Act 01. 運命を変えるため、私は帝国へ向かう
はじめまして、采月ノヨルと申します。
本作は、二人の男性と一人の女性が絡み合う三角関係の物語です。
選んだ瞬間から、運命の歯車は動き出します。
どうぞ、第一話をお楽しみください!
「エルが、死ぬ……?」
たまたま父の執務室に行った時に、ちらっと目にした数行の書類。
≪1824年第10回|予測報告書≫
父オレスキーが全力で育て上げた情報員たちが出した予測だった。
それまで一度として外れたことのない、まるで『予言』のようなもの。
――そして、そのわずか数行の中に、私は残酷な『死』を見た。
唇を噛んだ。もう寝る時間なのに、気になってまったく眠れない。
ふとベッドから起き上がり、蝋燭を見つめた。真紅の蝋燭が温かく、危うく揺れていた。
まるで、私の揺れる心を映しているように。
予測報告書を読まなきゃ。
幼い頃、保養地の島で出会った私の友達。そして多分初恋の人。
――『エル』かもしれない男が、一ヶ月以内に死ぬ。
***
私は動きやすい服に着替え、音のしない靴を履いた。
目標は永久中立国オブロフ統領の個人書斎だった。つまり、父の企みが詰まった秘密の空間だ。
幸い、同じ建物なおかげで、衛兵に見つからずに潜入できた。……まあ、これも子供の頃から逃亡と脱走に、豊富な経験を積んだおかげ、かな?
――ここまでは良かった。
……違う。
私は素早い速度で紙の束をかき回した。
ぱらぱら、ページをめくる音が、やけに大きく響いてくる。そのたびに、びくっと神経が跳ねた。
……これでもない。
深い夜、冷たい空気が熱くなった頬を冷やした。 書類を胸に抱え、心臓がどくどくと脈打っていた。
バレちゃ、絶対にダメだよ。
父は、他人が許可なく書斎に入ることを決して許さないから。――たとえ、それが実の子でも。
書類は一体どこにあるの!?
私は両手いっぱいの書類をめくる。これも違う。唇を噛んだ。
昨日、父が読んでいたのを見たんだ。だから書類は、左から二番目の本棚の下の秘密の引き出しの中のはずなのに。
思ったより時間がかかる。引き出しをひっくり返したいけど、父は、わずかな痕跡すら見逃さない、鬼のような人だから。
私は息を殺し、一枚一枚をめくる。
溢れる活字の波。欲しいのは、たった一つの書類。
――見つけた!
『帝国未来予測報告書』は、帝国で今後一ヶ月に起こる出来事を予測した機密文書だ。
胸が高鳴る。父の完璧主義を満たすためか、白黒の肖像画も添付されていた。
「エル……」
会えたのはもう十四年前。
エルの顔は今はぼんやりとしか思い出せない。もう顔も声もずいぶん変わっただろう。
私が覚えているのは、暗い色の髪と、やわらかく包み込むような紫の瞳。それだけ。
似ているような気がする。うん、やっぱり似ている。
濃い色の髪に穏やかな微笑みを浮かべる男性。ただの絵なのに、その微笑みからは、優しさと静かな温もりがにじみ出ていた。
《エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルク、ハルデンベルク子爵。 二十四歳。アルブレヒト皇子殿下の側近》
エーリヒという名前なら、エルという愛称を使うのもおかしくない。年齢もエルと同じだ。
……エル、本当に君なの? 体は良くなったの?
ページをめくった瞬間、目に映った言葉に、私ははっと息を詰めた。
《死因:爆弾テロ。リューネの日の夜、大舞踏会場にて。親友アルブレヒト皇子を庇って死亡》
《犯人:第三皇子(現在投獄中)》
《予測確率:92.3%》
《備考:この予測を変更するには、より根本的に状況を変える必要がある》
帝国の未来など、頭に入らなかった。エーリヒの死だけが目に焼き付いた。
エルが友達を庇って、代わりに死ぬって……?
――私の知るエルなら、きっとそんなことをするに違いない。
私の全身が震えた。
彼が死ぬ。それも一ヶ月以内に。
……落ち着こう。
エーリヒがエルかどうかは、まだ分からない。私の視線は自然と、エーリヒの隣にある肖像画へと向かっていた。
七皇子アルブレヒト。
エーリヒの親友であり、皇位継承の内戦で勝利した皇子だ。
肖像画なのに、圧倒的な美貌だった。母は平民だったがあまりに美しく、帝国皇帝も一目で恋に落ちたと言われる。その美貌をちゃんと受け継いだらしい。
でも、本当にそうなのだろうか。私は鼻で笑った。
そんなはずがない。
帝国皇子という肩書きが生み出す美化に過ぎないだろう? 次期皇帝が大陸最高の美男子だなんて。絶対に嘘でしょう。
――あ、こんな時じゃない。
晩餐を開いて遅くまで酒を飲み、女まで連れて自分の部屋に入った父が、この時間に来るはずはない。
でも、『もしも』はあるから。
衛兵たちが交代する足音が聞こえる。近づいてくる。私は息を潜め、肖像画を音もなく戻した。
心臓が激しく鼓動する中、しっかり頭に叩き込み、書類を静かに元通りに片付けた。
紙が曲がったり乱れたりしないよう、完璧に整え終えた。
最後に念入りに確認をしてから、そっと扉を閉じた。
***
息を潜めて自分の部屋に戻った。全身に冷や汗がびっしょり。窓の外からは雨の音がざあざあと 聞こえてくる。
『カーチャ』
秋の長雨の間に聞こえる幼い声。
じめじめした空気の中で光が揺らめき、影も一緒に揺れる。
『僕は大丈夫……。カーチャが、大丈夫なら』
飾り気なく、純粋だった声。
――私は、どうすればいい?
七皇子アルブレヒトが誰なのかは、ずっと前から知っていた。
母親さえ毒殺されたのに、どうにか死なずに延びた力のない皇子。年齢は私より一歳下だったはず。
だから一年前、帝国の皇位を巡って大きな内戦が起こった時は、本当に驚いた。
外戚も支持基盤も何もない七皇子が? ――一体どうやって?
みんな最初に死ぬのは七皇子だと予想していたのに……。
しかし驚くことに、アルブレヒト皇子は勝利を収めたのだ。
彼は緻密で大胆な戦略で異母兄弟たちとの戦争で勝利し、帝国の唯一の皇位継承者となった。
「それが、つい数日前に入った知らせだったよね」
私は指先でテーブルをとんとんと叩いた。
水滴がぽとり、落ちる。
――輝かしい上昇、そして悲劇のような墜落。
正直に言えば、遠く離れた帝国で誰が死のうと、関係なかった。
死のうが生きようが、所詮は他人事。まるで川向こうの火事を見物するかのように、ただ傍観するだけだっただろう。
――それが、エルじゃなかったら。
振り子時計が光を反射した。時計の中では、金色の男女が何組もくるくると踊りながら回っている。
狭いガラスの中、決められた通りをただ回り続ける人生。そう、決められた運命。
予感がした。
このままでは、全ては予測報告書の通りに流れていくだろうと。
皇位継承者に対するテロ謀議だ。やっと安定を取り戻しかけた帝国に、再び血の嵐が吹くだろう。
でも、もし――。
「もし、私がそれを壊すとしたら?」
この未来を読んだのは、情報部のごく一部と父。そして、その父の書類を盗み見た、私だけ。
オブロフの統領である父は介入するはずがない。小さな中立国であるオブロフにとって、帝国の混乱は都合がいいのだから。
でも、私がそこに首を突っ込むなんて? 唾を飲み込む。
……リスクが大きすぎる。
なにせ『あの』父に正面から逆らうことになる。認めてもらえるために、私がどれだけ努力してきたのか。
華やかな高級ドレスも、宝石も、権力さえも。私が手にしているすべては、父の庇護あってこそのもの。でも、父の目から外れたら……。
路上の平民、いや、それどころか、それ以下の人生を歩むかもしれない。……想像しただけで、背筋が凍る。
それに対して、私が得られるメリットは?
――ない。
もし、メリットあったとしても、それを上回るほどの損失が待っている。
こんなにリスクが高いのに、動くのは愚かな行動だ。
……そう、エルじゃなかったなら、そう思い続けられたのに。
「エル……、私はね、あまり『いい大人』にはなれなかったの。優しくも、お節介でもないよ。父と母から教わったのは、『人生はいつだってギブ・アンド・テイク』だってことだけだったから」
でも、あなただけは、違う。
あなたが本当にエーリヒなら――。
私が動かなかったせいで、あなたが死ぬなら……。きっと一生、後悔するはずだから。
踊り回る男女が反射する、きらきらとした金色。
心臓がずきずきと痛み、吐きそうなほど胃がむかむかする。私は唇を噛みしめた。視界がぼやけ、金色の像が丸く結ばれた。
――鳥の鳴き声。
満ち溢れる草の匂い。
そして私に向かって笑っていた、小さな少年。
私を偏見なく見てくれた、優しい瞳。『カーチャ』、こう呼んでくれたあなたの声が、ずっと耳の奥までに痛く響いている。
私は、きっとあなたが本当に好きだったんだ。
だから――。
行くよ、帝国へ。あなたを救うために。
私はサイコロを投げた。
エーリヒに会い、彼が本当にエルか確かめる。
そして、もし本当にエルなら、絶対に救う。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また次話でお会いしましょう。