客間にて
楽しい。
広がっていきますね。
第一王子が用意してくれた客室は薔薇の咲き乱れる庭園に面した、とても居心地の良い部屋だった。
もしも気分が良く、元気だったなら触れるのも躊躇われるような家具の数々に感嘆し、庭師の命を削ったかのようなうつくしい庭園に感動したかもしれない。
けれどフレイアにそんな余裕はなく。
部屋に入り、一番に目に入った寝椅子に腰かけると背筋から力が抜けて。そのままばたりと後ろにあるクッションへ身を沈めた。
あのあと。
ルフェウスのエスコートで大広間に戻った。
幸い舞踏会も終わりに近い時間でダンスを披露するなどという展開にはならなかったが。その舞踏会の間中、誰のエスコートもしなかった第一王子のエスコートを受け。表面上は仲睦まじげに隣に立っていたのだ。
控えめに表現して針の筵だった。
あからさまに罵倒されることはなかったが、顔を覚えてやると言わんばかりの刺々しい視線に終始さらされ続けてもなお、涼しい顔をしていなければいけなかったので。妹にどんな根も葉もない噂を流された時よりも堪えた。
明日以降のことを考えると憂鬱になってきて。知らず肺の奥から息が漏れた。
燭台で柔らかに照らされた天井を見上げると抗い難い眠気が脳天から瞼へのしかかってくる。
けれどこのまま眠るわけにはいかないという気持ちで顔をしかめると、こめかみがずきりと鈍く痛んだ。
「お疲れ様でした、フレイア様」
労ってくれるのは第一王子の腹心であり表向きは侍女のメアンだ。
温かい紅茶を淹れ、当然のようにフレイアの靴を脱がせてくれようとする。
「ありがとうございます……靴は自分で脱げますし。着替えは手伝っていただきますが湯あみはひとりでできますので」
侍女とはいえ第一王子の腹心。
侍女として接するには抵抗があって、フレイアは小声で伝えたが。メアンはどこか艶っぽいその造作に有無を言わせない笑みを浮かべて首を振った。
「私は『フレイア様の侍女』でございます」
「えぇ……では、よろしくお願いします」
メアンにとって自分の傍で侍女になることが仕事だというなら抵抗するほうが迷惑だ。
理解しながらも侍女のマリア以外の相手に身を任せたことがこれまでなかったフレイアはどうにも落ち着かない気持ちを持て余しながらメアンに着替えを手伝ってもらい。湯あみを済ませた。
メアンは『第一王子の侍女』だけあって素晴らしい技巧を持っていて。肌に触れてくる手は温かくやわらかで。湯あみの後のマッサージを受けるころには全身の力が抜けて。抗い難い眠気に苛まれていた。
「きもちいい……すごいわ、メアン……わたし、眠ってしまいそうです……」
「ふふ、よくお眠りください、フレイア様」
まるで娘を労わるような慈愛に満ちた手つきでそっと額から瞼を撫でられたのがその日最後の記憶。
いま居る場所は浴室に設えられたマッサージのための寝椅子の上で。
こんな場所で眠ってしまったらメアンが大変だと思ってどうにか目を開けようという考えも働かないまま。フレイアは落ちるように意識を失った。
翌朝。
見慣れない天井に混乱しながらフレイアは天蓋付きの豪華なベッドから勢いよく起き上がった。
着た覚えのない寝間着はとろりと滑らかで真珠のように輝いていて。襟と裾に上品な刺繍があしらわれている。
どうやら寝落ちした自分にメアンが着せてくれ、ベッドまで運んでくれたのだろう。
朝のすがすがしい空気とは裏腹に昨日の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎり。フレイアはベッドの上で頭を抱えた。
眠った後もメアンの施術は続いていたのだろう。
掌を滑った髪は夜の湖のように滑らかかつ艶やかで。自分の髪ではないかのようだ。
信じられないほどに素晴らしい手触りについ、現実を忘れてフレイアは自分の髪を指で梳いた。
確認しきれていないが荒れ放題で折檻の痕もあった身体も丁寧に磨いてくれたのだろう。
毎朝感じていた肌の違和感もなく、心なしか身体も軽く感じる。
「おはようございます、フレイア様」
いつの間に部屋に入ってきたのだろう。
いいや。もしかすると自分が気づかなかっただけで最初から部屋に居たのかもしれない。
侍女のお仕着せを身に纏ったメアンがベッドの傍に歩み寄って朝の挨拶をしてくれる。
「おはよう、メアン。昨日は眠ってしまってごめんなさい……大変だったでしょう」
本当はいけないと思いながらもベッドから身を起こしたまま浅く頭を下げると案の定、やんわりとブラシを持ったメアンに肩を支えられた。
「いえ、むしろ私としては好都合でした。心行くまでお手入れをすることができましたので」
にっこりと笑ったメアンがまるで成果を確かめるようにフレイアの髪を丁寧に梳っていく。
触れている時は全く感じなかったけれど眠っている間に多少乱れていたのだろう。
メアンの触れたあとの髪は絹のような艶やかさになっていく。
そんな様を見て胸が躍るけれど。
これから学園へ行くことを思い出すと胸の奥が重苦しくなる。
学園にいつもいじめてくる妹はいないけれど。
依然として自分の評判は最悪の部類に属しているままだろう。
むしろ妹を陥れ、第一王子に取り入ったというとんでもない噂まで広まっていると考えた方が良いかもしれない。
せっかくこうして整えてもらった髪や肌も。城に戻る頃には跡形もないかもしれない。
「メアン……」
申し訳ない気持ちで。けれどなんと言ってよいのかわからないまま呼ぶとブラシを置いたメアンが目を合わせてくる。
「フレイア様。本日はご一緒させていただきますので」
にっこりと笑みを深めたメアンが……ずいっと顔を近づけてくる。
その時になって。自分よりいくつか年嵩だと思っていたメアンと年があまり離れていないことに気づく。
メアンがどのような人生を歩んできたのかはわからないが、第一王子の腹心という立場なのだ。きっと大人に見せるための化粧をしているのだろう。
晴れた日の森を思わせる深い緑の瞳には若さ特有の頑なさがあって。もしかすると目尻にある泣き黒子もよく似合っているが変装の一種なのかもしれないとこっそり思った。
「立場上、致し方ないのですがフレイア様の健康状態をルフェウス様にお伝えしなければいけません」
軽い朝食を用意してくれた後。淀みない手つきでフレイアの朝の支度をこなすメアンが申し訳なさそうに切り出してくる。
「わかっています……背中や腿裏に折檻の痕があることも必要なら伝えてください」
きっとメアンがそんな眼をしているのはそのせいだろう、と思いながらフレイアは肩を竦めてこともなげに返した。
貴族令嬢は本来、家にとって『大切な存在』だ。
それは愛されていようがいまいが揺るがない。
家と家との縁を繋ぐ、大切な存在には如何なる瑕疵も……本来はあってはならない。
故に貴族令嬢は幼少より大切に育てられ、知識を身に着け礼儀作法を叩き込まれる。
フレイアも貴族令嬢として育てられてきたがそれも八年前までのことだ。
玉のような肌でなくてはいけない、この体には生涯消えない虐げられた傷がある。
故にライアスとの婚約が破棄された時点でまともな嫁ぎ先などもうなかったのだ。
「フレイア様。私はルフェウス様にお仕えしておりますが『フレイア様の侍女』です。あなたの自尊心を守るのも私の仕事。誓って、あなたの不名誉に繋がることは言いません」
言い聞かせるような口調で。メアンは昨日も言っていた言葉を繰り返し。まるで王に仕える騎士のように跪く。
「メアン。本当にそれは気にしていないのです。むしろ……私もルフェウス殿下に仕える身。あなたは私の侍女としての立場を貫かなければいけないのだろうけれど……できることならもっと気楽に接してくださると嬉しいです。なにぶん私の侍女は乳母の娘で姉妹のように育ったので」
慌ててメアンの腕を取って立ち上がらせながらフレイアは言い募った。
第一王子の腹心ということは『侍女』である時間以外にも何らかの仕事があるに違いない。
『敵』が居るのなら目を欺くという意味でも侍女に徹するしかないのだろうが。忙しいのに侍女として時間をかけてもらうのはなんだか申し訳ないと思ったのだ。
「ふふ、では私の好きにさせていただきます。私、髪や肌のお手入れが大好きで……心置きなく腕を振るわせていただきますね」
ある意味失礼なことを言っただろうかと思っていると立ち上がったメアンが腕を取ってまたずいっと近寄ってくる。
昂っているのだろう。
深い緑色の眼に木漏れ日のような金色が見えて。
なんだか思っているのと違う、と思いながらフレイアは微苦笑を返した。
いつの間にか朝の支度はすべて済んでいて。
部屋に設えられた姿見には艶やかな黒い髪の一部を上品に結い上げた、新雪のように滑らかな肌の、とてもうつくしい令嬢が居た。