Act 02. 二十五日の猶予と、再会への切符(1)
前回、父の書斎で見た「未来予測報告書」。
そこに記されていたのは、幼い日の友――エルの死。
今回は、カーチャとエルの出会いと、二人の間にあった出来事をお届けします。
霜でいっぱいの窓の外が真っ白で、まるで私を呼んでいるようだった。魔法のように美しい雪景色が、心の奥で揺れていた。
私は二人の視線が逸れた隙に、そっと二階の窓から飛び降りた。
「お嬢様ぁぁ!」
「エカテリーナ!そこに止まりなさい!」
「いやです!」
母と乳母は追いかけられず、諦めるしかなかった。そもそも、ドレスにヒールで、速く走る方がおかしいよね?
「エカテリーナ、お前という子は本当に――!」
私は舌をぺろりと出し、雪原に飛び込む。母も乳母も私を止められなかった。私の脱走技術は、 日々向上していったからだ。
少し寒いだけで風邪を引き、ぐったり寝込むくせに、脱走マスターになった私に母は頭を抱えていた。
結局、母は私を連れて、小さな南の島へ向かった。多くの国の貴族たちが訪れる冬の保養地だった。
「こんにちは? 私はエカテリーナよ! オブロフから来たの」
「あ、こん…にちは」
そして、そこで隣の家の男の子、エルと仲良くなった。私より二歳年上で、この地にもう二年も住んでいるらしい。なぜか両親ではなく乳母と二人きりで暮らしている子だった。
暖かい南の島に心躍らせ、私は毎日のように外を駆け回った。おとなしかったエルは、嫌だとは言わず、毎日私に引っ張られ振り回されていた。
「危険、だよ」
「大丈夫! 見て、もう全部登ってきたんだから! やっぱり高いところから見ると気持ちいいね!」
エルはいつも落ち着かず、慌てて私を止めようとするけど――。結局止められないのがお約束だった。
小さい頃、ひどい熱病で言葉が不自由になったらしいエル。成長すれば治癒魔法で良くなるかもしれないけど……、それはまだずっと先の話。
それでも、私はエルのことが好きだった。
大人のように目を伏せて、偉そうなことを言う子たちより、ずっと――ずっと好きだった。言葉はたどたどしくても、私だけを映してくれるエルの瞳は、いつも優しかったから。
「降りるよ!」
木からすいすい降りて、軽く跳ねて地面に着地する私を、エルは静かに受け止めてくれた。
スカートをひらめかせて飛び回る私に驚く様子もなく、ただまっすぐに心配そうな目を向けていた。
「カーチャ、大、丈夫?」
「うん! 見たでしょ? 私は木登りの天才だよ?」
幼い頃の私は、いつも自信満々で、つい油断しがちだった。
あの日も、そうだった――。
綺麗な声でさえずる鳥を追いかけているうちに、偶然その巣を見つけて胸が弾んだ。
巣の中ってどんなだろう? ヒナがいたりするのかな? きっとすごく可愛いに違いない !
……見てみたい!
いつもの木よりずっと高い木。見た瞬間、私の中の『やってやる精神』に火がついた。もちろん、エルは止めようとした。
「カーチャ、危険……、だよ」
「大丈夫、大丈夫! 私が今まで登った木はいくつだと思う?」
いつもなら諦めていたはずなのに、エルは首を横に振った。
「鳥の巣、良くない」
「どうして?」
「お母さん鳥、危、ない……」
「お母さん鳥が? どうして?」
「……」
エルは言いたそうに唇を動かしたが、言葉にできなかった。喉に手を当てて目を閉じたり開いたり。その深い紫の瞳には、どうしようもない苦しさと切なさがにじんでいた。
首をかしげた私は、手をぽんぽんと払って木に登る準備をした。
「じゃあ、行ってくよね!」
「行っちゃ、ダメ!」
慌ててエルが腕を掴んだが、夢中の私は手を振り払った。
「エルって本当に心配性! 後でヒナがどれだけ可愛かったか、教えてあげるね!」
勢いのまま木の上まで登った。
……ヒナが思ったほど可愛くなくて、ちょっとはがっかりしたけど。
不安そうな顔で私を見ているエルに、私は笑って手を振った、その瞬間――。
「ピイッ――!」
鋭く空を裂くような鳴き声。親鳥が戻ってきたのだ。
当時の私は、ヒナを守るために親鳥が本気で攻撃してくるなんて、考えもしなかった。
ただ、ぼんやりとその親鳥を見上げていた。
「カーチャ――!」
「きゃああっ!」
親鳥が鋭いくちばしと爪で襲いかかる。必死で逃げようとしたけど、私は木から落ちてしまった。
体がふわりと浮き、風の音が耳を打つ。枝に肌が擦れて痛みを感じながら、ぼんやり考えた。
――地面にぶつかったら、もっとずっと痛いんだろう?
拳をぎゅっと握りしめ、目を閉じた。やがて体に強い衝撃が伝わった。
……あれ? 思ったほど痛くないかも?
そっと目を開けると、息を呑んだ。
エルだった。彼の腕がしっかりと私を抱きしめていた。落ちてくる私を受け止めてくれたんだよね? 本当に助かった!
でも、なんかおかしい。私を抱きしめているエルの両腕が、変だった。
エル、どうして腕の形がこんな風に曲がってるの!? 手のひらがなんで上を向いているの!?
……まさか、私のせい? 落ちてくる私を守ろうとして怪我したの?
エルは両腕が変な方向に曲がったまま、私を離さなかった。
その時、私はどれだけ危険なことをしたか痛感した。 ガタガタ、体が震えた。
早く『ありがとう』と言わなきゃ。どれくらい痛いのか聞かなきゃ。
怖くて息が詰まり、口が重く閉ざされたように唇だけ震えた。そしてようやく名前を呼んだ。『エル』って。
「痛く……、ない」
「嘘だよ」
「大丈夫」
「大丈夫なわけ、ないでしょ!」
エルは曲がった腕を無理に動かし、そっと私の涙を拭ってくれた。ぼやけて歪む視界の中で、私は、自分が泣いていることに気づいた。
「嬉しい。カーチャが……、無事で」
エルは、相変わらず澄んだ笑顔をだった。
「エル、バカ……、う、ううっ……!」
私が悪かったの。こんな危ないことをしなかったら、エルは怪我しなかったはずなのに。
きっとすごく痛いはずなのに、エルは泣かなかった。ずっと私のことだけ心配していた。泣いているのは私だけ。
「痛い? 泣かない、で……」
「……ひっく、どうしエルは私のことばかり、心配するの? いつもあちこち連れ回して、わがままばかりなのに」
「違う。カーチャ、いい」
「どうして?」
この後、彼女の前に現れるのは――予想外の再会か、それとも新たな試練か。
第三話は 07:10 に公開予定です。
どうぞお楽しみに。