第12章. 残業のワルツ(2)
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二人のワルツは静かに始まった。
落ち着いた旋律に合わせ、足取りは正確に刻まれていく。
アルブレヒトの顔はいつものように冷静な無表情。
だが、その肩や指先にはわずかな緊張が滲んでいた。
――失敗は許されない。
その思いが、必要以上にきっちりとした動きとなって表れていた。
そして――。
エカテリーナは、至近距離で顔を合わせた瞬間、反射的に視線を逸らした。
……ううっ、やっぱりまぶしすぎる!
整った顔立ちに加えて、白金の長い髪が灯りをはね返し、まともに直視するのも大変だった。
「……あの、殿下? 仮面をつけて踊るのって、どう思われます?」
あまりに突拍子もない言葉に、アルブレヒトは思わず瞬きをする。
「……どういう意味だ」
「いえ、その……昼から酷使した目がもう悲鳴を上げてて。近すぎて、正直つらいんです」
エカテリーナは小さな声で必死に弁解した。だがアルブレヒトは半ば呆れたように目を細め、淡々と切り捨てた。
「馬鹿なことを言うな。集中しろ」
「はーい」
ワルツは続いていく。拍子に合わせて一歩、交差、ターン。
リズムに合わせて踏み込む足取り。背筋はぴんと伸び、握られた手からはわずかな硬さが伝わる。
彼の瞳には、舞を楽しむ色はなく、ただ「一歩たりとも間違えない」という思いだけが宿っていた。
アルブレヒトの動きは、まるで寸分の狂いもないようだった。姿勢は端正、腕の角度も完璧。
だが――その正確さは舞の優雅さよりも、訓練場での剣の型を思わせるほどだった。
エカテリーナは心の中で小さく舌打ちした。
……うん、これは。どう見ても舞じゃないけど?
エカテリーナは堪えきれず、顔を上げてつぶやいた。
「……殿下。正直に言ってもいいですか?」
「なんだ」
「その……その……これ、舞というより戦闘訓練の動きに見えるんですけど」
「……!?」
きっぱりと言い切った瞬間、隣で見守っていたアーデルライド皇女殿下が口元を押さえ、
エーリヒもまた肩を震わせていた。
二人が必死に笑いをこらえる様子が目に入る。
エカテリーナは、あ、やっぱり皆そう思ってたんだ、と確信してしまった。
「……っ」
アルブレヒトは一瞬、言葉を失い、わずかに眉を寄せて唇を固く結んだ。
ステップは乱れなかった。だが、その耳のあたりに、かすかな赤みが差したのを誰も見逃さなかった。
顔から笑みを消しきれないアーデルライド皇女殿下が、そっと口を開いた。
「……ふふ。では、もう一度やってみましょうか」
「……わかりました」
二人はもう一度、踊りの姿勢を整える。エーリヒが拍を数え直し、ワルツがまた流れ出した。
最初こそエカテリーナの動きは、たしかにぎこちなかった。――なにしろ異国の舞踏であり、しかもどこか 古風で扱いづらい型だ。難しいばかりで、今の洗練された舞踏とは比べようもない。
それでも、オブロフで『社交界の女王』とまで謳われた彼女である。ほんの少し習えば、すぐに形を整えてしまうのは当然だった。
ターンを何度か繰り返すうちに、身体は自然と拍に馴染み、感覚のままに舞い始める。
――そう、舞は単なる動作の連なりではなく、感覚そのもの。
足が拍子に乗れば、動きは水の流れのように繋がっていく。
そしてエカテリーナは、楽しげに微笑んだ。
一方のアルブレヒトは、依然として『正確さ』を最優先に、一つひとつの動作を乱すまいと力を込めていた。
先ほどよりは舞らしく形を整えようとしていたが――。
その瞬間。
「……っ!」
彼の靴先がわずかにずれ、エカテリーナの足を踏みつけてしまった。
――ぎゃあ痛いっ!!
心の中で悲鳴を上げながらも、彼女は必死に顔を引きつらせた。
「すまない。大丈夫か?」
「……なんともありません」
表情はかどうにか取り繕えたが、踏まれた足からはじんと痛みが走っている。それでもエカテリーナは、 崩れそうになる笑みを必死に堪えた。
アルブレヒトはその反応に気づいた。胸の奥で、不意に強く脈打つものがある。
――なぜだ?足を踏んでしまったからか……?
動揺した彼は、その鼓動を「ただの恥ずかしさ」だと思い込もうとした。
アルブレヒトの胸の鼓動はまだ速いまま、収まらなかった。
それでも彼は視線を逸らさず、次の一歩を正確に踏もうとする。
だが――その硬さはまた、ぎこちなさを生んでいた。
足取りは揃っているのに、舞の流れはどこか途切れがち。
まるで鋭利な刃を振るうような緊張が、全身からにじみ出ていた。
エカテリーナはそんな彼を見上げて、柔らかな声を落とした。
「殿下、舞は……流れるようなものです。歌うように、そして――自由に」
その言葉は、静寂を破る。
彼の指の温度が、ほどけていく。握るだけだった手が、そっと触れてくる。
彼女の青緑色の瞳は真っ直ぐで、「型に縛られないで」と告げていた。
一瞬、アルブレヒトの目が見開かれる。
今まで誰からも言われたことのない言葉。胸の奥で、長く閉ざしていた扉がきしみを上げた気がした。
一歩。
彼女に導かれるまま踏み出したその足は、もう先ほどまでの硬さを帯びていない。
小さな手に引かれるまま、彼の動きはわずかに変わり始めた。
力を込めすぎていた肩が自然に下がり、呼吸がふっと楽になる。
張り詰めていた糸がほどけていく。
――これは、何だ?
エカテリーナはふっと微笑んだ。
「……そう、今の感じです」
自分でも知らなかった感覚。
ただ足を運んでいるだけなのに、胸の奥が解き放たれていく。
まるで長い牢獄の扉が、ようやく軋みを上げて開いていくような。
アルブレヒトは困惑しながらも、初めて『自由』に動ける自分を意識していた。
「……自由……そうか。その言葉は……君に似ているな」
ぽつりと漏れたアルブレヒトの声は、彼自身も驚くほどに柔らかかった。
エカテリーナはくすりと笑みを浮かべ、軽い調子で返す。
「私の血には、どこかジプシーの血でも混ざっているのかもしれませんね。だから、こんな瞳の色なのかも」
冗談めいた言葉だった。だがアルブレヒトは、その通りかもしれないと思った。彼女はあまりにも自由で――掴もうとしてもすり抜けていく風のように。
「……」
アルブレヒトは何も言わず、ただ彼女の手を握り直す。
リードされるまま、彼の動きは次第に変わっていった。
硬さが消え、肩が自然に落ち、足取りは水面をなぞるように柔らかく滑り出す。
二人の呼吸が重なる。これまでぎこちなく絡まっていた動きが、ひとつの流れとなって溶け合っていく。
互いに目を合わせることなくとも、確かに相手の鼓動を感じながら――
お読みいただきありがとうございました。
不器用で、どこか不自由だったアルブレヒトが、
初めて“自由”を感じた瞬間を描きたくて書きました。




