Act 03. 狐と毒蛇と狸の間(3)
列車はついに帝国の首都、カイザースベルクへ――。
不穏な空気を感じながらも、エカテリーナの胸は高鳴ります。
第6話、どうぞお楽しみください。
週末は午前10時40分、平日は午前6時10分に更新予定です。
特等客室のサービスを担当するなら、もっと訓練されてるはずなのに。
「お仕事を始めてから、まだ日が浅いですね?」
「……あっ、申し訳ありません。おっしゃる通りです」
「大丈夫よ。誰にだって初めてはあるもの」
「優しいお言葉、ありがとうございます」
私が寛大に笑うと、男性はほっとした顔で、テーブルのセッティングを続けた。
「ご令嬢も、帝都へ向かわれるご予定でしょうか?」
特等客室のVIP情報なんて、案外すぐに察しがつくもの。
この時期、帝都行きの特等に乗った赤毛の若い女……。誰が見ても一目瞭然。
まあ、隠そうとしたって無駄だし、そもそも隠すつもりもない。
……わざわざ教えてあげる義理もないけどね。
「帝国には一度、行ってみたかったんです」
「この時期に、ですか?」
「帝国の次は、他の国も行ってみようかと思っているんです。あなた、口調からしてロイトン出身ですよね?」
男性の肩がピクリと動いた。でも、すぐ笑顔に戻った。
「おお、さすがご令嬢、鋭いですね。その通りです。――その意味では、次に行く国として、ロイトンはいかがですか?」
私はその厚かましさに、思わず笑ってしまった。
「候補として考えてはいますよ。帝国の次に大きな国ですから」
「穏やかで良い国ですよ。いつも曇っていて霧がかかっている帝国とは違って」
「ふふ、参考にさせてもらいます」
セッティングを終えた男性は退室し、私はゆっくりとティーを一口。
「そういえば……昔エルと出会った保養島、あれもロイトン近くだったわよね」
そう思いながら、 ミルクが渦を描き、琥珀色の紅茶がカップの縁をなぞる。落ち着いた動きの裏に、心のざわめきが映っている気がした。
……しかし、突然、――
タタタタ――! タタッ!!
キィーキィー!
「早く追え!」
「あっちに逃げた、捕まえろ――!」
「なんと……! あそこから飛び降りるつもりか!?」
慌ただしい足音。数人が急いで走る音が響いた。何か気になって、私はドアを開けた。
「何があったのですか?」
「い、いえご令嬢、ご心配なく!」
「何のことかを聞いているんですけど」
「……ええと、怪しい人物が当社の乗務員を装って、列車内を徘徊していたようです。現在、最善を尽くして追跡中でして、どうかご令嬢は安全な客室でお待ちいただけますようお願い申し上げます! 大変申し訳ございません!」
ふーん……?
会話の断片から察するに、どうやら他国のスパイらしい。
まぁ、この時期、帝国にスパイを送らない国なんてないでしょうね。
話題になっていたのは西の島国、ロイトン王国のスパイらしい。ロイトンは帝国の仇敵だから無理もない。
――まさか、さっきの男?
……いやいや、まさかね。でも、だったら面白い。
私は小さく笑った。
帝国、そしてロイトンね――。
私はゆっくりと、遅くなる車窓の外の風景を眺めていた。石造りの重厚な建物群、尖塔が林立する大聖堂、そして街を貫く運河の輝き。
でも、この美しい街の下では、私が知らない陰謀が渦巻いているのだろうね。
列車は、十日間の横断を経て、いよいよアウフェンバルト帝国の帝都、カイザースベルクに到着しようとしていた。
***
「おっほん、申し訳ございません」
「ああ、これが『帝国の儀礼の水準』なんですね」
「そ、そんなことは……!」
灰色の空から雨が降る、どんよりとした天気だ。でも、しとしとと降る雨よりも気に入らないのは、あの人。私はそわそわしている口ひげの中年の男性を横目で見た。
――確か、帝国の五級官吏だったかしら? ちょっと酷すぎるよね?
私はオブロフを代表して帝国を訪れた祝賀使節。なのに二級や三級じゃなくて?
いくら内戦が終わったばかりで、混乱していても、だ。こんな扱いがオブロフに対する冒涜だということが分からないはずがないのに?
しかも本人、まったく謝る気がない。帝国の官吏はなんだかんだで仕方なく謝ったフリをしているだけ。目を合わせようともしないし。
つまり、すごく不満だってことね?
若い女、しかも統領の『私生児』に頭を下げるなんて、どうしても気に入らないってわけだ。
私は目を細めた。
私生児だろうが、とりあえず公式な使節だ。私が来ることは、アルブレヒト皇子にも 伝わっているはず。
……皇子の仕業なのかしら? それとも、別の誰かの陰謀?
――まあ、誰でも構わない。大事なのは、意図なのだから。
まさか本当に、誰も来る人がいなくて、こうだったとは思えない。ええ、そんなはずがない。
一番考えられるのは…… 先手を打ってきたってこと? 腐っても鯛……、いや、帝国だから。
……って、あはは。ムカつく。
ここまで舐められて、嫌なことを一つも言えずに我慢するなんて、思った?
湧き上がる苛立ちを抑えながら、ふと気づいた。
あれ、ちょっと、ちょっと? なんで私がこんなに苛立ちを我慢しなきゃいけないの?
悟りが訪れた。私がまだ十歳だった頃、父が酒に酔って言ったんだ。
「カーチャ、みんなに愛されたいか?」
「はい!」
「無理だ。誰からも愛される人なんて、いないん。生きていれば、絶対に誰かがお前を嫌う。それがこの世の常だ」
「……」
「努力しても、感情だけが傷ついて損なんだ。だから、クソみたいな態度を取られたら、もっとクソみたいに返してやれ。十倍にして、利子つけて返してやれ」
……うん。あの時の、あたたかくて慈愛に満ちた教えが、胸に沁みた。
心の奥で、小さな私が囁く。
――むしろ、よかったんじゃない? と。
傲慢で気難しい、わがままの女に思われた方が、後々動きやすいもの。わざわざ私に足場を整えてくれるなんて、親切すぎない? ありがとね、帝国。さすがだわ!
私は満面に笑みを浮かべた。
目が合った帝国の官吏が、何か不吉な予感を感じたのか、体をびくっと震わせるた。
――うん、その顔。その反応。
気に入ったわ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
週末は午前10時40分、平日は午前6時10分に更新しております。
次回もぜひお楽しみに!