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第14章. 候補名簿に刻まれた名(2)

――エカテリーナ・アスナヤポラニャ・イリィチャ。


肖像の中の女は、いつものように自信満々な笑みを浮かべていた。

彼女は知っているのだろうか。先ほど自分に渡された名簿の続きに、自分の名が記されていることを。


「殿下には、一日も早く后を迎えていただかねばならない……」


今や直系の皇族と呼べるのは、アルブレヒト殿下と、その同母姉――アーデルライト皇女だけ。

父帝と先代の皇帝が好き勝手に撒き散らした(けが)れた血筋は、今回の内乱で一掃された。


血を分けたはずの父や一族を心底憎んでいたアルブレヒト殿下は、いずれ火種となるであろう皇族を、残らず自らの手で粛清(しゅくせい)したのだ。


……だが、問題はこれからだった。

残ったのは、直系二人のみ。もしもアルブレヒト殿下に万が一のことがあれば、帝国はたちまち混乱に呑まれるだろう。先日のテロだって、あと一歩でそうなるところだったではないか。


その想像だけで、ユルゲンの目がぎらりと光を宿した。鋭く研ぎ澄まされた刃のような光――。


だからこそ――殿下は一日でも早く后を迎え、皇統(こうとう)を繋がねばならない。


アーデルライト皇女? あの方はまず、女性である。子を残すためには、再婚しなければならない。そして、この帝国を背負う器量も持ち合わせてはいない。

――それはユルゲンも、アルブレヒト皇子も、生き残った帝国の貴族たちすべてが理解していた。


ただ、いまだ政情は不安定。誰も口には出さないが――そろそろ、(ささや)かれ始める頃合いだ。


国外を見渡しても、年齢の合う王女はいない。いたとしても、血筋が近すぎる。

ゆえにユルゲンは、帝国内の未婚の令嬢たちへと目を向けていた。

内乱で数が三分の一に減ったとはいえ、まだ貴族の数は多すぎる。だが、条件を満たす者は、ほんのわずかにすぎなかった。


――第一に、外戚の力が皇権を脅かすほど強大でないこと。そして、皇后の父となる人物に権力欲がないこと。

――第二に、帝国の皇后にふさわしい聡明さを備え、それでいて貪欲ではないこと。


……ページを繰る指先に、無意識の力がこもる。

難しいというより、むしろ当然の条件だ。数だけは山のようにあるのに、使える者はほとんどいない。

目に入るのは虚飾ばかり、血筋と家名を笠に着た空っぽな器。

書類の文字を追うごとに、胸の奥で冷えた苛立ちがじわじわと広がっていく。


まるで、腐敗(ふはい)した巨体を切り開いた断面を見せつけられているようだ。この帝国は、まだ(くさ)りきったままなのか。


思わず鼻先で吐き捨てるように息が漏れた。

選別を重ねても残るのは、せいぜい四、五人。数百の名を削ぎ落とした果てに、それしか残らない現実に、ユルゲンは深く眉間に皺を刻んだ。

そしてその中に、オブロフ出身の彼女が含まれているという事実は――何を意味するのか。


次期皇后に最も近いと目されるのは――シュレスホルツ侯爵家の令嬢。

学問を好み、内乱の行方を見抜いて父を説得し、アルブレヒト殿下の側につけた才女(さいじょ)……。

今や秘書官にまで抜擢され、その能力も人柄も非の打ちどころがない。

落ち着きと知性を備えた、美貌の持ち主でもある。


……だが。

ユルゲンの指先に、紙が小さく音を立てた。


侯爵家。――その肩書(かたが)きがどうしても引っかかる。外戚(がいせき)。歴史の中で、幾度となく帝国を腐らせてきた病巣(びょうそう)

内乱の功績で侯爵は内務大臣にまで上りつめた。

もし今、娘が皇后にでもなればどうなるか。想像するまでもない。


危険だ。


シュレスホルツの令嬢も、ビドノイバッハ家も同じ。強すぎる外戚など要らない。

――それなら、むしろ天涯孤独(てんがいこどく)の娘の方がましだ。

ユルゲンの視線は、赤い髪を描いた一枚の肖像画に止まった。


だからこそ――あの赤髪の名も、その資料の中に記されていた。

帝国を背負う皇后候補のひとりとして。


オブロフの終身統領オレスキーの娘とはいえ、彼女は庶子。

財産を相続することもできず、両親も『正式に』権利を主張することはできない。

ゆえに、たとえ彼女が皇后となっても――オレスキーが外戚として公に振る舞うことはできない。


だが、その血筋は確かに残る。正妻も正嫡(せいちゃく)もいないオレスキーが、唯一『娘』と認めている存在。

総領の寵愛を受ける彼女を、庶子だからと公然と貶めるのは難しい。

だからこそ、いまの地位にいる。


それに――。

オレスキーは元をたどれば旧王家の傍流(ぼうりゅう)。王統の血を引き、一国の指導者でもある。

彼の娘であれば『身分違いの婚姻』とはならない。


思わず、彼の唇の端に影が落ちた。

意外な掘り出し物だ。いや、むしろ……最良の皇后候補とさえ言えるかもしれない。

これまでの言動から察するに、政治的な勘も悪くない。


帝都に根を張ろうとする過程で――アデルライド皇女や、マティアスの婚約者ゾフィーとお茶会を開いたと聞いた。

ふたりとも大きな影響力を持ちながら、政治的な手腕(しゅわん)は不足している。

だがあの女なら、彼女らをまとめ上げて社交界を動かす一大勢力を築くだろう。


……そういえば。

殿下が最初に彼女へ秘書官の職を勧めたという話を思い出す。

部下から伝え聞いたその会話は、実にふざけたものだった。


『秘書? 私がですか? ……あの、本気でおっしゃってます?』

『……俺の失言だったな』


煙の奥で、ユルゲンの口元にかすかな笑みが浮かび――すぐに消えた。


問題は、その性質だ。あまりに厚かましく、自由奔放で、どこへ転ぶのか読めない。

だからこそ、こうして自分の頭痛の種にもなっている。


紫煙が細く揺れる。

……もし、あの奔放(ほんぽう)さを失ったとしたら。それはもう、自分の知るエカテリーナ・アスナヤポラニャ・イリィチャではないだろう。


まだ何も決まってはいない。

アルブレヒト殿下の真意を測らねばならないし、自分自身も――エカテリーナを、もう少し観察する必要がある。


彼女の心はどこにあるのか。

殿下を拒むような女が、この世に果たして存在するのかと思うが……。

だが、あの女なら――あり得るかもしれない。


窓から吹き込む風に、机の上の書類がまたバサリと鳴った。

そして、置かれていたチョコレートの箱にぶつかり、ひときわ大きくめくれた紙がぴたりと止まる。


ユルゲンはずり落ちかけた眼鏡を押し上げた。


『たまには休んでくださいね。頭を使う仕事には甘い物が一番ですから!』


耳に残るあの声。あまりにもよく喋る女だったせいか、今もなお残響のようにこだまする。


ユルゲンは黙って煙草をもみ消した。そして、無造作にチョコレートをひとつ口に放り込む。

舌に広がるのは、苦い煙草の後味と安い甘さ。相反する二つの味が重なり合う。


……やはり好みではない。

深く息を吐き出すと、残っていた紫煙が窓の外へ、白い(もや)のように流れ出ていった。


机の上には、まだ半分残ったチョコレート。

ユルゲンは指先でひとつ摘み、再び口に入れる。


溶けていく甘さの奥に、さきほどの苦みがじんわりと蘇る。彼は静かに目を細めた。


「……やはり、甘さは長くは残らん」


低く呟くと同時に、引き出しの奥の書類に手を伸ばした。


赤髪の肖像画の下に刻まれた名は――

エカテリーナ・アスナヤポラニャ・イリィチャ。


肖像の笑みは、紙の上なのにあまりにも生き生きと輝いていた。


次の瞬間、机上の蝋燭がぱちりと音を立て、炎が揺れる。

――こうして、帝国の未来を左右する一つの名が、候補名簿に刻まれた。


ここまでが第一巻です。

第一巻の終わりまでお付き合いくださり、心から感謝いたします。

ひとつの名が記されたその瞬間から、帝国の運命は静かに動き始めます。


次巻では、三日間にわたる皇太子冊封式と、

祝宴の光の中、再び彼女の前に現れるエル――。

運命に導かれた再会をきっかけに、

恋と誇りを賭けた三角関係が幕を開けます。


次回、Act0(番外編)でお会いしましょう。

ほんの少しだけ時をさかのぼり――物語の始まりへと続く幕間を。


※Act0の更新後、11月は少しお休みをいただき、

12月より第二巻の連載を開始予定です。


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