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第13章. 淡雪が告げるもの

灰色の空からは、雪に近い雨が降っていた。

朝の雲と(きり)に覆われた庭園。アルブレヒトはあの声を振り払うように歩を速めた。

傘を叩くのは、雪とも雨ともつかぬ細かな粒だった。


『――エルを探しているんです』


その声が、何度も胸の奥で反響した。


『ここで一年くらい働いて、旅をしながら探そうかと。――もう殿下もわかりますよね? 私が一つ所に腰を落ち着ける性格じゃないって』


彼女が嵐のような女だと、分かっていたはずだ。

だが――彼に会えたらどうするつもりなのか。


喉までこみ上げた問いなのに、声は出なかった。

みっともなく聞こえるのが嫌だからか? それとも……。


冷たい空気が胸に広がり、吐く息が痛いほどだった。アルブレヒトは思わず足を止めた。


人けのない庭園のガゼボ。無造作(むぞうさ)に垂れた赤い髪が、淡い霧の中でも鮮烈だった。


「……イリィチャ?」

「おはようございます、殿下」

「……なぜ朝から雪に打たれている。寒くはないのか」


エカテリーナは肩をさらしたまま雪を受けていた。

白い肩を伝う水が、薄衣(はくい)を濡らしていく。答える気がないかのように、彼女はただ微笑んだ。


アルブレヒトはため息をつき、歩み寄った。濡れた姿を無視できるほど、不作法ではなかった。


「何をしていた」

「空を見ていたんです」

「何も見えない空を、なぜ」

「霧が、好きなんです。雪も好きですし。殿下こそ早起きですね」

「目が覚めただけだ」


マントを脱ぎ、彼女の肩にかけた。冷たい肌に手が触れた。

濡れて柔らかな感触が伝わる。布越しに浮かぶ体の線に、アルブレヒトの喉が大きく上下した。


「……冷えているな。どれほどここにいた」

「さあ、分からないです」


自分の息が乱れているのを悟った。

アルブレヒトは必死に意識を逸らしながら、マントをきちんと閉じた。危うい姿が隠れて、ようやく息がつけた気がした。

だが、勝手に跳ねる心臓は収まらなかった。


「風邪をひくぞ」


傘をさした。雪とも雨ともつかぬものが、さらに強くなった。

自然と二人の距離は縮まり、手を伸ばせば抱き寄せられるほどの近さで止まった。


どれほどそうしていたのか。エカテリーナの青翠の瞳は彼を通り過ぎ、肩に積もる雪へと落ちた。

――そっと、傘を握る彼の手に、彼女の手が重なった。


「殿下まで濡れてしまいますよ」


アルブレヒトは息を呑む。血が全身を駆け抜ける。心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いた。


「……寒くはないのか」

「殿下が来てくださったから」

彼の肩に頬を寄せ、首に腕を回す温もり。

アルブレヒトは硬直した。暖かい吐息が耳と首筋をくすぐる。


――思わず、その頬に口づけた。心臓が狂ったように暴れた。

震える睫毛が頬をかすめるたび、蝶を捕まえたい衝動が沸き上がる。

危険な衝動を必死に抑え込みながら、必死に唇を離す。すると、彼女はくすりと笑った。


「私は……できれば唇の方がよかったのに……っ!」


……必死に抑えてきたのに。もう抑えきれなかった。アルブレヒトは彼女の唇を奪った。


舌が絡む。逃げられぬよう強く抱き締め、口内をむさぼる。

腕の中で暴れる感触が、そのまま伝わってくる。

背筋を駆け上がる、どうしようもない激しい衝動(しょうどう)


――俺は……俺が求めていたのは、これだったのか。


「殿下……名前を、呼んでください」


惜しくも離れた唇の間に、透明な糸が細く伸びた。赤く濡れた唇が艶やかに開いていくのを見つめ、彼は荒く息を吐いた。

指を絡めて逃がさぬように閉じ込め、下唇を吸い上げる。


――自分を惑わせ、壊していく……救い。


「エカ……テリーナ」


柔らかに弧を描く紅の唇を。むさぼった。

苦しいほどに、甘い。


――そして、目を開いた。


「……っ」


蒼紫(そうし)の瞳が衝撃に揺れ、大きく見開かれていた。


「……な、何だこれは……」


アルブレヒトの喉は荒い息に焼けつくようだった。心臓はまだ胸を突き破るかのように荒々しく脈打っていた。

唇には熱が残り、指先には濡れた肩の感触がこびりついていた。

夢――そのはずなのに、あまりに生々しい。


「……夢だ。……くだらん」


吐き捨てるように呟いた。だが胸の奥で鳴る鼓動は、収まらない。

今も耳の奥には、あの声が木霊している。


――殿下……名前を、呼んでください。


「……!」


喉が勝手に震えた。

名を呼んでしまった瞬間。赤く濡れた唇。首筋を撫でた吐息の熱。その一つ一つが焼き付いて離れない。

彼は思わず両手で顔を覆った。心臓の鼓動を隠すように。


「……馬鹿げている。なぜあんな、くだらない夢を……」


強く否定しても、胸の熱は冷めなかった。

むしろ繰り返すほどに、衝動は鮮明になる。


彼は視線を逸らし、窓へと向けた。

夜のあいだに霜でも降りたのだろうか。曇天の空には冷え冷えとした気配が漂っていた。


……夢を思い出させる色。現実と幻が重なり、胸がざわめいた。


アルブレヒトは額に手を当て、深く息を吐いた。己を嗤うかのように、唇が歪んだ。


「……昨日の練習が影響したのか……。それにしても、悪趣味(あくしゅみ)な夢だ。

よりによって俺が、あの女となど……あり得ん」


断じた声は、かすかに震えていた。白い肩に降りかかった雪が、なぜか今も脳裏を離れない。


――違う。あれは、俺じゃない。

そう繰り返しても、胸の熱は収まらなかった。


外の冷気を振り払うように、アルブレヒトは執務室へと足を運んだ。





***



「各国の使節を迎える準備は、どう進んでいる? デザート用の柑橘の調達に、支障が出ていると聞いたが」

「それが……ミュント地方の物流に遅れが生じておりまして。現在、最大限催促しておりますが……」

冊封式(さくほうしき)まで残り二十日だというのに、まだ解決していないのか? 卿らは、一体どこまで無能になれば気が済むのだ」


元の高位官僚たちは、先の内乱で立場を誤ったせいでことごとく粛清(しゅくせい)された。

そして下級官吏が繰り上がって今の席に座ったと聞く。

皆まだ職に慣れず、どこか落ち着きなく振る舞っていた。

――だが帝国も、アルブレヒト皇子も、それを待ってやる余裕はなかった。


「申し訳ございません!」

「あるいは、この機会に俺の顔に泥を塗りたいのか?」

「そ、そんなはずは決して……!」


今日のアルブレヒト皇子は、日に日に冷え込む天気よりもなお冷たかった。

リューネの日にあのようなことがあった以上、皇太子冊封式では一片の瑕疵(かし)も許されない。全力を注がねばならないのは分かってはいるが……


怖い……本当に、怖い。


「今日は殿下のご機嫌が優れないな」


そう囁いたのはマティアス。与えられたわずかな休憩時間のことだ。

私も小さく頷いた。


「……今日、特に私に機嫌が悪い気がする。気のせいかな? さっきも、すごく冷たかった」

「そうか? おまえが何かやらかしたんじゃないのか?」

「いや、何も」


緊張で背筋を伸ばしていたキルステンも口を挟んだ。


「よく思い出してみろよ。自分でも気づかないうちに、何かやったんじゃないか?」

「そうだ。きっと何かやったに違いない」

「いや、本当に何も!」


……私の信頼は一体どこに? あれほど必死に働いているというのに!


「殿下との接点といえば……、今日の昼食後に少し。あまりに疲れて、庭で居眠りしていたのを見つかったくらいだよ」

「ほら、やっぱり」

「……ちょっと待て。午後の業務前に、少し眠気を補っただけだよ。それがそんなに悪いこと?」

「皇城ノイエ・ヴィスルイゼンで昼寝なんて。普通の人間には到底できない真似だな」

「もちろん失礼だってことは、分かってる。でもここ数日、本当に無理してたんだ。明後日の舞踏会の準備すら、まだろくに手をつけられていない」

「妙だな……本当にそれだけなのか?」


私の言いたいことも、それだ。

どうしてこんなに冷たいんだろう。まさか、本当に私が知らないうちに何かやらかした……とか?


男たちならともかく、女の私が皇城で部屋をひとつ占領して昼寝――良く思われるはずがない。

だからここ数日、こっそり抜け出して――いや、勇敢に探索して。

ようやく人がほとんど訪れないガゼボを見つけて、ここならバレないで休めると思ったのだ。

ほんの一瞬、目を閉じただけだったのに。気づいたら眠りに落ちていた。


そのとき殿下が険しい顔で現れて、私を起こした。「不用心すぎる」と、そう叱られて。

……殿下だって、一人で庭に来ていたくせに。


思わず口を尖らせる。理由なんて、結局分からないままだった。

顔色まで強ばらせて、ぜったい目を合わせてくれない。


今もそうだ。視線が交わるたび、なぜかぎこちなく逸らされる。


――仕方がない。ここは心の広い私が堪えるしかない。

息を呑み込み、肩をすくめる。


――少しは親しくなれたと思ってたのに。どうやら勘違いだったらしい。

やはり私は、この古めかしい帝国とは相性が悪いのかもしれない。


「ロイトンの使節団の名簿は確定したか」

「はっ! 使節団を率いる特使には、グリウェンスフォード公爵が決まったとのことです」

「……グリウェンスフォード公爵? ロイトン南東部の大領主ではないか。せいぜい傍系の王族が来ると思っていたのに」

「入った情報によれば、公爵本人が自ら帝国行きを志願したとか」


アルブレヒトの瞳が冷たく沈む。


「ロイトンの六大領主の中でも、最も強い軍事力を持つ男だ。軽々しく扱える相手ではない」

「御意。突如頭角を現し、公爵位を狙う傍系筋(ぼうけいすじ)を退け、公爵の座に就いた男です。侮れません」

「……彼については、さらに徹底的(てっていてき)に調べろ」

「はっ!」


ふうん。ロイトン王国の事情はよく知らないけれど……どうやら大物が来るらしい。


重苦しい空気の中で、私ひとりだけがそんなことを考えていた。

次は本当にロイトン王国に遊びに行ってみようかな。

それなら、今回来る使節団とも、先に良好な関係を結んでおいた方がいいだろう。


――こうしてようやく会議は終わった。

殿下の厳しい気配から解放された人々は、潮が引くように散っていく。


私も大きく頭を振り、椅子から立ち上がった。

落ち込んでいる暇はない。準備をしなくては。せっかく楽しみにしていた舞踏会なのだから。


――あ、その前に。『受け取らなければならないもの』があったっけ。


お読みいただきありがとうございました。


抑えきれない想いと、否定しようとする理性。

その狭間で揺れるアルブレヒトの姿を書きました。

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