幕章最終話 きみが泣いてくれるなら
村の広場近く、木陰に集まったのはアイオン、イザーク、エリー、そしてカーラ。
簡易地図を広げ、イザークが指で街道をなぞりながら話し始める。
「よし、明日の出発は――昼前だ。朝から慌てる必要もねぇしな」
イザークは肩をすくめて笑った。
「オルババから休憩所を経由して、3日目の昼にはバルナバだ。荷馬車は俺たちで手配済み。……異論ある?」
「ありません」
アイオンの声は落ち着いていたが、どこか疲れが抜けていない。
そんな様子に、エリーが柔らかな声で言葉を添える。
「じゃあ今日は、しっかり休むことね。最後の村での一日よ。会っておきたい人、やることがあるでしょ?」
「魔物の心配は?」
カーラが尋ねる。
「ねぇよ。出てもホーンラビットか、ゴブリンくらいだ」
イザークは笑い飛ばす。
「棒で追っ払えるレベルだ」
「…そっか」
カーラは小さくため息をついたが、その顔には少し安心の色が浮かんでいた。
イザークは地図を丸め、腰を伸ばす。
「じゃ、決まりだ。荷物は今夜までにまとめとけ。ギルドでの動きもあるし、バルナバに着いたら忙しくなるぞ」
「了解です」
アイオンは短く答えた。
その横顔には、何かを振り切ったような影があった。
エリーが柔らかく締めくくる。
「今日は…できるだけ笑って過ごしましょうね。明日からは、しばらく戻れないんだから」
カーラはその言葉を胸に刻み、静かに頷いた。
#
家には寄らず、そのまま畑道へ向かった。
わかっていた――この時間、ラクトは畑にいる。
曲がりなりにも約4年、手伝ってきたんだから。
広がる畑で、ラクトが鍬を振るっていた。
広い背中が日の光を浴び、影を長く伸ばしている。
その姿に、胸の奥が少し熱くなる。
――この景色とも、しばらくお別れだ。
「手伝いますよ」
「おう!頼むわ!」
ラクトは振り返り、日焼けした顔に笑みを浮かべた。
鍬を受け取り、アイオンは土を掘り起こす。
ザクッ、ザクッと湿った土の音。
草の匂いと風の冷たさが、やけに心地いい。
しばらく無言で並んで作業を続け、ラクトが話し出す。
「懐かしいな!俺も兵団に入る前、実家での最後の日は親父の仕事を手伝ってた。…ゼアスは手伝わずに出ていったけどな!」
アイオンは手を止め、ラクトを見る。
ラクトは鍬を肩に担ぎ、空を見上げていた。
「―お前はお前の人生を楽しめ。強さとか名誉とか、そんなもんより…胸張って『楽しかった』って言えるようにやれ。それでいい」
その声は穏やかで、重荷ではなく、背中を押すためだけのものだった。
胸の奥に、土より深く沁みていく。
アイオンは小さく笑う。
「難しそうです」
「お前は難しく考える奴だからな!まあ、気楽にやれ!」
「はい」
ふたりは再び鍬を振るう。
西の空は、茜から群青へと色を変えていた。
#
畑仕事を終え、ラクトと並んで家へ戻る。
暮れかけた空には、一番星が瞬き始めていた。
扉を開けると、煮込みのいい匂いが広がる。
セアラが振り返り、やわらかく微笑んだ。
「おかえりなさい。ちょうどできたところよ」
「おかえり、アイくん!お父さん!」
ナリアが駆け寄り、袖を引く。
「ただいま」
アイオンは笑い、靴を脱いで居間へ上がった。
食卓には温かなスープと、焼きたてのパン。
干し肉の香ばしい匂いに、思わず腹が鳴る。
――なんでもない料理なのに、胸の奥がきゅっとなるほど懐かしい。
次にこの席に座れるのは、いつになるだろう。
「さ、座って。今日はたっぷりあるから」
セアラが笑顔で皿を並べる。
ラクトも椅子に腰を下ろし、豪快にパンをちぎった。
「しっかり食えよ!セアラの飯は世界で一番うまい!」
「そうですね」
笑いながらスープをすくう。温かさが喉の奥に染みていく。
ナリアが、ちょこんと隣に座ってこちらを見上げた。
「アイくん…気をつけてね」
「うん。帰ってくるから、心配しないで」
「うん!…必ずだよ?」
小さな手が、ぎゅっと袖を握った。
そのぬくもりに、胸が熱くなる。
「…必ず」
アイオンは短く答え、微笑んだ。
――会話は取り留めのないことばかりだった。
ラクトの昔話、セアラのささやかな心配、ナリアの小さな夢、ゼアスのこと。
笑い声が、灯りの下で揺れる。
その時間が、なによりも愛おしかった。
夜はゆっくりと更けていく。
#
家族との食事を終え、笑い声の余韻がまだ残る中、
アイオンは自室で一人、荷物を詰めていた。
大きいバッグに衣服と、貯めたゴールド。
腰のバッグには回復薬と携帯食料。
思ったより少ない――だが、これでしばらくはやっていける。
「…この部屋とも、お別れか」
ぽつりと漏れた声が、静かな部屋に溶けていく。
その静けさを破るように、扉の向こうから小さな声がした。
「アイくん……まだ起きてる?」
「ナリア? どうしたの?」
扉を開けると、眠そうな目をした妹が、両手で何かを抱えて立っていた。
ランプの灯りに照らされたその顔は、泣きそうで、それでも笑おうとしている。
「…これ、渡したくて」
差し出されたのは、小さなブレスレットだった。
草花の茎を細かく編んで作られたそれは、ところどころに村の花の種が混じっている。
光の加減で、銀の糸がかすかに輝いた。
「…これ、作ったの?」
「うん。お父さんとお母さんと、私の髪もちょっとだけ入ってるの。
ゼアスくんのは……無理だったけど」
「髪も?」
「だって、離れてても、ちゃんとそばにいられる気がするの」
ナリアは少しだけ笑って、目を伏せた。
アイオンは言葉を失い、そっとその小さな手から受け取る。
冷たくも温かい――不思議な感触が掌に残った。
「ありがとな。大事にする」
頭を撫でると、ナリアはぎゅっと目を閉じ、小さく息を呑んだ。
「私たちのこと、忘れないでね?」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
アイオンは軽く笑って、妹の手を包む。
「忘れるわけない。大事な…家族だ」
ナリアの顔がぱっと明るくなる。
けれど、目尻は赤く光っていた。
部屋を出ていく小さな背中を見送りながら、
アイオンはブレスレットを左手に巻きつけた。
草花の柔らかさが、心に触れるように感じる。
――守りたいものがある。
それは重荷じゃない。
ただ、静かに進むための灯りのようなものだった。
その夜、彼はしばらく眠れなかった。
窓の外では、雲間の月が淡く照らしていた。
#
昼下がりの陽光が、村の広場をやわらかく包んでいた。
馬車の影が地面に長く伸び、その周りには、見送りに集まった人々が輪を作っている。
荷はすでに積み終えられ、出発の刻が近づいていた。
ラクトが一歩前に出て、アイオンの肩を叩く。
陽に焼けた笑顔は、誇らしげで、ほんの少し寂しそうだ。
「楽しんでこいよ。旅は楽しんでこそだ!」
「…ありがとう、父さん」
アイオンはまっすぐ頷き、その温もりを胸に刻んだ。
セアラがそっと近づき、息子を抱きしめる。
「ちゃんと食べて、無理はしないこと。危ないときは……逃げてもいいのよ」
「はい。母さんも、体に気をつけて」
名残惜しそうに腕を離すセアラの瞳に、涙がにじんでいた。
「アイくん!」
ナリアが駆け寄り、両手を広げる。
小さな体でぎゅっと抱きつき、顔を上げたその瞳は、必死に涙をこらえていた。
「絶対、帰ってきてね! 旅のお話、いっぱい聞かせてね!」
「ああ、約束する」
アイオンは微笑み、妹の髪をそっと撫でた。
その後ろから、レアとベティが歩み寄る。
レアは腕を組み、真っ直ぐな視線を向けた。
「くれぐれも気をつけてね。あなたの命は、あなただけのものじゃない。それを忘れないで」
「はい」
「寂しいですが〜、無事に帰ってきてくださいね〜」
ベティはいつもの調子で笑うが、その声はわずかに震えていた。
「村のこと、家族のこと……お願いします」
アイオンは深く頭を下げる。
「なにかあれば、すぐ知らせるわ。冒険者ギルド宛なら、どこにいても届くはず」
村長が言う。
「気をつけていけよー! うちより美味い干し肉があったら、土産に頼むぞ!」
ブライが笑いながら声をかけ、周囲の村人たちも口々に言葉を投げた。
「頑張れよー!」「元気でな!」「待ってるからねー!」
カーラは荷馬車の脇で、笑顔を作りながら手を振っていた。
「みんなー!元気でー! 絶対に帰ってくるからなー!」
その声は明るいのに、頬には涙が光っている。
「カーラー! お前まで行かなくてもー!」
ロッチが泣き叫ぶが、すぐにボブに口を塞がれた。
その様子に、ビアンカが呆れ顔で笑いながら手を振る。
「よし! 名残惜しいが、行くぞ!」
イザークが御者席で手綱を握り、馬を軽く叩く。
「皆さん! お世話になりましたー!」
エリーの声が澄んだ空に響いた。
荷馬車が動き出す。
車輪が土を踏み、ぎしりと軋む音。
昼下がりの光が、彼らの背を押すように差し込み、見送る人々の影を長く伸ばしていく。
手を振る家族の姿が、ゆっくりと小さくなる。
それでも――その光景は、胸に焼きついた。
一生、忘れられない最初の旅立ちの景色だ。
「…泣いてもいいんだぞ?」
カーラが、隣でアイオンの手を握る。
「―泣きませんよ」
そう言って、アイオンはその手を強く握り返した。
正直、泣きそうだった。けれど――
「俺の分も泣いてくれてるんでしょ? …甘えますよ」
「…バカ」
カーラの声が震える。
エリーはそんな二人を微笑ましく見守り、
イザークは鼻をすすりながら、視線を前へ向けた。
アイオン、14歳。
望まず転生してから4年――
今、ついにオルババ村から旅立つ。
荷馬車は、村の外れの道を進む。
頭上には、広がる秋空。
その向こうには、まだ見ぬ世界が待っている。




