第10章. 帝都の夜の誘惑と予想外の訪問者(1)
「くしゅっ!」
――誰も見てないよね?
私は慌てて鼻の下を拭った。
帝国に来てからというもの、なんか耳がむずむずして、
くしゃみばっかり出るんだよね。
……うん、分かってる。今の私は、ちょっと『旬』なんだろうね。
だって、証拠がここにあるし。
《――見事だな、娘よ》
父の声が、そのまま白紙の上から聞こえてきそうだった。
……うわぁ、リアルに聞こえた。ぞくっとした。
「ふぅ……」
手にしているのは、ほんの数か月前に実用化されたばかりの電報。
……やっぱり、すべて気づかれていた。
予測報告を読んで行動したことまで、とっくに察しているはず。
予想はしていたけれど……
アウフェンバルト帝国の運命に私が手を加えたと知った父が、快く思うはずもない。
本来なら有能な側近を失わせ、
アルブレヒトを失意に沈めて帝国を揺るがせるつもりだった。
――それを私がぶっ壊したから。
背中を冷たい汗がつうっと伝って、思わずぶるり。
「幸いだったのは、強制送還されなかったことね。
まだ、挽回の余地は残っている」
ここで無理に呼び戻せば、皇子を救った私を父が咎める。
――その腹の内が透けて見えてしまうからだろう。
まずは、深呼吸。そして私はペン先をインクに含ませる。
帰るわけにはいかない。帰ったら、絶対バッドエンド一直線だから。
震える羽ペンを押さえつけて、そろりと手紙を書き始めた。
――謝って、父のご機嫌も取って、滞在許可もゲット。
高難度クエストだよこれ。
三兎追うなら、もう開き直るしかない。
カリカリ――尖らせた羽根が紙の上を削って、文字たちが踊り出す。
《――親愛なる父上へ》
《電報、確かに頂戴いたしました。
望まれていた形ではないかもしれません。
ですが、オブロフの使節として来た私が皇子に命の借りを作らせたのは、
父上にとっても悪くないはずです。
――なにしろ次期皇帝と、その腹心の命の値段ですからね?
父上なら、利子付きで何倍にもして回収なさるでしょう?》
そこでいったんペンを止め、長く息を吐き出した。
――これもまた、私にとっては返しきれない借りとして残るのだろう。
インクを補充し、続きを書き始めた。
《――あ、それからお伝えしたいことがあります。
今回の件をきっかけに、しばらく帝国に滞在するつもりです。
思いがけずアルブレヒト皇子殿下からお声がけをいただきまして。
周囲は男の軍人ばかりで、
帝国の女性福祉や芸術振興を担える人材が不足しているとのことで……。
その分野の顧問として内閣に加わってほしい、と直々に頼まれたんです》
――正直、父の召喚状が届く前に、
どっか他国へ脱走する案も考えてたんだけどね。
『私が? ……あの、本気でおっしゃってます?
ちょっと、その冷たい目はやめてもらえません?』
『オブロフにいた頃、父親を助け、福祉や芸術に関わったと聞いた』
『あれは、思いついたアイデアをちょっと口にしただけで……。
それに、ここは帝国ですよ? 私は外国人なんですけど?』
『完璧は求めない。今の我が国は人も足りず、硬直している。
……君なら新風を吹き込めるだろう』
『あの、光栄です……?』
『君の奇行を思えば、むしろ妥当な評価だ』
……堂々と奇行って言った!?
え、なにこの皇子、私のこと、気安く扱いすぎじゃない?
まあ、気さくなのは助かるけど。
でも……私は、一か所に長く縛られるなんて、性に合わないんだけどね。
『……本当は各国を巡ってみようかとしました。探している人もいまして』
『永遠に頼むわけではない。契約は毎年更新。望めば、いつ去ってもいい』
『なるほど』
『そなたが旅を続けるにも、それなりに資金が要るだろう?』
『……まあ、それは』
たしかに……異国を旅して回るには、今の貯えじゃちょっと心許なかった。
そんな私の逡巡を見ていたのか、
アルブレヒト皇子はすらすらと羽ペンを走らせ、白い紙を差し出してきた。
『この金額ならどうだ?』
『……』
――高額だった。うん、さすが大陸の半分を支配する帝国。
でも私は、もうちょっとだけ粘ってみることにした。
もともと給与交渉って、即決しちゃダメでしょ?
『あの、せっかくですし、もう少しだけ上乗せしていただけません?』
『……』
『――忠犬のようにお仕えします!』
『……はぁ』
皇子殿下、またため息。
だけど、慈悲深き皇太子殿下〈予定〉は、目の前でお金が二倍になる魔法を見せてくださった。
――断るには、あまりにも甘美な金額だった。
《ここまで読まれたなら、父上も私の返事はお察しでしょう。
そうです。せっかくの提案に、宿舎・馬車まで揃う待遇。
やってみる価値、ありますよね?
――将来、他国で働くにも『次期皇帝の内閣メンバー』って肩書は、
やっぱ箔がつきますし》
《あ、帝国に残る理由がもう一つあります。
せっかくここまで来たんだし――素敵な殿方を、探してみようかと思いまして。
もちろん私も父上に似て、結婚する気なんてさらさらありませんけど……。
人生に彩りを添えるお相手は、多いに越したことないですよね。
愛娘の恋ですもの、どうか大きな心で見守っていただければ幸いです。
――帝国は本当に美形が多くて、日々がまるで目の保養でございますわ。
では、ごきげんよう。
――愛をこめて、エカテリーナより》
……自分で書いたけれど、図々しいね。
でも、これで父の怒りも少しは収まるはず。
……私は父の性格をよく知っているから。
真面目に謝れば、本気で詰問してくる人だ。
だけど、こんなふてぶてしい手紙なら――
意外性と度胸に笑って済ませる、きっと。
父もまた、私と同じく『面白いもの好き』だから。……度を越さない限りは、ね。
――それが、私の父、オレスキー・ディアノヴィチ・セルゲイノフ。
赤い蝋を垂らし、印章を押す。
全工程を終えて、私はぐぅっと伸びをした。
どれだけ父が怒っているかは知らない。
けど、叩かれるなら、先に叩かれた方が気が楽だ。
やってしまえば、なんて晴れやかな気分なんだろう。
緊張が解けて、全身がじんわり重ったるい。
あとは……返事を、結果を待つだけだ。
「さて、と。そろそろ行こうか」
故郷よりは温く、鋭さもない風が舌先をかすめた。
ざらついた感触に身震いしながら、
私は帝都ノイエ・ヴィスルイゼンへ向かう支度を始める。
「う――ん……服を選ばなくてもいいのは、不幸かな? それとも、幸運?」
アルブレヒト皇子が創設した内閣に加わると同時に、
官僚制服の着用が義務づけられたのだ。
黒を基調にした礼装。
アウフェンバルト帝国の三色旗に、赤い布地を重ねて、金ボタン。
胸元には、金糸で刺繍された薔薇と一角のライオン。
……見た目だけなら、すごく立派。
『刷新の象徴』として新調された制服で、帝国一のデザイナーに依頼したんだとか。
まったく、この国ってば、何でもかんでも派手にしたがる。
――まあ、さすが最高のデザイナー。完成度は抜群。
足が覗くマーメイドラインのスカートは、正直ちょっと慣れないけど。
でも、クリノリンやペチコート、髪の飾りに二、
三時間かける手間が省けたと思えば……。
うん、よかったかも。
「問題は、その短縮した時間の分だけ、
容赦なくこき使われるってこと。
ほんと、働き中毒の皇子様なんだ……。有能で勤勉で、その上、体力お化け!」
……それ、上司としては最悪だ。
あの金額に釣られるんじゃなかった!
私はもっとだらだらと帝国文化を満喫したかったのに!
……まあ、後悔してみたところで、
もう手遅れだからこそ『後悔』って呼ぶんだよね。
涙が滲みそうになって、思わず現実逃避する。
「舞踏会……美青年……乗馬……。
――なのに現実は、今日も仕事中毒の皇子様が
山のような書類を積んで待ってるんだろうなぁ……」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
次回からはいよいよ帝都でのお仕事編です。




