深まる謎と準備中の少女
森を抜けたとき、肺の奥に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
足が勝手に笑う。
全力で駆け抜けたせいで、身体が悲鳴を上げていた。
「…はぁ、はぁ…っ」
湖にたどり着いたとき、身体はもう鉛のように重かった。
岩場に腰を落とし、水袋から水を流し込む。
喉を通る冷たさが、ようやく自分が生きていることを教えてくれた。
――死ぬかと思った。
何度も振り返った。
背後には、森の黒い影が静かに広がっている。
昼でも夜でもない、曖昧な光に包まれた異様な森。
(…黒の女)
彼女の声が、今も耳に残っていた。
柔らかいのに、氷のように冷たい声。
言葉ひとつひとつが鋭い刃のようで――
それでいて、奇妙なほど魅力的だった。
「…人間じゃないのは確か」
小さく呟いた声は、湖面に飲まれて消えた。
あの女は何者だ?
女神に似た、あの姿。
“女神とどういう関係なんだ”と問いかけても、答えはなかった。
ただ――「事実を知って、何が変わる?」
あの冷淡な一言が、胸に刺さったままだ。
(…その通りだ。聞いた答えより、知った答えの方が大事だ)
それでも、あの時の感覚だけは、忘れられない。
――“死”よりも圧倒的な、存在の差。
あれは、命を百も千も積んでも届かない高みにいる。
そう思わせるだけの力が確かにあった。
(圧倒的。そんな言葉でも足りないくらいの差を、理解させられた)
唇を噛む。
あの殺意を浴びたとき、自分は地面に這いつくばることしかできなかった。
奇病のことを問いかけた瞬間――世界が敵に回った錯覚すら覚えた。
本来なら、生きていられるはずもない。
今、“生きて”帰れたのは、女神のおかげだ。
「…でも」
アイオンは拳を握りしめた。
悔しさと同時に、強烈な衝動が湧き上がっていた。
――もっと強くならなければならない。
この世界を知りたい。
なにが起きて、女神が見放したのかを知りたい。
(また会うことになる。…いや、必ず会いに行く)
そのためには、力をつけるしかない。
黒衣の女は言った。
「きみに赤い薬草は取れない」「まだ早すぎる」――すべて正しい。
だからこそ、次は堂々と、誰の庇護も借りずにあの場所に踏み込む。
視線を落とすと、足元のバッグが目に入る。
中には、赤い薬草がぎっしりと詰まっていた。
一過性の現象――そう言っていた。おそらく今回限りだろう。
奇跡に近い幸運。偶然生み出されたもの。
彼女の“怒り”を対価に。
「…ありがとう、なんて…言えるわけないか」
呟き、乾いた笑いが漏れる。
あの女は何者なのか。
女神はなぜ世界を見放したのか。
そして、あの言葉――『俗物どもに騙された存在』とは何を意味する?
この薬草が『後悔の証』とは?
疑問ばかりが積み重なる。
けれど、答えはひとつもない。
ただ、確信だけが胸に残った。
――自分は、まだ小さすぎる。
月明かりに照らされた湖面が、白銀に揺れていた。
遠くで夜鳥の声が一度だけ響く。
その声を聞いた瞬間、ようやく呼吸が落ち着いた。
森の奥で遭遇した、あの黒衣の女の笑みが脳裏にこびりついて離れないまま――
アイオンは夜空を仰ぐ。
「…できる事を、するだけだ」
そして村へと向けて歩き出す。
ここで休んで朝戻るのが賢い判断だが、少しでも早く離れたかった。
素の体力を鍛えたおかげで、行動時間は増えた。
そのうちに魔力も回復する。 昼には着いているだろう。
どうであれ、やり残しは終わった。
旅を重ねれば、世界の謎も見えてくるのだろうか――
#
カーラの部屋は、思った以上に散らかっていた。
床には衣服、袋詰めの食料、そして手書きのメモが散乱している。
「忘れちゃいけないもの」――と書かれた紙に並んでいるのは、
『携帯食料』『水筒』『包帯』『回復薬』。
その中央で、カーラは腕を組んでいた。
「…なんか、全然まとまらない」
そこに、ノックもなしにドアが開いた。
「おーい、準備は進んでるか?」
顔を出したのはイザーク。
その後ろから、エリーがひょいと覗き込む。
「二人とも!? なんで――」
「アドバイスした手前、気になってな! …しかし」
イザークは大股で部屋に入り、散乱した荷物を見て吹き出した。
「これは予想よりひでぇな」
「う、うるせぇな! 私なりに考えてるんだよ!」
「考えるのはいいけどよ、まず基本からだ」
そう言って、イザークは荷物を蹴り避け、スペースを作った。
「カーラ、まず“全部持っていこう”って考えはやめなさい」
エリーが、やさしい口調で笑いながら言う。
「でも…だって、ないと困るだろ」
「困るのは、荷物が重すぎて動けなくなることだよ?」
「ぐっ…」
「旅はな、軽さこそ命だ。動けねぇ奴は死ぬ」
イザークの一言に、カーラは肩をすくめた。
エリーはテーブルにバッグを置き、手際よく仕分けを始める。
「水袋は必須。できれば予備をもう一つ。でも、中身は空っぽでいい」
「えっ、なんで?」
「水は現地で補給するの。重いからね。それと、携帯食料は必要。でも…」
エリーはカーラの包みを開け、眉をひそめた。
「これは、ちょっと多すぎ」
「だって、食べなきゃ死ぬだろ!」
「重さで死ぬほうが早いかな。それに、とりあえずバルナバまでの距離だし」
「バルナバは値段が上がるんじゃ?」
エリーはくすっと笑う。
「オニクから聞いたけど、今この地方は冒険者流入が激しいでしょ?
だから需要が増えて、商店は薄利多売でやってるみたい」
「…じゃあ安いのか」
「詳しくはわからないけど…バルナバに着いてからどれくらい滞在するかわからないし、
その間も携帯食料で過ごすなら、持って行って損はないね」
「…置いていきます」
イザークは革袋を持ち上げ、中を覗く。
「回復薬も準備してるな…でも、包帯が多すぎだな。怪我する気満々か?」
「そ、そんなことないけど! なにかあってからじゃ困るだろ? 回復術使えないし!」
「誰と一緒に行くにしろ、この付近でそんな魔物はまず出ねぇよ。
ハーピーらが街道まで出てきたって報告もないはずだ」
「そ、そんな楽観的な!」
「慎重なのは今後のために良いことだけど、客観的な判断は今のうちに磨いとけ」
イザークの笑い声が響いた。
カーラは唇を噛む。
――やっぱり、甘くない。
けど、不思議と怖くなかった。
胸の奥にあるのは、不安よりも、熱。
(絶対についていく)
その決意だけは、揺らがなかった。
「…なあ」
カーラがぽつりと声を漏らす。
「なに?」
エリーが顔を上げる。
「もし…もし、アイオンが“ダメ”って言ったら、どうしたらいい?」
「そん時は、諦めんのか?」
イザークが問う。
「…諦めない」
カーラは、ぎゅっと拳を握った。
「戦う力はない。でも、あいつのそばにいたい。支えてやれる自信はある」
強い光を宿した瞳に、イザークが一瞬、驚いた顔をした。
そして、にやりと笑う。
「なら、どんな手使ってでも首を縦に振らせろ」
「もちろん!」
そのとき、エリーが小さく笑った。
「ふふ…いい顔してる」
そんなやりとりの最中、ふいにカーラが顔を上げる。
「――あ! ブローチはしまわないと! 忘れるとこだった!」
小さな箱を取り出し、胸のブローチをしまう。
「お婆ちゃんの形見だ。旅先で無くしちゃ、顔向けできない」
エリーが目を細める。
「白い蝶のブローチだよね?…前から思ってたけど、珍しいね」
「そうだろ? 肌身放さずつけておきなさいってお婆ちゃんに言われたけど…」
「ならつけといた方が良いだろ。服の内側に付けてもいいし」
「えー? 無くしたらどうすんだよ…」
「遺言のが大事だろ。そういうのはお守りになる。まぁ好きにしな」
そして、荷選びを進めていく。
カーラの出発の日も、もうすぐだった。




