Act04.霧の帝国と水面の下(1)
ご覧いただきありがとうございます。
今回は帝国サイドの視点に移ります。
氷のように冷たいと噂される皇子アルブレヒトの登場です。
三百年の歴史を誇る帝国の皇城、ノイエ・ビスルイゼン。
高い天井から午後の日差しが眩しく差し込み、床に長い影を落としていた。
かつてこの皇城には十三人の皇子がいた。しかし今、この皇城に残るのはたった一人――。
――そして今、その皇子は机に向かい、書類を睨みつけていた。
名はアルブレヒト・ルイス・ヴァルトヴィン・フォン・ローゼンハイト。
長く続いた皇位継承戦争を勝ち抜き、皇太子となる男だった。
傍らに立つ青年が、慎重に声をかける。
「何か良くない内容が書かれていたのでしょうか、殿下?」
「大したことではない。ただ、腹が立つ」
アルブレヒトは書類を叩きつけるように机に置いた。
「リューネの日を迎え、オブロフの使節が到着したそうだ。しかし、迎えに行ったのが、たかが五級官吏だったらしい」
「そんなことがあったのですか? 失態ですね」
「その通りだ」
アルブレヒトの眉間に深い皺が刻まれる。
「半月前に報告を受け、既存の外務省に委任していた。……まさか、こんな失態をするとは」
「デルクランツ伯爵が三皇子派で戦死した影響でしょう。指揮系統が乱れたまま再編が遅れているのです」
「それは俺も分かっている」
薄紫と空色が絶妙に混ざる瞳が、氷片のように光った。
「しかし――!」
アルブレヒトの声が高い天井の下でよく響いた。
「いくら首脳部が壊滅したとしても、外務省に籍を置く者たちだろう? なぜ、その中に外務省を再編できる人間が一人もいない? これでは帝国の名が汚れる! オブロフに口実を与えているようなものじゃないか!」
「お落ち着きくださいませ、殿下」
「僕は冷静だ。ただ、今の状況に腹が立つのを抑えられないだけだ。オブロフの使節が、この件でどれほど暴れ回っているか、知っているのか?」
「暴れ回っている、とおっしゃいますか?」
皇子のそばに立つ、大柄な青年が問い返す。
いくら帝国が内戦中で、オブロフが二十余年で強くなったとはいえ、国力の差は歴然だ。領土の広さだけでも、帝国はオブロフの二十倍だ。
――帝国は最も強力だからこそ、帝国の名を冠しているのだ。
なのに外交使節が公然と暴れるとは……、どういうことだ?
「そうだ。文字通り、暴れ回っている。報告を聞くと、ひどい有様だ。君にも関係がないわけでもないから、一度読んでみろ」
「……はい? 私、ですか?」
「そうだ」
アルブレヒトは書類を親友に渡した。腹が立っていたせいか、やや荒い動作だったが、生まれつきの気品がそれを優雅に見せる。
青年は慎重に受け取り、目を通した。アルブレヒトはその横顔を見つめ、眉間にしわを寄せる。
――くだらないことをする女だな。
アルブレヒトは報告書を再び手に取り、一行ずつ読み進めた。
帝国に到着して、二日目。
迎えの官吏に癇癪を起こし、オブロフに帰国すると暴れ回ったらしい。その後、オブロフ大使館の職員たちに説得され、しぶしぶ公邸に向かったという。
途中でもヒステリーが半端なかったらしい。官吏たちは、今もトラウマで苦しんで体を震わせているという。
……アルブレヒトは一瞬、呆然とした。いったい、どれほどひどかったのか?
翌日、外務省二級官吏が向かったが、それも無駄。「二級官吏風情が説得とは何事か」と、さらに暴れたという。
「愚かで弱い奴らだ。早く取り替えねば」
過失のある外務省が、譲歩せざるを得ないのは理解できる。だが問題は、彼女が突きつけた条件だ。
アルブレヒトはぐっと歯軋りした。怒りが込み上げてきた。
《帝国側の謝罪の意として、リューネの日の戦勝の宴で、オブロフの使節のパートナーとなってエスコートすることが条件。皇子、もしくは皇子の補佐官格に相当する人物を》
――図々しい。
「予想外の条件ですね……。まさかこんな要求をしてくるとは」
「腹が立つ女だ。祝賀使節として来たというのに、今の我が国の状況を知らないわけがない。なぜオブロフは、こんな女を送ったのか!?」
「お落ち着きくださいませ」
エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャという名前だったか?
もしも機嫌を損ねるための仕掛けなら、満点でも足りない。たった一人の親友を利用するなんて。
「傲慢不遜にも程がある! オレスキーの寵愛を受けた私生児だからといって、ここまで振る舞うとは!」
「アルブレヒト殿下」
「……分かっている」
アルブレヒトは言葉がきつくなりすぎたと悟り、口をつぐむ。
彼はカップを手に取るが、紅茶は冷めきっていた。
そっと置くと、カツンと冷たい音が響く。頭も冷えた。
「皇太子となる俺が、使節をエスコート? 最初から話にならない条件だ。断られるとわかっていながらわざと提示されたに違いない」
外交でよく使われる手法だ。
まず飲めない条件を突きつけ、譲歩するふりをして本命の条件を引き出す。
……最初から二番目の条件狙いなのは見え透いている。だが拒否は難しい。その下劣さに腹が立つ。アルブレヒトは無意識に髪をかき上げた。
青年が静かに口を開く。
「お決まりになりましたか?」
「図々しい条件を出す使節などさっと追放したい。しかし……、今の時局で事を大きくしてしまうのは得策ではないだろう」
「殿下を支持するため、最も早く到着した使節です。象徴性があります。ご賢明な判断です」
「問題は、使節に誰を派遣するかだが……」
「その役目は、私が引き受けいたします、殿下」
「エーリヒ!」
アルブレヒトが席から立つ。美しい顔には、驚きと怒りが混ざっていた。
「君が、いや、貴方がオブロフの使節? どうしてだ!」
「条件の『補佐官格に相当する存在』は、明らかに私を指しています。当然、私が行くのが最も適切でしょう」
「それでも!」
「殿下がこれほどお怒りになのも、そのためではないですか」
二人の視線がぶつかる。親友の瞳は幼い頃から常に変わらず、揺らぎのない瞳だった。
アルブレヒトは、目を逸らした。
「……勝手に提示した条件を、必ずしも受け入れる必要はない」
「すでに二度も決裂しています。殿下のおっしゃった通り、帝国はまだ安定していません。皇位に就かれるまでは摩擦を避けるべきです」
「……」
「オブロフの使節は、最初から殿下ではなく私を望んだのです」
「俺も分かっている。それだからこそ、なおさら生意気ではないか!」
エーリヒは彼の怒りにも微笑んだ。
人々は自分の主君を『青い悪魔』と呼ぶ。
氷から生まれ、血も涙もない美貌の悪魔。どんな躊躇いもなく兄弟を皆殺しにした冷血。
――違う。
アルブレヒト様は、実は、誰よりも熱い心を持つ方だ。
ただ、それを見せないだけだ。
それが分からないわけが、ないだろう。彼がこんなに怒る理由が自分にあると、分かっているのに。
「私はむしろ、むしろ好機だと思います」
「何?」
「表向きには、パートナーのいない使節の要求を受け入れるだけです。リューネの日、帝国とオブロフが悪くない関係だと示せます」
アルブレヒトは一瞬、眉間にしわを寄せたが、すぐ解いた。
「婚約者もいないので。リューネの日一日程度のエスコートなら、難しい条件ではありません」
「……」
淡々とした声で、アルブレヒトの瞳に一瞬切なさが宿った。
「……だが、君も戦後処理で忙しいじゃないか。今も、夜通し馬を走らせて戻ったばかりだろう」
「いえ、殿下と比べれば、忙しいなんてことは言えません。どうぞ、任せてください」
「エーリヒ」
「はい、アルブレヒト殿下」
穏やかでありながら、一度口にした言葉は絶対に曲げない男だ。ここまで言われてしまうと、彼の頑固さを折るのは難しいだろう。
「大丈夫か?」
「もちろんです」
「厄介なことを頼んでしまって、すまない」
「とんでもないお言葉です。殿下が私に謝る必要など、全くありません。どうか、そんな顔をなさらずに」
「そうか……。では、君に任せることにする。大変だろうが、オブロフの無知な使節を接待し、不満を解消させてくれ。俺も耐える。そして……」
「はい、殿下」
「ロイトンのスパイは、もう国境を越えただろう?」
「申し訳ありません。私が不十分で……」
「なぜ君が謝る? やらかしたのはクラウデルンの奴だ。――そんな知能で皇帝になろうとするなんて」
アルブレヒトは深く息をつき、目元を覆った。
「ご覧になる書類が多いのは承知していますが、少しでも休憩を」
「そうだな。数日眠れなかった。疲れが溜まっている。十数分でも休むべきか」
「やはり、賢明なお判断です」
「ふん。まるで子供をあやすような口調はやめろ」
しかし、その表情は子供の頃と同じ、不機嫌そうな顔。エーリヒは微笑みをこらえきれなかった。
お読みいただきありがとうございました!
帝国の“青い悪魔”と呼ばれる皇子、その本当の姿が少し垣間見えた回でした。
次回は、彼の決断が物語をどう動かすのか、ご期待ください。