第10章. 帝都の夜の誘惑と予想外の訪問者(4)
「はは……イリィチャ公女、いや、エカテリーナさんが僕を買いかぶってるだけですよ」
「へぇ? でも、嫉妬しそうだぞ? 俺とも遊んでくれよ、エカテリーナ」
「よろこんで?」
グラスを掲げると、フランツもカチンとぶつけてきた。
「よし、乾杯!」
「乾杯!」
赤い液体が、唇を濡らす。
フランツがその様子を見て、ふっと声を落とした。
「なぁ、エカテリーナ……悔しくないのか?」
低く抑えた声。
私は笑みを浮かべたまま、彼を見返す。
「どういう意味?」
「アルブレヒト殿下さ。新しい秘書を雇っただろ? シュレスホルツ公女っていう」
「ああ……そのこと?」
「そうだ。『殿下のそばで一番長く顔を合わせる女性』を奪われたんだ。
残念じゃないのか?
なんせ一時期は、殿下が君に気があるんじゃないかなんて、噂まであったんだぜ」
「な、なにそれ――!? 誰がそんな酷いことを!」
私の絶叫に、フランツがニヤリと笑う。
「だってそうだろ。外国の使節で来たのに、そのまま内閣入り。
普通じゃありえない人事だ」
「ぐっ……」
「だから一時は『すでに深い仲』なんて話まで出回った。
まあ、最近はシュレスホルツ公女のおかげで収まってるがな」
「ありえない! あのブラック皇子様に毎日こき使われてるんだよ!?
寝る暇もないくらい働かされて! ――忘れたの? フランツ!」
「えっ……何を?」
「私たちが……あの五日間で飲んだコーヒーの数を……!」
一瞬、場に重たい沈黙が落ちた。
「……あれは、地獄だったな」
「一人一人の机の上に、コーヒーカップの塔が積みあがっていくのを覚えてる」
「書類の山が減るたびに、コーヒーカップの山が高くなってました……」
皆の表情が、じわじわ暗くなる。
私も、苦い笑いをこぼした。
「私、一週間で鼻血まで出したんだよ? あの殿下さえ青ざめて帰してくれたんだ。
……あと一日やってたら、本当に過労死だったよ。
でもね、結局――休暇は一日も出なかった!」
「……」
「はは、ははは……。で――誰が、誰を好きだって?」
「……悪かった」
「とにかく、噂が静まったのはシュレスホルツ嬢のおかげだね。感謝しなきゃ」
「でもさ、本当に少しも惜しくないのか?
今の帝国は『次の皇后は誰か』で大騒ぎだぞ?
殿下は確かに……いや、かなり冷たいお方だけど、いずれ帝国の太陽になるお方だし。
――しかも規格外の美貌の持ち主だろ?」
「『規格外』なんて言葉でも足りないくらいだな」
マティアスが口を挟み、私も即座に突っ込む。
「ついでに、『かなり冷たい』って言葉でも生ぬるい気がするけど?」
「はは……、否定はできませんが、困りますね。
ここで『アルブレヒト殿下は、実は温かいお方なんです』なんて言ったら……」
温かい? 誰が? アルブレヒト皇子が?
……友人だからそう見えるだけ?
いやいや、きっと疲れてるんだよ、エーリヒ。
私たち三人から、無言の視線を浴びたエーリヒは、そっと肩をすくめて降参ポーズ。
「……はい、絶対そんな目で反論されるのがオチなので、黙っておきます」
その姿に、私たちは思わず笑い出した。
「――ともかく、さ」
「え?」
「帝国中があんなに盛り上がってるっていうのに、
当の本人がまるでその立場に興味ないって、どういうことだ?
社交界なんて今、大騒ぎだぞ? 貴族の数は三分の一に減ったのに、
未婚の令嬢たちのドレス注文は倍になってるって噂があるくらい」
マティアスが、ここぞとばかりに毒を吐いた。
「すごいな。そんな噂まで詳しく知ってるお前がな」
「ゴホン、ゴホン。……ま、でもさ。
帝国皇后の座に一切欲がないなんて、逆に変じゃない?
誰だって憧れるに決まってるだろう。しかも殿下みたいに若くて有能で、
しかも天下一品の美貌となれば……ね?」
もっともな話だ。――それなのに、私はつい吹き出してしまった。
「何度も言うけど……皇太子妃? いえ、皇后?
私が、そんな面倒くさくて重たい役目を望むような人に見える? 私に似合うと思う?」
「……うーん、どうだろう」
「微妙ですね」
「みんな、正直に言っていいよ? 私、気にしないから」
付き合ってまだ半月だけど、性格を掴むには十分だった。
男三人は、そろって首を横に振る。
「付き合いは浅いけど、違うと思うな」
「似合わない」
「ははは……」
「わかってるなら、最初から聞かなきゃよかったじゃん。
それに、みんなが絶賛してる殿下の美貌って、正直、私の好みじゃないし」
「……ん?」
一瞬、沈黙。
次の瞬間、男たちが一斉に目を見開いた。――あのエーリヒまで。
「なにっ!? おまえ、美術専攻だったんでしょ?
ちゃんとした審美眼、あるんじゃなかった?」
「それは意外ですね……!」
「正気か?」
……今度は私が正気を疑われる番ってわけ?
それにエーリヒまで!? どうしてそんなに取り乱してるの?
まるで――友達じゃなくて、息子みたいな反応なんだけど!?
「どうして殿下の顔立ちが美しいと思えないんだ!?
もしかして、専攻は最近流行りの……抽象画とか?」
「目が三つある人とか、脚が四本ある魚とか描く、あの奇妙なジャンルのやつ?
ああ、それなら納得かも!」
「専攻は普通に油絵だけど!? いや、そういう問題じゃなくて!」
この男たち、私の美的感覚を疑ってる……。まったく、もうっ!
「私の目はいたって正常だよ! ただ、私の好みとはズレてるだけ!」
「それがもうおかしいってことじゃないか!
あの方の顔立ちが好みじゃないなんて、信じられない!」
……さっきから全員して、私を珍獣扱いするのやめてくれない!?
私は片目を細めて、思わずため息をついた。
やっぱり殿下の取り巻きだけあるね……忠誠心、すごすぎ。これが、真の忠義ってやつ?
「ねえ、マティアス。もし部屋に豪華な装飾が五つあったら素敵でしょ?
でも、それが五百個もあったらどう?」
「……はあ?」
ぽかんとしたマティアスの顔。話の意図が全然伝わってない。
その横でフランツは、後ろからクスクス笑ってるし。
エーリヒは……なんとも言えない顔をしてた。
「私にとって殿下は、まさにそれなの」
「は……?」
「アルブレヒト殿下は、確かに見てるだけで感嘆が漏れるくらい美しい!
画家だったら感激して泣くか、逆に筆を折るかってくらいの被写体だけど――!」
「エカテリーナさん、本題から逸れています」
「あっ、ごめんなさい。
……つまり、殿下みたいな『芸術作品』は、距離を置いて眺めるくらいがちょうどいいのよ。
近すぎると、目が疲れちゃうの」
三人の口が、ぽかんと開いた。
「それ、不敬罪だぞ……」
「あっ……しまった?」
「……何と言えばいいのか。やっぱりエカテリーナさんは只者じゃないですね」
……ええい、もう知らない!
本人に聞かれてなければセーフだろう? 言っちゃったもん勝ちだ。
――ほんとに言いたかったのは、むしろこの先!
「それとね! 何より、あんな美貌って――女にとっては大迷惑!」
「は?」
「なんだって?」
「圧倒的すぎて、どんな女性でも容姿で見劣りしちゃうの!
だから私は、どんなことがあっても殿下の隣には立ちたくないの。比べられるだけだし!
私は自分を大事にしたいんだから!」
……冗談なんかじゃない。本気でそう思ってる。
あまりにも整いすぎたその顔のせいで、
まるで――本人だけが『美の神に選ばれた存在』みたいに輝いてる。
それで、隣にいる人間なんて、まとめて雑魚扱いよ。
たとえば、シュレスホルツ侯爵令嬢。知的で上品、帝国でも指折りの美女。
……なのに、殿下の隣に立った瞬間、ただの人扱い。
普段なら気づかない小さな粗まで浮き彫りになって……。
……まるで『隣に立つだけでデバフ』を食らうみたい。
――正直ホラーでしょ。
きっと私だって、例外じゃない。隣に立ったら――人間扱いどころか……。
最悪、大使館のあの蛸さんみたいに見えるかも。
それだけは、プライドが耐えられない! 私はぶるっと身震いした。
だから私は決めた。アルブレヒト殿下の半径三メートル以内には、絶対に単独で近づかない。
今後もその方針だけは全力で貫くつもり!
「ぷっ……ぷはははははっ! 殿下のお顔を『迷惑』だなんて!?
おまえ、マジでヤバすぎ!」
……こっちは大真面目なんだけど?
ここまで読んでくださりありがとうございます!
皇子=ブラック上司説がますます濃厚になってきましたね。
次回は――プレイボーイの出番です。どうぞお楽しみに!




