Act 03. 狐と毒蛇と狸の間(2)
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日は第5話をお届けします。
なお、週末の更新は午前10時40分に投稿予定ですので、ぜひチェックしていただければ嬉しいです。
彼の顔が、瞬く間に青ざめていく。
「父上には毎月、最新の機器が献上されていると聞いています。オーダーメイドまで含めて」
「……!」
「壁に貼るタイプ、絨毯や家具などに貼る機器、電話機に組み込む方式……。さて、この部屋にはいくつあるでしょうか?」
オブロフの魔導工学をここまで発展させたのは、統領になった父だ。
目的? 政権維持のための監視だろう。
例外なんてない。たぶんこの部屋にも、最低三つはあるわね。
もちろん、一挙手一投足を監視されるのは、気分のいいものじゃない。でも、理解はできる。誰も信じてはいけないのが、最高権力者の宿命だから。
――目の前の兄のように、血を分けた子供でさえ。
「お前、知っていながら今まで!」
「列車の時間が近いので、そろそろ失礼しますわ。親切なお見送り、ありがとうございました、お兄様」
「エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャ――!」
「まあ、そんなに力を込めてフルネームを叫ばなくても。私が一番よく知ってますもの。提案への答えは……、明晰なお兄様ならもう分かっているはずですよね?」
そう言って私は立ち上がった。――わあ、顔が真っ赤になって血管が浮き出ているわ。
残念ながら、なんの驚きもない芸だったけど。少しは楽しませもらったし、お礼の一言くらいは言ってあげようかな。
「あ、今日のことはぜぇーんぜんご心配なく。父上は、今日の分も含めて全部、前からご存知ですから。お兄様にどうか良い結果がありますように、お祈りしますわ」
今、私に怒っている場合じゃないって、分かっているよね? 私だったら、すぐに父上のすそを掴んで、土下座しに行くところだけど。
――逃げても、楽園なんてないのよ。
イーゴルは、私の親切な忠告を理解したようだった。彼は拳を握りしめ、血管が浮き出た手で、睨みつけながら、唸るように言った。
「毒蛇のような女!」
「まあ、お褒めに預かり光栄です」
毒蛇ね。狐よりはずっと気に入るわ。私は心から明るく笑った。
***
「――23分。無駄な時間だったわ。まあ、ルボワールのエディションは手に入れたし、良しとしようか」
ソファにベッド、ティーテーブルまで揃った豪華な客室。私は特等客室だけに提供される高級ワインを楽しみながら、脚を軽く揺らした。
列車に乗れた。これで、とりあえず第一段階はクリア。
毒蛇――ね。
「娘は毒蛇で、父は狸。息子は狐だなんて。まるで動物園ね」
まあ、その通りね。兄は父の背を刺し、父は子供たちを監視し、私はその父を刺す予定。
ほんと、笑えない茶番。
父は結婚したことすらないのに、子供は何人もいた。いわゆる『私生児』。
つまり、オブロフの最高権力者である、終身統領オレスキー・ディアノビッチ・セルゲイノフの非公式な子供たち。
優れた能力と冷酷さで、現在の地位に上り詰めた父は、結婚せず数多くの愛人だけを置いた。
本人の言い分では、権力目当てで近づく女性たちとは、真実の愛を分かち合えないからだったけど。
――なんて言い訳、誰も信じなかったわ。
父には権力こそが全てだったから。後継者が未来の政敵になるのを恐れて、法的な結婚を避けた。
とにかく、終身統領の愛人になろうとする女性は溢れていた。非公式に数えると、おおよそ三十人。まさに生まれつきの女たらしだったわ。
やっぱり、赤い髪は恋多きという俗説が……。
――ちらり。
「うぐ、セルフツッコミはやめようね……」
窓に顔が映った。私は窓に映る自分を見て、赤い髪を指でいじる。
「嫌いじゃないけど、男運を呼び込みすぎるのよね、この色」
父とは違う。本当よ。本当だってば。
「そんなわりに、母は父と長く一緒にいたのよね?」
理由は大体分かる。適度だったから。
私は久しぶりに母を思い出した。成人した途端、あっさりと去ってしまったから。自分の義務は果した、なんて言って。
今もどこかの別荘で、自然風景でも描いているだろう。来年あたりには、また直接描いた絵葉書を送ってくれるんじゃないかな。
母は権力や富には別に欲がなかった。でも、おとなしく家にこもって夫の愛だけを求める良妻賢母タイプでもなかった。旅行が好きで、美しいものが好きで、自由な人。
……今は分かる。だから母は、オレスキー・セルゲイノフにとって理想的な恋人だったのね。
華やかすぎて疲れさせることもなく、地味すぎて飽きさせることもない。知的で、話が通じる一方で、権力を貪らない。――そのすべてにおいて程を知る人。
だから今でも父との関係は悪くない。
そのおかげね。私が父に唯一、半分でも公式に認められた子供なのは。
父は、私が母から受け継いだ『身の程を知る適度さ』と、自分から受け継いだ『賢明さ』、そして『度胸』を喜んでいたから。
「でも一番大きな理由は、これよね」
私の髪と目の色。父とまったく同じだから。
幸いにも顔は母似てだけど、鮮やかな青緑色の目は、まるで切り取って貼り付けたかのように父と同じ。初対面の人が驚くくらいだから、自分でもびっくりすることがある。
「つまり、父が私を可愛がるのは、一種の自己愛じゃないかしら? 父らしいわね」
でも、この一件が終わったら…… どうなるんだろう。
心臓がこんなに高鳴るのは、不安のせいかしら? それとも、エルに会えるかもしれないという期待のせい?
早く、あの人に会いたい。
エーリヒ。あの男が、エルであってほしい。あの時私を救ってくれた彼を、今度は、私が救いたい。
「ふうう……」
気が急いているせいか、列車の進みがやけに遅く感じる。もう帝国領には入った。けど、帝都までは──あと五日。
広いわね、本当に。
丁寧なノックの音がした。ああ、ちょうどプライベートティータイムの時間ね。
「失礼いたします。デザートをお持ちいたしました」
……ん?
若い男性だ。制服はきちんとしてるのに、顔立ちが妙に印象的。
濃い口ひげに、やたら分厚いメガネ……。うーん、すごく個性的ね?
ミニエクレアと手作りチョコレートが載った小さなプレート。彼がそれを置くと、微かに音がした。ティースプーンの置き方も少し違う。
特等客室のサービスを担当するなら、もっと訓練されてるはずなのに。
「お仕事を始めてから、まだ日が浅いですね?」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回のエピソードでは、エカテリーナとイーゴルの緊張感あるやり取りを中心に描きました。
次回は、特等客室での“あの人物”との出会いから物語が動き出します。