黒との会合
朝靄が湖面に白く漂い、冷たい空気が肺を満たす。
アイオンは服を脱ぎ、湖に足を踏み入れた。
水は骨の髄まで染みるような冷たさだったが、それが心地よい。
昨夜の移動の疲れと胸にこびりついた重さを、洗い流すように深く潜る。
顔を上げると、朝日が木々の隙間から差し込み、湖面を黄金に染めていた。
―ほんの一瞬だけ、世界が美しいと感じる。
水浴びを終え、岩場に戻る。
濡れた髪をかき上げ、服を身にまとう。
腰の双剣を確かめ、鞘に触れ、深く息を吐いた。
「―よし」
荷をまとめて肩に担ぐ。
焚き火の残り火を完全に消すと、森の入り口へと足を進めた。
黒い木々が壁のように連なり、奥は完全な闇に沈んでいた。
先ほど見た湖の光景が幻だったかのように、ここは異質だった。
(…前に来た時より確かに強くなった)
だが―。
(油断は絶対にできない)
一度の慢心が命取りになる。
この森で死ぬのは、あまりにも容易い。
だからこそ、己に言い聞かせるように息を吐いた。
「―よし」
小さく呟き、足を踏み入れる。
踏んだ落ち葉が乾いた音を立てた。
だが、それだけだった。
鳥の羽ばたきも虫の羽音もない。
(…おかしい)
前に来た時も静かだったが、今回はさらに深い。
まるで、音そのものが消えた世界だった。
空気が重く、冷たい汗が首筋を伝う。
(…誰かに、見られている?)
振り向く。誰もいない。
だが、背中を刺す感覚が消えない。
木々の奥で、何かが蠢いている―そんな錯覚。
剣に触れる指先に力がこもる。
(慎重に…)
深呼吸をひとつ。森の奥へと進んだ。
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森の闇に、朝の光は届かない。
踏み出すたび、木々が重なり合い、世界がさらに閉じていく。
―静かすぎる。
葉擦れも虫の羽音もない。聞こえるのは自分の足音と鼓動だけ。
(…異常だ)
前に来た時はグリムウルフが襲ってきた。
だが今回は、何も起きない。
まるで森そのものが息を潜めているようだった。
一歩、また一歩。剣を腰に慎重に進む。
視界の端で何かが動いた気がしても、振り向けば何もない。
だが、感覚だけは告げていた。
―何かが、確かにこの辺りにいる。
そのときだった。
靴がぬるりとした感触を踏んだ。
(……?)
視線を落とすと、黒ずんだ赤が土にこびりついている。
血だ。しかも乾いていない。
しゃがみ込み、指で触れる。
まだ温もりが残っていた。
(…今、ついたばかり?)
胸がざわつく。
進むたび、別の血溜まりが現れた。
葉に飛び散る赤、草に擦れた血の線。まるで何かが引きずられた跡のようだ。
(…一体、何を…)
思考が止まる。死骸がない。
血の量からして、確実に何かが仕留められているはずだ。
だが骨すらなく、跡形もない。
(…喰われた? それでも、骨の一つくらいは残るはずだ)
答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、この森が理から外れた場所だということ。
(―進む。それだけだ)
何度も自分に言い聞かせる。
そして―半日後。
ようやく視界が開けた。
巨大な倒木が幾重にも重なり、天然の壁を作っている。
その内側は、陽光が差し込む小さな空間だった。
(ついた…。あの光に導かれた場所)
わずかな安堵が胸に灯る。
深呼吸し、剣を握る手を緩めた―その瞬間だった。
上空から、突如として巨大な影が落ちてきた。
地面が震え、砂塵が舞う。
アイオンは反射的に後退し、視線を向ける。
そこにいたのは、翼を広げた獣。
獅子のような前肢、鋭い鉤爪。黄金の羽根が光をはね返す。
―グリフォン。
しばし、グリフォンはアイオンを見つめていた。
黄金の瞳は鋭く、それでいてどこか懐かしさを含んでいるようだった。
(…敵意はない。あの時の―)
剣にかけた手を離す。
深呼吸をひとつ、ゆっくりと。
「―覚えてるか? 俺のこと」
返事はない。
ただ、巨大な頭がわずかに傾き、低く喉を鳴らした。
「グルゥ」
胸の奥がざわつく。
あの日、自分を救ってくれた存在。
あれが偶然だったのか、そうでないのかはもうどうでもいい。
「…今日は、礼を言いに来た」
アイオンはバッグから袋を出す。
中の干し肉を数切れ掴み、袋ごとグリフォンの前に置いた。
「あの時は数切れだけで申し訳なかった。どこかで食べてくれ。俺が生きてるのは、お前のおかげだ」
グリフォンはしばらく干し肉を見つめ、やがて鼻先を近づけた。
数切れを食べ、袋をくわえ、牙の間で軽く噛む。
まるで礼を返すように、小さく鳴いた。
「グルゥ」
(…そうか。やっぱり、お前は…)
胸に込み上げるものを押し殺し、微笑んだ―そのとき、グリフォンの耳がぴくりと動く。
黄金の瞳が森の奥―倒木の影、そのさらに先を射抜いた。
(…何だ?)
アイオンも視線を向けた瞬間、心臓が凍りついた。
そこに、立っていた。
黒。深淵の闇を纏ったような服。
光を呑み込む漆黒の髪。
雪のように白い肌。
そして―覗き込むような、底の見えない黒い瞳。
森の緑にも血の赤にも染まらない、異質な存在。
この世の色から切り離された“何か”。
女はただ静かに微笑んでいた。
その笑みは冷たく、優しく、そして抗えないほど妖しい。
「―初めまして」
声は風を揺らさず、直接耳の奥に落ちてきた。
背筋に冷たいものが走る。
ただ、本能が告げていた。
―これは、「人」じゃない。
だが、どこかで見た気がする。
記憶を遡り、似た影を探す。
そして、口をついた。
「―クソ女神?」
女はくすりと笑う。
「…あの時も思ったけど、きみはずいぶん口が悪いな。それとも、“あれ”がよっぽど底意地の悪さを見せたのかな?」
「あの時…?」
「そう、あの時だよ。どちらもここに導いたじゃないか。覚えてないか? 一度目は無言でついてきたけど、二度目は問いかけてきたろ? ―“クソ女神なのか?”って」
彼女は指先に淡い光を灯す。
光は小さな粒となり、周囲を漂い始めた。
―この光…!
「…忘れるはずがない。この光のおかげで、ここにたどり着けた」
女は意地悪な笑みを浮かべる。
「そうだろ? なら、礼を尽くすべき相手に剣の柄を握ったままは、少し失礼じゃないかな?」
「…俺が何かしたところで、どうにかなる存在じゃないだろ?」
「これは力の話じゃない。礼儀の話だよ、少年。あの子には礼を尽くしに来たんだろ? なら私にもそうするべきだ」
彼女は横目でグリフォンを見る。
グリフォンは鼻を鳴らし、低く喉を鳴らした。
「グルァ! グルル…」
「いいじゃないか。きみは礼を受けた。対して私は警戒されっぱなし。これは―公平じゃない」
「クカーッ! クルル! グァッ!」
「…それはそうだが」
やり取りを見て、アイオンは思わず吹き出した。
「…ははっ」
「…きみのせいで笑われたぞ」
「クルァッ! ケッ!」
「わかったよ、それでいい。…だが、一切れは残しておいてくれよ?」
「…クル」
捨て台詞のように鳴き、グリフォンは翼を広げて飛び去った。
残されたのは、黒衣の女とアイオンだけ。
アイオンはゆっくりと剣から手を離した。
「落ち着いて話ができそうかな?」
「…そうですね」
向かい合う二人。
森は、異様なほど静かなままだった。




