第10章. 帝都の夜の誘惑と予想外の訪問者(5)
途中から肩をふるわせてたマティアスは、ついに我慢しきれず爆笑。
そして――
「ぎゃははっ!」
「痛っ!」
私の背中を、思いっきりバンバン叩いてきた!
いやほんとに痛いんだけど!? 私、男じゃないからね!?
なんでそんなに本気で叩くのよ!
ジト目で睨みながら背中をさすったけど、マティアスはまったく気づいてなかった。
笑いすぎて、顔が真っ赤になってた。
「暑いし、風にでも当たってくるわ!」
「えっ、ちょ……エーリヒも!?」
なぜかエーリヒまで連れて、二人は外へ出ていった。
***
ひとり残ったフランツが、私の空いたグラスにワインを注いでくれた。
「さ、飲もうか」
「ありがとう」
夜の帝都、赤いワインがグラスに満ちていく。
気がつけば、もうすっかり夜更けだった。
ピアニストの指先から零れる旋律は、静かで美しく――まるで夜想曲みたいに響いていた。
グラスの中のワインが、ゆらめきながら波打つ。
軽やかな音が、照明のきらめきと混ざり合って――まるで、音楽そのものみたい。
私はそっと耳を傾けた。
黒の燕尾服をまとった演奏者が、身を屈めて鍵盤の上を舞う。
アレグレット。少し速めのテンポ。
交差する指、揺れる旋律、そして――だんだんと、速さを増していく。
「エカテリーナ」
フランツの声が、集中していた耳を打つ。その指先が、そっと私の頬に触れた。
顔を上げると、鋭い顎のライン。
そして、銀鉱石のような灰色の瞳が、あからさまな誘惑を湛えて――私を見ていた 。
「アルブレヒト殿下は、重いって感じ?」
「うん。外見も、立場も、なにもかもが」
「じゃあ――俺は?」
低くかすれた声が、耳元に落ちる。視線が絡まり合って、胸がふっと痺れる。
思わず、瞳を見開いてしまった。
彼の瞳がふっと動く。唇がわずかに開かれる。沈黙のなか、そっと距離が縮まる。
髪を撫でる指先。熱が伝わって、鼓動がざわつく。
ぎりぎりの距離――もう、息が触れそうで。
「――さあ、どうかな?」
「俺はいいと思うけど。舞踏会で初めて見たときから、惹かれてたし」
髪をなぞっていた手が、顔に触れて、また離れる。
名残惜しげに、もとの場所へ戻っていく。
指先が唇に寄せられた。キスを誘うような仕草。
そのまま、銀の髪の美男子が、じっと私を見つめてくる。
ごくり、と喉が鳴った。挑発するような視線が、甘く、私を誘ってくる。
――想像してしまった。
目を閉じたら、このまま唇を奪われるんだろう。
鼓動が早まる。甘さの奥に、しびれるような刺激がある。
自然と、両手に力が入って。唇が、無意識に、閉じてはまた開く。
そのときだった。
彼の目元が細められた。
次の瞬間、顔がすっと近づく。熱を帯びた吐息が、私の吐息と重なっていく。まさにその瞬間――
私は、自分の指先で唇を塞いだ。
「プレイボーイでしょ? 自分でもわかってるくせに」
「ふむ、それはどういう意味だ?」
「閣内恋愛なんて、うまくいってもプラマイゼロ。こけたら最悪でしょ」
「あなたは本気でそう思ってるのか?」
彼の手が、膝の上に伸びてくる。
ぞくりとしたけど、私は脚をひねってかわし、笑った。
「この制服はドレスと違って誤魔化せないんだから。手は大人しくしてなさい、フランツ」
「……惜しいな。ドレスなら俺の手ぐらい、誰にも気づかれないのに」
「へえ?」
「――殿下の慧眼かもしれんな。おまえみたいな奴がいるからだ」
呆れた声が割り込んできた。エーリヒと戻ってきたマティアスだ。
状況を察したのか、彼はフランツの肩をつかみ、私から引き離して腰を下ろした。
「まったく……だから俺は、ちょっとも席を外せないんだよ」
「嘆かわしいな。友の気持ちを全然わかろうとしない奴がいるとは」
「よく言うな! 舞踏会で一緒にいた黒髪の女性はどうしたんだ!」
「お互い納得して区切りをつけた、ほんの一時の遊びだ。もう関係ないさ」
「おまえな! それで何人目だと思ってるんだ!」
マティアスが説教を始めそうになって、フランツが慌てて話題をそらした。
「まあ、俺のことはいい。エカテリーナにも言い寄る男は結構いるだろ?
この前のティーパーティーでも、一番の人気者だったんだぜ」
「はあ……。フランツだけでもうんざりなのに、なんでおまえまで」
「えっ? 私は紹介された人と話しただけだよ!
それ、私までフランツと同じ扱いじゃない?」
リューネの日以来、泣きたくなるほど忙しい日々だった。
遊ぶ暇なんてなかったのに。不公平すぎる!
「おい、それ本気で言ってるのか?
おまえのせいで別れたカップルがいるって噂、もう俺の耳にまで届いてるんだぞ」
「なんでそれが私のせいなのよ? 私が言い寄ったわけでもないし。
ただ、その男が勝手に私に惚れて、女が怒って別れただけでしょ。
――そんな程度で壊れるなら、どうせ長続きなんてしなかったのよ」
「はは……」
「むしろ感謝してくれてもいいくらいだわ」
「まったく、口だけは達者だな!」
「いったっ!」
頬が、ぐいーっと伸ばされた!
……マティアス、酔ってるでしょ!? こんな仕打ち、人生初なんだけど!?
……別に惚れたりしないけど!
完全に、近所の悪ガキを叱るお兄ちゃんみたいだった。
気さくに仲間扱いされてる気は、
まあ、悪くなかったけど――頬はめっちゃ痛い!
私は、心の中でそっと誓った。
――絶対、婚約者に告げ口してやる。
外の女の、繊細な頬を引っ張ったとか。背中をバンバン叩いたとか。
聞いた話じゃ、婚約者にはめっぽう弱くて――恐妻家予備軍なんだとか?
ふふ……どうなるか、楽しみね……。
じとーっと睨んでやったのに、マティアスはぜんぜん気づかない。
代わりに、延々と説教を続けてくる。
「わかったか? ここは帝国なんだぞ。
殿下の意志で官僚の席にいるおまえの行動は、全部殿下に繋がるんだ!」
「かっっったい! 恋人作らずに広く遊ぶくらい、どこが悪いのよ!」
「それ、いつもフランツが言ってるセリフだぞ!」
「殿下は、私の行動なんて気にしてないって! フランツだって放置されてるじゃん!」
……なぜか毎回、被弾しまくるのはフランツだった。
「おまえは殿下に特別に招かれた客人なんだ!
最初から好き勝手やってるあの奴とは違う!」
「それ差別じゃん!」
「……なあ、さっきから俺の名前、出すぎじゃないか? なんでそんなに巻き込むんだ?」
フランツが、うんざりした顔で銀髪をかき上げる。
「わかんない? 普段のおまえの行いのせいに決まってるでしょ!」
「うるさいよ、フランツ!」
「……」
フランツ号――見事に轟沈!
エーリヒは口を挟まず、静かにフランツの背中をぽん、と叩いた。
そのまま懐から時計を取り出して確認し――ふっと、表情が曇った。
「話に夢中で、伝えそびれていましたね。
本当なら戻ってすぐに言うべきでした……マティアス?」
「ん? なんだよ」
「まさか、忘れてませんよね。……もうすぐ、お見えになる時間です」
「……え?」
なに? 誰が? 私は首をかしげた。フランツも「さっぱりわからん」って顔してる。
でも――私たちとは違い、隣にいたマティアスの顔だけが、一瞬で固まった。
「しまった! すっかり忘れてた! いつ頃だ!?」
「もうすぐです」
「誰? えっ、まさか……?」
嫌な予感が、言葉にする前に、背筋を駆け抜けた。
私は反射的に振り返る。
氷を背中に押しつけられたみたいに、ゾクッとした。
誰もいないはずなのに、背中がぞわぞわと冷えていく。
……気のせい。きっと、気のせい。
こんな夜に、こんな酒場に、まさかあの殿下が来るなんて――そんな、バカな。まさか……。
「……そなたたちは、こんな場所でもずいぶんと賑やかだな」
「でっ……っ!」
――この声は!
私はとっさに、叫びそうになった口を、全力で噛み殺した。
モンスターか幽霊じゃあるまいし、「出た!」なんて叫んだら……。その後が、怖すぎる!
びくびくしながら振り返ると、フードを深くかぶった男が片手で頭を押さえて、ため息をついていた。
……疑いようもない。
顔の上半分を隠してても、顎までしっかり覆っていても。
そんな程度で隠せる美貌じゃ、ないからね。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
次回もどうぞご期待ください。




