第14章. 候補名簿に刻まれた名(1)
現帝国情報部の長官。第七皇子アルブレヒトの参謀。さらに、誰よりも冷酷な男。
ユルゲン・フォン・ヴァイスシュルツを形容する言葉は、他にもいくらでもあった。
何も持たなかった皇子アルブレヒトの才をいち早く見抜き、その影となることを選んだ男。
目の前で数百人が死んでも眉ひとつ動かさず、冷徹な策で勝利を掴ませてきた張本人。
だが――そんな威名も、今は霞んでいた。
執務室の扉をコンコンと軽やかに叩き、悪びれもせず現れた、ひとりの女のせいで。
「こんにちは、ユルゲン! 三日ぶりくらいですよね?」
「……正確には二日半だ」
「細かいなぁ。で、お願いしてたものは?」
ユルゲンは冷気を纏ったまま、分厚い書類を差し出した。
凍りつくような気配に、副官が思わず肩をすくめる。
だが当のエカテリーナは寒国育ちらしく、その冷気を何でもないように受け流しながらページをめくっていった。
「わぁ、さすがユルゲン! すっごく濃い内容ですね」
書類を繰りながら、小さく口笛を吹く。本当に質が高い。お世辞ではない。
――父の情報部に危機感を覚えたのか、それとも競争心でも燃やしたのか。
父の資料についてあれこれ聞いてきたと思えば、今回の書類には社交界の令嬢たちの人物情報に加え、人間関係や嗜好、さらに肖像画まで添えられていた。
やっぱり、頼んで正解だった。
「忙しいのに時間を割いてくれて、本当に助かりました!」
「……自覚があっても、平気で俺にこういうことを頼むのか。まったく呆れた女だ」
「だって、情報はどうしても必要なんですもん。頼める相手なんてユルゲンしかいませんし。
女同士の世界って、想像以上に複雑で大事なんですよ! 私はオブロフから来て殿下の庇護を受けてる身ですし。
そんな私が人間関係で失敗でもしたら……ぜんぶ殿下に迷惑がかかっちゃうじゃないですか」
「……」
「だからこれは、殿下のためなんです。優秀なユルゲンなら分かってくれるって、信じてますから!」
「……」
調子よくおだてながら、言い訳を滔々と並べ立てる。結局は「やりやすいからやらせただけ」という逃げ口上にすぎない。
この女は帝国情報部を――いや、情報部長である自分を何だと思っているのか。
便利屋? それともただの探偵か?
こめかみの血管がぴくりと震え、ユルゲンはエカテリーナを追い払おうとした。
「用が済んだなら、とっとと出て行け」
「えー、せめて『お茶でもどうぞ』くらい言ってくれると思ったのに。やっぱりユルゲンですね」
「そんな無駄なことはしない」
「はいはい、次に期待しますよ。――あ、ほんの気持ちですけど」
エカテリーナが持っていた封筒をすっと差し出す。甘い香りが漂い、ユルゲンの眉が思わずひそまった。
「帝都で一番人気だっていう店のチョコレートです。私、手作りなんてできませんし。仮に作ったとしても、ユルゲンは『毒でも入れたんじゃないか』って疑って食べないでしょ? だから普通に市販のを買ってきました。しかも買ってすぐ来たんですから、何も入れてないってことは、『その場にいる皆さん』が証人になってくれますよ」
「俺はチョコなど食わん」
「でも、少しくらいは口にした方がいいですよ。私の父なんて、頭を使うときは必ず甘い物を口にしてました」
「……」
「父の話じゃ、糖分を補給しないと効率が落ちるんですって。まあ、食べすぎて血圧を心配されてましたけどね。――ユルゲンは痩せすぎなんだから、むしろいっぱい食べた方がいいですよ」
……どれだけ喋る気だ、この女は。
洪水のように押し寄せる声に、ユルゲンは内心うんざりしていた。
そのとき、エカテリーナの蒼翠の瞳がまっすぐ彼の顔を射抜いた。
――ひとかけらの温もりもなく、ただ鋭さだけを宿す瞳。
痩せた頬に浮き上がった頬骨が、その冷たい印象をさらに際立たせている。
こういう男は絶対に仕事ばかりで、食事もろくに取らないタイプだ。食べても少しだけ。
肉気のない顔に、ぎらつく瞳だけ。だから余計に冷たく、恐ろしく見える。
アルブレヒト皇子も仕事中毒で有名だが、この男はそのさらに上を行く。
皇子にはまだ、外に出ざるを得ない行事がある。けれどユルゲンは――会議以外で執務室を出る姿を、誰も見たことがない。眠っているのかどうかさえ疑わしいほどだった。
だからこそ、そんな忙しい男にわざわざ頼んでしまったのだ。
せめて感謝と気遣いを込めて差し出したチョコレート。……けれど、やはり彼には不要だったらしい。
「無駄なことを」
「要らなければ捨てちゃっていいですよ」
「……置いていけ」
「はーい」
エカテリーナはあっさり席を立った。これ以上はさすがに邪魔になると分かっていたからだ。
「じゃあ、私はこれで。お見送りは結構ですからね」
「最初からする気はない」
「あはは、ほんとユルゲンらしいですね。それじゃ失礼します。……五十分働いたら十分休むの、忘れないでくださいね?」
「……」
冷たい無視を浴びせられても、彼女は明るく笑い、軽やかな足音を響かせて去っていった。
ユルゲンは無表情のまま、閉ざされた扉を一度だけ見やり――机の引き出しを開けた。
そこには、先ほど彼女に渡した名簿の続きがある。新たに一名、追加されていた。
視界の端で、机の上に置かれたチョコレートがわずかに目に入る。
「……片づけますか?」
副官が恐る恐る声をかけた。その瞬間、氷刃のような視線が突き刺さる。
「っ……」
もう何か月も仕えてきたのに。表情の変化を一切許さないその瞳に見据えられると、どうしても背筋が粟立つ。
けれどユルゲンは咎めもせず、ただ短く言った。
「……置いておけ」
沈黙が落ち、副官は命令を口実にそそくさと退室する。残されたユルゲンは、淡々と書類を読み進めていった。
――慣れきった光景。恐怖、嫌悪、警戒。誰もが自分をそう見る。
だがユルゲンにとっては、取るに足らない。
同じ思考を繰り返す人間に反応してやる必要などない。ただそれだけ無駄だからだ。
けれど――彼女だけは、ほんの少し違っていた。
『まったく、図太くて厚かましい女だ』
それは主君と同じ評価。
書類の最後を確認したユルゲンは、無駄のない動作で立ち上がり、煙草をくわえる。
帝国に来てからの彼女の図々しさは、十分承知していたつもりだった。
だが、それも氷山の一角にすぎなかったらしい。今やその厚かましさは、堂々と自分にまで及んでいる。
先日は屋敷や使用人の手配を当然のように押しつけてきた。
今日は社交界の有力令嬢たちの情報を持ち去った。
――その鉄面皮、どこまで続くのか。
誰もが恐れて近寄らない自分を、平然と利用し、軽口まで叩いていく胆力。
国外から来た女だというのに、監視や弱みを握られる危険など、まるで意に介さない。
「いや……あの女なら、逆に全部承知の上のはずだ」
オブロフの統領、オレスキー。腹の底に幾重もの蛇を潜ませている――そう噂される男。
その娘である以上、髪や瞳の色だけでなく、あの肝の据わり方まで血筋なのだろう。
本人を見たことはなくても、ユルゲンには確信があった。
「……ふう」
紫煙を吐き出すと、風にあおられて書類がぱらぱらとめくれる。
最後の一枚がめくれ上がり、赤い髪の肖像画が現れた。
お読みいただきありがとうございます!
ユルゲン、冷徹で怖そうな人ですが、エカテリーナ相手だと少しペースを崩されてしまうようです。
次回は、ユルゲン視点から一転して、帝国の“裏側”が少しずつ動き出します。




