帰還、説教、根負け
昼前、木製の門をくぐると、見慣れた村の空気が迎えてくれた。
二日前に出たばかりのアイオンを、ロッチとボブが驚いた顔で見つめる。
「ずいぶんお疲れだな…もう戻ったのか?」
槍を手にしたロッチが眉をひそめる。
「顔、真っ白じゃねーか。どんだけ無茶したんだ?」
ボブは椅子から腰を浮かせ、腕を組んだ。
「…戻りました。ちょっと予定が狂っただけです」
アイオンは軽く会釈する。
今回の旅でわかった事といえば、長距離移動用の身体強化が、思ったより燃費よく使えるようになっていた事くらいだ。
(魔力の底上げがすごい……回復力も上がってる)
ロッチがじっと目を細める。
「なあ、アイオン。やっぱりお前…禁断の森に?」
「…黙っててくれましたよね?」
アイオンが静かに尋ねる。
「一応な!カーラやレア様に聞かれたけど、黙っといてやったよ。感謝しろよな」
ボブが呆れたように笑う。
「お前、言いそうだったじゃねーか。俺に感謝しろ。…で? 入ったのか?また」
アイオンは一瞬だけ視線を伏せ、淡々と答えた。
「入ってません。用があったのは外なんで」
「外?森の外ってことか?」
ロッチが片眉を上げる。
「なんのために?」
「…魔物の増加で、あの辺りが変わってないか調べてきたんです。変化があれば、冒険者に警戒を頼もうと思って。…でも、何もなかったので、すぐ戻りました」
もちろん嘘だ。
だが、彼らが森に近づくことはないし、真意を確かめる術もない。
ロッチが鼻を鳴らす。
「まあいいけどな! あんな場所、冒険者でも近寄りたくないだろ。二度も行くなんて…なんだ?近くに美女でもいるのか? なら、俺も――」
「嫁探しは村かバルナバで。――教会へ行くので、これで」
アイオンは軽く頭を下げ、教会へと歩き出した。
その背中に、ロッチがぽつりとつぶやく。
「あいつ、なんか隠してるよな?」
「それを黙っててやるのが、余裕のある男だよ」
肩をたたくボブ。
「ムカつくな、その言い方!」
ロッチの声が門に響く。
今日も二人は騒がしい。明日も、きっと騒がしいだろう。
#
昼の光が、教会の壁を柔らかく照らしていた。
扉を押し開けると、静けさと冷たい空気がアイオンを包み込む。
長椅子の列を抜け、奥の祭壇へと歩く。
女神像の掃除をしていたベティが、ふと顔を上げた。傍らには小瓶。その中には白い花弁が浮かんでいる。
「あら〜、お帰りなさいアイオンさん」
ベティが柔らかく微笑む。
「…これ、なんです?」
アイオンは小瓶に目を向ける。
「花弁ですよ〜。なんの花か、わかります?」
見覚えは――ある。
『それはね、色を失ったんだよ。昔は色とりどりだったんだけどね』
あの言葉が脳裏をよぎる。
「…花弁じゃ、わかりませんね」
「そうですか〜。残念です〜」
女神のところで見ました、なんて言えるはずがない。
話を切り替えるため、アイオンはバッグをそっと置き、中から赤い薬草を取り出した。
鮮やかな葉が光を反射し、湿った匂いを放つ。
「これを、お願いします」
その瞬間、ベティの目が大きく見開かれた。
「えっ!?それって、まさか!?」
似つかわしくない大声に、奥から足音が響く。
「どうしたの? 赤い薬草!?」
現れたのはレア。
淡い修道服に身を包み、穏やかな眼差しの奥に鋭さを宿している。
「あなた、またあの森に?」
アイオンは一度、視線を落とした。
「ナリアは、もう元気になりました。でも、今後の村の子どもたちのために、ストックが必要だと思って。しばらく村を離れるので、取りに行ける人間がいなくなる。…もっとも、今回は奇跡的に早く手に入りましたが」
「そういうことを聞いてるんじゃないわ」
レアの声が、ひどく静かに落ちる。
「なぜ誰にも知らせなかったの?」
ベティが小さく声を漏らす。
「そうですよ〜。ロッチさんとボブさんに、口止めしましたね〜?」
答えはなかった。沈黙が、すべてを物語っていた。
「――アイオン」
レアが一歩、近づいた。
「安易に奇跡を起こしてはいけない。人はそれに縋るようになる。…前にも言ったわよね? あなたを守るためにも必要なことなのよ?」
「わかってます。ですが、あって困るものじゃない」
「これは、あなたが負わなくていい責任なのよ」
胸の奥が痛んだ。
アイオンは顔を下げる。
叱られている子どもにしか見えなかった。
「奇病に苦しむ子が救われる。それは喜ばしいことよ。村も助かる。…だけど、今後も奇病は起こり続ける。この薬草も、やがてなくなる。そのとき、あなたは村にいない。―その子の親はあなたにどんな感情を抱く?」
「レ、レア様〜」
ベティが慌てて声をかけるが、レアは手を上げて制した。
「幸い、これだけあれば今いる子ども全員が患っても助かる。それは本当に感謝しているわ。でもね?」
声が低くなる。
「行動に責任を持ちなさい。良かれと思った結果が、最悪な事態を生むこともある。その可能性を、常に想定しなさい」
しばし沈黙が落ち、レアは小さくため息をつく。
「あなたは、自分の命を軽く見すぎている。少しはマシになったと思ったけど、これではね…」
ベティが不安げに言葉を挟む。
「最低でも、私たちには言ってください〜。…お気持ちは嬉しいんですよ〜、私もレア様も〜」
「…浅はかでした。すみません、失礼します」
短く告げて、アイオンは踵を返す。
「カーラと話はした?」
レアの声が背中を止めた。
「え?」
振り返ると、レアの視線は穏やかで、それでも逃げ場を許さない強さを帯びている。
「…してないですけど?」
小さな声が、壁に溶けた。
レアは静かに微笑んだ。
「なら、きっと待ってるわ。疲れてるでしょうけど、行ってあげて」
意味を測りかねたまま、アイオンは扉を開け、外へ出た。
陽射しが、やけにまぶしかった――。
#
「厳しすぎますよ〜、レア様。アイオンさんは村のために…」
「あなたは甘すぎるわね…はぁ」
レアは深くため息をついた。
「行動の結果の先を、しっかり認識しなくては…また悲劇が起こる。"次"は、もう"世界が耐えられない"」
「…“あの方”のように、ですか?」
またため息をつき、レアは薬草に視線を落とす。
――助かるのは確かだ。だが取り扱いは慎重にしなければならない。
「あるものは有効に使いましょう。薬湯にして保管しておく。奇病にかかっても早期に投与できれば、それとはわからないはず」
「…はい〜」
「でも、いい機会だったかもね」
ぽつりと呟いたレアに、ベティは首をかしげる。
「なにがです〜?」
「カーラよ。アイオンについて行ってくれるのは、あの子にとっていい作用を与えるはず」
女神像を見上げながら続けた。
「守るべき存在、帰ってくることを願ってくれる存在が傍にいる――それは、あの子には必要よ」
「…私でもよかったのでは〜?」
「諦めなさい」
悩みは尽きない。
ベティはもう完全にアイオンを狙っている。
――旅立ちは、本当にいい機会だ。
アイオンも、自分の命を顧みることを覚えてほしい。ベティには、もう少し柔軟な信仰心を。
#
教会を出ると、光が目に沁みた。
足取りは重く、頭はぼんやりしている。
(…眠い。今すぐ倒れたい)
それでも、なぜか家とは逆に歩いていた。
カーラの家が見えてきたとき、思わず呟く。
「…何の用だろ…」
気まずい別れから、その後は会えていなかった。――少し緊張しながら、扉を叩く。
扉を叩くと、すぐに中から足音が近づいた。
開いた扉の向こうに立っていたのは――
「アイオン!」
カーラは勢いよく飛び出し、真っ直ぐに彼を見上げた。
その瞳には、強い光が宿っている。
「お、お久しぶりです…レア様から聞いて。どうしたんです?」
疲れ切った顔で問いかけるアイオンに、カーラは一歩踏み出す。
「私も行く!」
言葉の意味が理解できなかった。
「は?」
「だから――私も、お前と一緒に行く!」
カーラは両手を握りしめ、声を張り上げる。
「駄目です」
即答だった。
「危険すぎます。旅は甘くありません。身の安全を保証できませんし」
「わかってる!」
カーラは食い下がる。
「私に戦う力はない。でも、できることはある! お前を一人にはしない! 帰りを待っててやれる、傍で!」
「…無理です」
淡々とした声で突き放した。
「俺に、誰かの命の責任を取れませんよ。カーラさんなら尚更です。…友人の命を背負いたくない」
そのとき、奥から落ち着いた声が響いた。
「アイオン」
姿を現したのはサーラだった。
カーラに似た勝ち気な女性で、一人でカーラを育て上げた。
「どうしても駄目かしら?」
静かな問いに、アイオンは視線を落とす。
「サーラさんまで…本当に危険なんです。何が起こるかわかりません。俺だって旅慣れてるわけじゃないんですよ?」
「わかってるわ。でもね、この子はただのわがままで言ってるんじゃない」
サーラは娘の肩に手を置き、真っ直ぐアイオンを見た。
「カーラは覚悟してる。それでも、あなたに付いて行きたいの」
「駄目です」
アイオンは首を振る。
「大体、男女で旅なんて――サーラさんが止めるべきじゃないですか」
アイオンの正論に、空気が重く沈んだ。
――アイオンだけだ。カーラの気持ちを知らないのは。
サーラはカーラを引っ張り、ヒソヒソ声で話す。
(あんた!まだなんの進展もなかったの?てっきりいい仲だと思ってたのに!)
(そ、それは―この旅を通じてそうなる予定なんだよ!)
(予定って!バカ!私とセアラさんはもうその気だったのに!)
(き、気が早いよ!)
「…俺、もういいですか?」
「「待ってて!!」」
気まずい空気が流れる。
正直、疲れ果てているのに、更に疲れてきた。
その膠着を破ったのは――背後の声だった。
「…グダグダすぎる」
呆れ声とともに、イザークが姿を現す。
その隣にはエリーもいた。
「…イザークさん、エリーさん…まだいたんですね。あなた達が何かカーラさんに…?」
「お前が帰ってくんの早いんだろ…。日頃の態度が悪いんだぜ?」
イザークは腕を組み、ニヤリと笑う。
「冒険者とギルドのやり取り、指名依頼が来た時にも、人付き合いが必要になる。お前、どう考えても苦手じゃん。サポートは必要になる。違うか?」
「…努力しますよ」
「無駄なことに労力割くって?やめとけやめとけ! 絶望的に合ってねぇよ!」
イザークは笑う。
エリーが柔らかな声で言葉を重ねる。
「了承を得て一緒に旅する方がマシでしょ? 無理やり付いてきて、それを引き離して、一人にできる?…それで何かあったとき、後悔するのは誰?」
――半ば脅しだった。
カーラを見る。
目はギラつき、何を言っても聞き入れそうになかった。
(…もう無理じゃん)
頭が回らなかった。
「――わかりましたよ」
小さく、諦めるように吐き出した声。
「ただし、言うことは聞いてもらいます。それが条件です」
「もちろん!」
カーラがぱっと笑顔を咲かせた。
その笑顔に、アイオンは思わずため息を吐く。
(…お気楽な)
疲れた頭の奥で、不安と安堵が入り混じったまま――。
「…じゃあ、俺は帰ります」
「あ、待てよ!俺とエリーは明後日出る予定だ! お前達も合わせるか?」
「とにかく明日、詳しく話しましょう」
返事も聞かず歩き出す。
判断を誤った。森を出て湖畔で休んでから帰れば、言い負かされることもなかったのに――。
#
去っていくアイオンを、一同は黙って見送った。
彼の背中はいつになく重く、足取りも危うい。
「…あいつ、何してたんだ? めちゃくちゃ疲れてんな」
イザークが腕を組んで呟く。
「そのおかげで押し切れたって感じがするけどね」
エリーは苦笑しながら、ふらつくアイオンの背を目で追った。
そんな中、サーラが娘を振り返り――声を潜めるどころか、遠慮なく怒鳴った。
「あんた!なんで『特別な関係じゃない』って言わなかったのよ!私とセアラさん、準備始めてたのよ!?旅立ちに間に合うようにって!」
「そ、そんなこと言ったって…順序があるでしょ!」
カーラは真っ赤になって抗議する。
「順序?順序よりチャンスでしょ!逃したら一生こないかもしれないんだから!わかってんの!?」
「わ、わかってるよ!」
「わかってたらこんな悠長な事にはならないわよ!」
声を張り上げる母娘に、周囲の村人たちがくすくす笑いながら近寄ってきた。
誰かが「まあまあ、若いもんの話だ」なんて肩をすくめる。
子どもたちは「カーラ姉ちゃん、結婚するのー?」と無邪気に叫び、カーラは顔を真っ赤にして両手を振った。
「ち、違う!てめーら!集まってくんな!散れ!散れやぁぁあ!!!」
――その声に笑いが広がる。
暮れかけた空を背景に、村の広場はどこまでも穏やかだった。
不安も別れも、まだ遠い。
ただ、温かな時間が流れていた。
#
(つ、疲れた。いつ以来だ…体も精神も、限界だ)
家の扉を開けると、温かな空気と懐かしい匂いが迎えてくれた。
足を踏み入れた瞬間、全身の力が抜けそうになる。
「――あら」
優しい声に顔を上げると、母のセアラが立っていた。
相変わらず柔らかな微笑みで、しかし少し驚いたように目を見開いている。
「早かったのね…心の準備ができてないわ」
冗談めかした口調で、けれど声には安堵がにじんでいた。
「ただいま帰りました、セアラさん…準備?」
小さく頭を下げる。セアラの手がそっと肩に触れた。
「そ、そんな事より…ひどく疲れてるようだけど、大丈夫? 怪我は?」
「大丈夫ですけど、少し休みます。眠くて…」
「アイくん!」
奥から、ぱたぱたと軽い足音が駆けてきた。
顔を出したのはナリアだった。
頬に赤みを差し、すっかり元気を取り戻した様子に、アイオンは思わず笑みをこぼす。
「ナリア…ごめんな、ちゃんと話もできずにいて」
「んーん! 平気! もう、大丈夫! ほら!」
ナリアは両手を広げて、くるりと一回転して見せる。その無邪気さが、胸を温かくした。
「そっか」
その笑顔を見れて、心は安らいだ。
しかし――本当に限界だった。
「ナリア、明日いっぱい遊ぼう。…今は休ませてもらっていいかな?」
「うん!…出発は?」
「明後日だと思う…急でごめん」
少し顔を曇らせるナリア。だが、すぐに笑った。
「大丈夫!…明日は用事あるから、ゆっくりしてて!」
「用事…?わかった」
頭を撫で、部屋に戻る。
(休んでれば…本当に駄目な人間だよ、俺は)
肩を落とし、眠気に負けてベッドに倒れ込む――
意識を手放した。
#
「間に合うかな?お母さん…」
「大丈夫よ。手伝おうか?」
「…ううん!自分でやる!」
ナリアは奥の部屋に駆け込み、すぐ戻ってきた。
その手に抱えていたのは、小さななにかが詰まった袋だった。
――何かを必死に作ろうとしている。
窓の外では、夕陽が森を朱に染めていた。
その光の中で、小さな影が黙々と動いている。
「兄に渡すための何か」を――。
(大丈夫!間に合う!)
幼い胸に、そんな強い決意が灯っていた。
――静かな村に、夜の帳が落ちていく。




