第12章. 残業のワルツ(3)
――そして、ワルツは終わりを迎えた。
「まあ……二人とも、ずいぶんと慣れてきましたわね」
アーデルライド皇女が、舞を終えた二人を見つめて微笑んだ。
その声音には、確かな賞賛が込められていた。
「お見事でした。殿下の動き、もう『戦闘訓練みたい』なんて言えませんね」
さらりと添えたエーリヒの一言に、アルブレヒトの眉がぴくりと動く。
「……っ。余計なことを言うな」
短く吐き捨てるような声。エーリヒは笑いをこらえきれず、わずかに肩を揺らした。
アーデルライド皇女はそんな二人のやり取りを受け流し、穏やかに話題を変えた。
「ふふ……そろそろパートナーを替えてみましょうか」
皇女がそう提案すると、場は自然と動き始めた。アルブレヒトは姉の前に進み、恭しく一礼。
エカテリーナもまた、エーリヒに向き直り、軽く裾を摘んで礼を返した。
新しい舞が、また広間に描かれようとしていた。
エーリヒと向かい合い、軽く礼をしてステップを踏み出す。
リズムに合わせて舞いながら、彼がふと口を開いた。
「……こうしてあなたと踊るのは初めてですね。本来なら――リューネの日に、ご一緒するはずだったのに」
その言葉に、エカテリーナは一瞬だけ瞳を伏せる。
けれどすぐ顔を上げて、あえて明るく笑みを浮かべた。
「そうですね。――でも、こうして無事に笑って踊れているなら、それで十分です」
「……再び命を救っていただいたこと、やはり感謝せずにはいられません」
「もうっ、いい加減にしてください。感謝も謝罪も、何度聞いたことか! 私にはもう、十分すぎるくらい伝わっていますから」
口ではそう言いながらも、二人の視線が重なった瞬間、自然と笑みがこぼれた。淡く、やわらかな微笑み。
恋ではなく、確かな絆を感じさせる――友の笑顔だった。
その様子を、少し離れたところから見ていた二人。
静かに舞いながら、アーデルライド皇女が弟に囁くように声をかける。
「……気になりますか?」
「何のことでしょう、姉上」
淡々とした答え。
けれど、その瞳がほんの一瞬だけエカテリーナへと揺れたのを、皇女は見逃さなかった。
「本当に……ありがたい方です。イリィチャ令嬢がいなかったら……、今こうしてあなたと手を取り合い、舞を練習することもなかったでしょう」
アーデルライド皇女の言葉は、やわらかくも確信を帯びていた。
アルブレヒトは答えず、ただ一度だけエカテリーナの方へ視線を向け、すぐに舞のステップへと意識を戻した。
***
再び組み直された二人のステップは、先ほどよりもずっと滑らかだった。
ぎこちなさは薄れ、呼吸も自然に合っていく。
そんな中で、エカテリーナがふっと口を開いた。
「昼間も死ぬほど働いて、勤務のあとまで無給で殿下のお相手を務めるなんて……私、健気だと思いませんか?」
わざとらしく肩をすくめ、冗談めかした声色。軽いからかい――のはずだった。
だが返ってきたのは、思いのほか真剣な声音だった。
「無給でこき使うつもりはない。……望むものがあれば、与える」
「えっ……?」
思わずエカテリーナが瞬きをする。アルブレヒトは視線を逸らさず、淡々と続けた。
「ブローチか? 腕輪か?」
口に出した途端、彼の頭の中では次々と贈り物の候補が浮かんでしまう。
――彼女には、どんな宝石がふさわしいだろう。
夜明けの空を思わせる青緑の、パライバトルマリン。あるいは、深紅のルビー。
気づけば、自分が贈った飾りを胸元に輝かせ、舞踏会に現れる彼女の姿まで思い描いていた。
あまりに鮮やかなその光景に、胸が妙に熱く、息が浅くなる。
足取りはリズムに合わせて正確なはずなのに――鼓動だけが妙に速く、拍を外していた。
「い、いえ! 今のはただの冗談です!」
エカテリーナが慌てて声を上げる。
「そもそも私は、十分にお給料をいただいてますし……!」
アルブレヒトは短く息をつき、しかしあくまで真面目な調子で言葉を返した。
「皇宮の倉庫には、今回の内戦で押収した品が溢れている。――使い道に困るほどだ。望むなら、その中からでも構わん」
「っ……!」
エカテリーナの胸に、一瞬だけ揺れるものがあった。
……正直、少しは欲しいと思った。
けれど彼から贈られた瞬間、どんな噂が立つかわかったものではない。
……殿下の『愛人』扱いなんて、絶対にごめんだ。
そう思えば、自然と首を横に振っていた。
「お気持ちだけで十分です。本当に。――その代わり、休みをください!」
わざと明るく言い放ちながら笑みを取り繕う彼女に、アルブレヒトは黙って視線を落とす。
舞のリズムは崩れなかった。けれど胸の奥には、どうしようもないざわめきが広がっていた。
――断られただけなのに、なぜ……。
その理由は、自分でも掴めなかった。ただ彼は、彼女の手を握る力だけを、ほんのわずか強めていた。
***
練習用の広間には静けさが漂っていた。
最初から音楽はなく、互いの拍を合わせるだけの稽古。それでも時間は過ぎ、燭台の炎は短くなり、影が床に伸びている。
アーデルライド皇女が裾を軽く払って、やわらかく声をかけた。
「そろそろお休みにいたしましょう。――もうすっかり夜も更けましたもの」
その言葉に、自然と全員が小さくうなずいた。気づけば外は深い闇に包まれていたのだ。
皇女は優雅に一礼し、口もとに微笑を浮かべる。
「そうですね……。エーリヒ、送ってくださいますか?」
「はい。私でよろしければ、よろこんで」
彼は恭しく頭を下げ、それからアルブレヒトとエカテリーナにも視線を向けた。
「殿下、エカテリーナさん。――本日はお疲れさまでした」
二人に礼を述べ、軽く会釈してから皇女の後へと続いた。
――扉が閉じられると、広間には二人きりの静けさが残された。
エカテリーナは深く息をついた。
――ようやく、終わった!
足の先から肩までじんわり疲れが広がり、今はもう、早く帰って眠りたいことしか頭にない。こんなに頑張ったのに、また明日も仕事だなんて……!
そのとき、不意にアルブレヒトの静かな声が落ちてきた。
「……そういえば、舞踏会の相手は見つけたのか」
まるで、何気ない一言のように聞こえた。エカテリーナは肩をすくめ、軽い調子で答えた。
「誰かさんが仕事ばかり押し付けるせいで知り合いも少なくて……仕方なくフランツにお願いしました」
彼女は冗談めかしてみせたが、事実でもあった。
――まあ、フランツなら『一番無難なカード』ってところよね? 絶対あの蛸大使とは行きたくないし。
「……そうか」
アルブレヒトは平静を装い、短く返す。
だが胸の奥に、理由もなくざらつく違和感が残った。説明のつかない、不快なざわめきだけが。
エカテリーナは軽く裾をつまみ、形だけの笑みを浮かべた。
「それでは……私はこれで失礼いたします」
彼の返事を待つこともなく、足早に扉の方へ向かった。――まるで「これ以上の残業はご免です」と言わんばかりに。
一刻も早く屋敷へ戻りたい、その気配を隠そうともしない背中だった。
振り返ることなく姿を消し、重い扉が閉じられる音が広間に落ちた。
静寂。残されたのはアルブレヒトただ一人だった。
しばらく立ち尽くしたのち、彼はゆっくりと窓辺に歩み寄る。
夜空を仰げば、漆黒の闇に無数の星が散りばめられていた。
手を伸ばしても届かない、あまりに遠い光。
その冷たさと煌めきは、ただ黙って彼を見下ろしていた。
アルブレヒトは長く息を吐き、胸の奥のざわめきを押し殺す。
拳を握りしめ、表情変えぬまま背を翻した。
広間に響くのは、彼の足音だけ。
やがてそれも遠ざかり、静寂と――届かぬ星の光だけが残された。
お読みいただきありがとうございました。
次回、彼の“抑えていたもの”が顔を出します。
どうぞ心の準備をしてお読みください。




