第11章. 皇子の心が揺れた夜(2)
「……最後の一言さえなければ、完璧に感動的だったのにな」
マティアスの小さな呟きが、耳に届いた。
「エカテリーナさん……。人々から誤解を受けただけでなく、父上の怒りまで買ってしまったのなら……。あなたが失ったものは、あまりに多いはずです」
「そうだな。エーリヒも、俺も――結局『エル』ではなかったのだから」
雰囲気がまた重くなってきた。……私、本当に平気だけど? どうして誰も信じてくれないんだろう。
視線を落とすと、短くなった蝋燭。流れ落ちた蝋が固まって、不思議な模様を描いていた。
「ねえ、エーリヒ」
「……はい?」
「あなたに会って、エルじゃないと知ったとき。……悪い言い方になるけど、本当に迷ったんです。あなたたちを助けるには、それなりの代償が必要でしたから」
「それは……当然のことです」
「でも、私は動いた。そして――」
私はエーリヒの胸元を指さす。
「そんな気にさせたのは……、あなたの力です」
そう言って、私は声を上げて笑った。
「殿下は、私のことを本当に嫌っていらっしゃるみたいですからね。わざとやったんですけど……ちょっと、むっとしそうになりましたよ?」
「そ、それは!」
「図星ですよね?」
「……」
「皆さん、誤解しないでください。私、そんなに崇高な犠牲精神なんて持ってませんから。ただ、お二人を見て――価値があると思ったから動いただけ。だから、胸を張ってください」
***
陳腐な「命は皆尊い」とか「あなたのせいじゃない」なんて言葉は、一切なかった。
ただ――エカテリーナは、眩しいほどに笑ったのだ。
さらりと流れる光が、揺らめく炎に映えて、誰もがその翠玉の瞳に惹きつけられる。
鮮やかで……どこか挑むように艶めいて。首筋を這い上がり、舌先を乾かすような渇きを呼び覚ます。
フランツは思わず喉を鳴らした。――やはり思う。彼女の冴え渡る翠の眼差しは、見る者に忘れ難い刻印を残すのだ。
アルブレヒトは、その瞳に潜む得体の知れない危うさに、思わず胸をざわつかせた。
……不快なはずなのに、視線が外せない。深みへと吸い寄せられるようで、唇を固く結び、必死に抗う。これ以上は惹かれたくないのに。
だが、エカテリーナの青録眼はさらに柔らかく弧を描き、今度は彼を絡め取るように正面から見返してきた。
「でも、殿下?」
「……話してみろ」
少し間を置いた低い声が、アルブレヒトの口から洩れた。
「さっき、私が崇高な犠牲精神なんて持ってないって言いましたよね? それなのに私は、国家の機密文書を見て動いただけじゃなく――今こうして、その存在まで殿下に正直に打ち明けてしまいました」
「それで?」
「父に知られたら……本気でただじゃ済まないと思うんです。もしかしたら、オブロフから追放されるかも? そのときは―― 殿下、私の『生活』を引き受けてくださいますよね?」
「……は、相変わらず、肝の据わった物言いをするな」
アルブレヒトは鼻で笑った。だが、エカテリーナは一歩も引かない。
「エーリヒに責任を取って、なんて頼んだら……殿下、きっとお怒りになるでしょう?」
「……はっ! まったく、そなたは……!」
思わず言葉に詰まる。
今まで、これほど堂々と俺に食ってかかる女がいただろうか。危なっかしい綱を、軽々と渡ってしまうその口ぶり。
エーリヒは気を揉んでいるようだが……心配する必要はない。将来、帝国の皇帝となるこの俺に、正面から挑んでくる度胸だ。――オブロフの統領どころか、誰だって手を焼くに違いない。
それにしても――オレスキーという男、やはり侮れない。この娘の父親なのだから。
そこへ、フランツがひょいと口を挟んできた。
「責任なら、俺が取ってもいいけど?」
「猫に魚を預ける方がまだマシだな」
「……マティアス、最近やけに俺に冷たくない? 傷つくんだけど」
「気づいたか。なら結構」
「は?」
「私はまず、雇い主に申し上げているんです。あの、雇い主様? もし勘当されたら、私、本当に身の置き所がなくなりますよ?」
……助けてくださいますよね? ね?
うるうるとした瞳――わざとらしいのが見え見えで、あまりにあざとい。
アルブレヒトはしばし黙したが、結局は答えを返さざるを得なかった。
「……考えておこう」
「ふふ、そうおっしゃりながら……殿下はもう、あなたを『自らの側にある存在』と見ていらっしゃるのです。
私も全力を尽くします。この身で受けたご恩を、少しでもお返しできるように。……どうか、ご安心ください」
「ありがとうございます! やっぱりエーリヒが一番頼りです!」
――舞踏会のときも、あなたは同じように言いましたよね。
エカテリーナさん、ご自分の価値をまだ分かっていないのですね。でも、僕は気づいてしまいましたよ。
「エーリヒが一番頼りです!」――そう口にした瞬間、殿下の表情がわずかに歪んだのを。
殿下の傍らにあっても、あなたはひときわ眩しく映る。その深い翠の瞳を見れば、誰一人として「殿下の外見に劣っている」などとは言えないでしょう。
……いや、むしろ。殿下ご自身が、その輝きに引き寄せられているのかも知れない。
冷徹なはずのその横顔に浮かんだ影を見て、エーリヒはそう直感した。
彼は静かに盃を掲げ、まだ眉を寄せている親友の横顔を見つめた。
アルブレヒト殿下……。もしかすると、あなたはもう見つけてしまったのかもしれませんね。
あなたを理解し、そしてあなたをそのまま映し出せる――かけがえのない存在を。
エーリヒは微笑みを浮かべた。
「……乾杯!」
透き通る音を響かせて重なる杯。ゆらめく灯りの中、帝都の夜は祝宴の熱気とともに、深く沈んでいった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は――殿下とエカテリーナがワルツ?!




