと危険なものが存在することに、彼は気づかなかったのだ。
十月の雨の夜。
見えない足音が、ビルの地下から上がってくる。
それは、誠一ではない。
もっと古い。もっと汚い。
もっと、人間ではない何か。
見えない世界の奥から、這い出てきた何か。
それは、誠一と千佳の静かな幸せを、完全に破壊するために。
誠一は、その時初めて気づいた。
見えない存在であることの、本当の呪いに。
見えない世界には、自分だけではなく、他にも何かがいるということに。
そして、その何かは、誠一よりも、はるかに危険だということに。
誠一の逃げた先は、パラダイスではなく、地獄だったのだ。
見えない地獄。
見える世界には映らない、深い暗さ。
その中で、彼は生きていくしかない。
千佳を守りながら。
愛する者を守りながら。
誠一は、その運命を知らずに、毎晩、夜間清掃の仕事に向かった。
見えない身体で。見えない心で。
だが、彼を待つのは、静寂ではなく、恐怖だった。
見えない足音。見えない呼吸。見えない悲鳴。
すべてが、見えない世界で起こるのだ。
そして、彼は、その世界に、完全に取り込まれようとしていた。
十月の雨の夜。
すべてが始まる。
誠一の運命が。
千佳の悲劇が。
見えない世界の脅威が。
雨は、激しく降り続いた。
ビルの窓は、水滴に覆われた。
その向こう側では、見える世界と見えない世界が、激しく衝突しようとしていた。
誠一は、その衝突の中心に、立たされるのだ。
終わり
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