第0章. 二つの誓い、交わる未来 ―番外編―
黄金のシャンデリアが無数の光を散らし、霞のような靄が舞台装置のように流れていた。
ひとすじの水音さえ拍子の一部となり、噴水は舞曲に合わせて静かに煌めく。
大理石の床は鏡のように輝き、皆の足取りを映し返していた。
視界のすべてが、黄金に染まっていた。
――私は、その中にいた。
……現実なのか。それとも、華やかに飾られた芝居の一幕なのか。
その境界は溶け合うように曖昧で、どちらにも見えた。
豪奢なドレスと礼装を纏った人々が、円を描きながら舞い踊っている。
香水とシャンパンの甘い香りが空気に溶け合い、
管楽器のソロで始まった旋律は、やがて数え切れぬ楽師の合奏へと膨らんだ。
より大きく、より華やかに。
そして、より速く――。
群衆の視線は観客席から浴びせられる光のように、惜しみなく私に注がれていた。
その中心で、私は彼と踊っていた。
私の手は、彼の手にしっかりと握られている。
白い礼服に包まれたその姿は、会場の光を受けて淡く輝いていた。
舞台の主役を示す衣装のように、誰よりも鮮やかだった。
彼の存在は温かく、私の周囲を柔らかな明かりで包み込む。
手のひらから伝わる熱は、胸の奥まで届き、
世界には二人しか存在しないかのように錯覚させた。
指のぬくもりに支えられながら、私はただ彼と一歩ずつを重ねていく。
踏み出すたびにドレスの裾が舞い、白い光の粒が散る。
その瞬間、私は確かに幸福の中心にいた。
彼が低く囁く。
「この日を、ずっと待っていたんだ」
「……私も」
言葉を交わすだけで胸が高鳴る。
世界が甘く震え、黄金の幕に包まれるようだった。
「幸せにすると誓うよ。たとえ、この命を代償にしても。僕の――」
その瞳は、言葉以上に雄弁だった。
愛と約束のすべてを宿し、ただ一人、私に注ぎ込んでいる。
熱に焼かれるようで、同時に慈しみの泉に抱かれるようでもあった。
「……?」
私は無意識に、左の薬指に宿る冷たい感触を意識していた。
いつからそこにあったのか分からない。
舞台の小道具のように馴染んでいたその重み。
「――皇太子殿下!」
「いや、でも公爵は……!」
ざわめきが波のように広がり、私の耳に押し寄せる。
顔を上げた先。
霞の奥にもう一人の男が立っていた。
黒い礼服に身を包み、光の輪の外に静かに佇むその姿。
彼の立つ場所だけ、まるで照明が届かぬかのように陰っていた。
けれど瞳だけは炎のように鮮烈で、私を捕らえて離さなかった。
――胸の奥が張りつめる。
ときめきなのか、恐怖なのか。
唇は乾き、声は刃先で断たれるように途切れた。
左手を握る彼は、さらに強く掴んできた。
指先が痛いほど食い込み、まるで『離さない』と告げているかのように。
――それでも、黒の男は一歩ずつこちらへ近づいていた。
音楽は頂点へ駆け上がる。
管の響き、弦の震え。
観客のような群衆は息をひそめ、結末を待つ。
「……!」
彼が小箱を取り出した。
蓋が開かれ、黄金の指輪が眩く輝く。
「この瞬間を、何度夢に見ただろう。……もう二度と離さない」
その声はかすかに揺れていた。
けれど掌は鋼のように固く、私を捕らえ続けている。
黄金の輝きに世界が染まり、音楽は水底で鳴るように遠ざかっていった。
光は私たち二人を舞台に押し上げ、祝福の音が花びらのように降り注ぐ。
彼は言葉を継がず、私の右手を取り、その指に指輪をはめ込んだ。
金属の冷たさが肌を這い、胸の奥は弓弦のように張り詰める。
熱と冷気が同時に駆け抜け、呼吸が細く千切れた。
祝福の声が渦を巻く。
それは歓声のはずだった。
だけど翻る旗の音は、裂け目を吹き抜ける風のように耳を刺した。私は……。
そのとき、耳元に声が落ちる。
――もし、彼を救いたいのなら。
「だめだ、その言葉を聞いちゃいけない……!」
刹那、黒い影が一歩を踏み出す。
足下の模様が滲むように暗く沈み、炎のような視線が逃げ場を奪う。
白の手はますます強く私を抱き寄せ、指は鎖のように食い込んだ。
黒と白。二つの力が交錯し、私を引き裂こうとしていた。
――失いたくない。
――だから、どうか……、生き残って。
「――必ず、そなたを幸せにする。そなたの隣に立つのは、あの男ではなく俺だ」
その声は冷たくも、甘美な鎖のように胸に絡みつく。
拒むべきなのに、心のどこかが強く惹き寄せられていた。
切実な響きの奥に潜む、優しさと渇望。
それは脅しではなく、愛の宣誓のように聞こえてしまった。
黒の瞳には燃えるような決意が宿り、白のぬくもりはなおも私を守ろうとする。
二つの温度に挟まれ、私は立ち尽くすしかなかった。
そして、その時――。
左手を包んでいた銀の冷たさが消えていく。
長く握りしめていた何かが、ゆっくりと指から抜け落ちていく。
指輪は宙を漂い、くるりと回転しながら落ちていった。
思わず手を伸ばす。
「だめっ……!」
だが、届かない。
指先は空を掴むばかりだった。
大理石の床が割れ、音楽は裂けるように、崩れる。
すべての光が消え、闇が私を呑み込んだ。
そして、どこからか声が響いた。
『これは、まだ訪れていない未来の一片――』
「……!」
胸を押さえ、私は荒い息を吐いた。
脳裏を鋭くかすめる断片。
……いまのは、何?
なにもわからない。
ただ、記憶に刻まれたのはたった一つだった。
――エルが、死ぬ……?
その言葉は幻のように胸に焼きつき、やがて現実でも私を待ち受けることになる。
Act0「二つの誓い、交わる未来」までお読みいただき、ありがとうございます。
これは、まだ誰も知らない“未来の一片”。
夢のように儚く、それでいて確かに始まりへと繋がる物語です。
本編第二巻(第15章)は、12月より連載開始予定です。
少しの間、お時間をいただければ幸いです。
次の幕で、またお会いしましょう。




