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第12章. 残業のワルツ(1)

……なんで私、ここにいるの?


せっかく日が沈む前に仕事が終わって、ばんざいしながら帰れると思っていたのに。

扉の先では皇女殿下の侍女(じじょ)が待っていて、そのまま流れるように連行され――

気づけば紅茶とケーキ。

……もう逃げ場なんてなかった。


――でも、ですよ?

なぜ勤務時間後(きんむじかんご)にまで、職場の上司と顔を合わせなきゃいけないんですか?

エーリヒはまた会っても嬉しいから、まあいい。

問題はあの『仕事中毒皇子様』だ。


案の定、殿下は眉間(みけん)にしわを寄せ、見るからに機嫌が悪そう。

その弟を、アーデルライド皇女殿下が

やわらかく、しかし有無を言わせぬ声音でたしなめた。


「アルブレヒト。舞踏会をお嫌いなのは存じています。

けれども今回は、必ず出席していただかねばなりません」

「……姉上」


「最初の一曲を踊るのはあなたです。

百年前に作られた古いワルツ。難しい舞を、練習もせずに臨むおつもり?」


完全なる正論。正論すぎて反論の余地ゼロ。

姉には勝てない皇子は黙り込んでしまった。


……で、皇女殿下? 私はそろそろ帰宅を――。


そう思った矢先、皇女殿下はこちらに視線を向けてきた。

しかも、微笑みながら。


――あ、これはもう逃げられないやつ。


「イリィチャ令嬢も舞踏会に出席なさいますよね。

帝都の舞は初めてでしょう? でしたら一緒に練習しておいた方がよろしいかと」

「ええ、まあ……そうですけど」

「エーリヒもまだ古い舞を練習していないと聞きました。

私が教えられるのは一人だけ。――ですから、イリィチャ嬢にもぜひお手伝いいただければ」


……ぐっ。完璧な理屈(りくつ)の押しつけ。


ケーキまでごちそうになっておいて、「別にいいです」なんて言えるはずがない。

しかも横を見ればアルブレヒト殿下の鋭い視線。

さらにエーリヒも「お願いできますか」とでも言いたげに、にこりと微笑んでくる。


……はい、詰みました。


「わ、私でよければ。――時間外労働ですけど……いえ、なんでもありません」

「ありがとうございます、イリィチャ令嬢。本当に、あなたに頼めて助かりました」


満面(まんめん)の笑みを浮かべる皇女殿下。

あの、その微笑み、なぜか少し気になりますけど……?


「みな基本のワルツくらいは知っていますから、実際に踊って覚えるのが一番でしょうね。では、パートナーは――」


アルブレヒト皇子が即座に答えた。


「エーリヒ。お前が姉上と組め」

「……はい」


――なるほど。さっきあんなに仏頂面だったのに、断らなかったのはそのためか。

……まあ、それなら納得。


私が心の中でうなずくと、皇女殿下はふわりと笑みを浮かべた。


「ではアルブレヒトの相手は……イリィチャ令嬢にお願いしてもよろしいですか」

「微力ながら、努めさせていただきます」

「――では参りましょう。練習用の広間を手配してあります」


エーリヒがなぜか微笑んだ。

『アルブレヒト殿下の半径三メートル以内には絶対近づかない』という、

私の固い誓いがまた破られる。

きっとそれを面白がっているに違いない。


――ていうか、エーリヒ……?

いつの間に練習ホールまで押さえてたんですか!?



***


夜の静かな皇宮。

豪奢な正規の舞踏会場ではなく、こぢんまりとした練習用の広間(ひろま)だった。


集まったのは四人。私と皇子殿下、エーリヒ、そしてアーデルライド皇女殿下。

――まさか残業のあとに舞まで踊る羽目になるとは。


最初の組は、皇女殿下とエーリヒだった。

殿下は一歩踏み出すたび、優雅に手を伸ばし、軽やかに導く。


「エーリヒ、もう少し肩を落として。そう、そのまま――足の運びは遅れず、けれど急ぎすぎないで」

「はい」


柔らかな声に従い、エーリヒの動きはすぐに形を整えていく。

アーデルライド皇女殿下とエーリヒの舞は、一歩ごとに息がそろった。

まるで最初から決められていたかのように、自然な調和を生み出していた。

拍子を重ねるごとに、呼吸はぴたりと合い、二人の姿はまるで鏡のように調和していた。


ほんの数分で、広間には軽やかな旋律と共に、気品ある舞が描き出されていく。


――なぜこんなにも、美しく見えるのだろう?


答えは簡単。

二人が互いを思いやり、互いのために動いているからだ。


大切にしたいと思う気持ちがあるから、こんな舞になるんだ。

胸の奥がじんわり温かくなっていく。知らず知らず笑みがこぼれていた。自分でも意外なくらい、嬉しくて。


「……なぜ、そなたが満足そうに笑う?」


隣から響く声に顔を向けると、

アルブレヒト殿下がまっすぐこちらを見つめていた。


「だって、この光景が見られるだけで、十分に満たされますもの。――帝国に来て本当によかったです」


言葉を口にした瞬間、青と紫が溶け合う瞳が優しい温もりを湛える。

そして沈黙のまま、ただ私を見つめ続ける。

逃げずに、私もまた彼を見返した。


「殿下も、そうお思いでしょう?」


わずかな沈黙ののち、そして短く、噛みしめるように。


「……ああ」


短くそう答えたきり、殿下はそれ以上言葉を続けなかった。

私もまた黙り込み、ふたり並んで広間の中央に舞う二人を見つめる。


音楽に合わせて回るアーデルライド皇女殿下とエーリヒ。

完璧にそろったステップが、燭台(しょくだい)の光を受けて影となり、床に流れていく。


私たちの視線はただ前へ――舞う二人に注がれていた。

会話は途切れたまま。けれど、妙に自然に私たちは並んで立っていた。

互いに言葉を探さずとも、目の前の舞だけを共有している。

あの二人が幸せになれますように――ただそう願った。


やがて旋律が終わりを告げる。

アーデルライド皇女殿下とエーリヒは、最後の一歩をそろえて舞を締めくくった。


裾を翻しながら、互いに礼を交わす姿は実に見事。

広間の空気まで澄みわたったようで、思わず見入ってしまうほどだった。


「ご覧になりまして?」


皇女殿下が優雅に微笑み、こちらに視線を向けてくる。


「それでは――次はお二人の番ですわ」

「……承知しました」

「は、はい」


促され、私は殿下とともに中央へ。

向かい合った瞬間、息が詰まる。差し出されたその手を取るだけで、どうにも肩に力が入ってしまう。


至近(しきん)で見上げれば、殿下の整った顔立ちが真正面にある。

……いや、これは近すぎる。あの容姿は、もっと遠目に眺めるべきものなのに。

『美術館で数メートル離れて鑑賞する作品』ですよ、これは!


少なくとも、残業延長みたいな状況で至近距離でじっと見つめるものじゃないでしょう。


「……では、僕が数えます」


控えめな声がした。エーリヒだ。軽く手を掲げ、(はく)を取るように口を開く。


「アイン……ツヴァイ……ドライ!」


その声に合わせ、私は殿下の手を握り直し、どうにか笑顔を作って一歩を踏み出した。


お読みいただきありがとうございます!


まさかの残業ワルツ、お疲れさまでした……!

次回はいよいよ本番、殿下とエカテリーナのワルツです。

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