微かな囁きを感じた
夜がすっかり世界を覆い、湖面は月光に白く染められていた。
風は冷たく、岩場に腰を下ろしたアイオンの頬を撫でる。
焚き火が小さくはぜ、赤い火花を散らした。
暗闇を押し返すその光だけが、彼と森を隔てる境界線だった。
干し肉を鉄串に刺し、火にかざす。
脂が落ちる音が、やけに大きく響く。
―そう、音が異様に響くのだ。
(…やっぱり、おかしな森だ)
気づけば、焚き火以外の音がなかった。
耳を澄ませても、虫の声も鳥の羽ばたきもない。
夜の森なら必ず聞こえるはずの、凶暴な魔物の咆哮でさえ―一つとして。
(…結界でもあるとしか思えない。だが、入ることはできる…)
胸の奥に、冷たい違和感が広がる。
森が“眠っている”のではない。
周辺の生き物が、すべて息を潜めている。
まるで―何かを恐れて。
(この湖も妙だ。こんなに澄んでいて魚もいるのに、それを狙う魔物すらいない)
絶好の餌場のはずなのに、ゴブリンもウルフも寄りつかない。
(…助かるけど。安心して休める)
アイオンは視線を森へ投げた。
黒い塊と化した木々の群れ。
その奥で何が蠢いているのか、想像すらしたくない。
だが明日、再び足を踏み入れる。
(あの時と同じ。早朝に入って、赤い薬草を探す。今回は、誰かが死ぬタイムリミットはない。それだけで、精神的には楽だな)
干し肉を頬張る。
やはり、ブライの味付けは完璧だった。
火を見つめながら、ふと胸の奥で声が響く。
(…ナリアと、ちゃんと話すべきだったかな。でも、何を言っても、置いていく事実は変わらない)
干し肉をかじりながら、自問自答する。
(それでも、旅立つと決めたんだ。なら、進むだけ)
焚き火の炎が、心のように揺れていた。
食べ終え、目を閉じる。
なにも考えず、休む。
「明日、だ」
そうして、ゆっくりと意識を手放した。
#
夜更けの教会。
蝋燭の灯が揺れ、静けさに木の軋む音が混じる。
その扉が、そっと開いた。
「あら? ナリア?」
振り向いたレアの声に、白い寝間着姿の少女が小さく頷いた。
その手はぎゅっと胸元を握りしめ、影を引きずって歩いてくる。
「こんばんは、ナリアちゃん。こんな時間にどうしたんですか〜? 一人です〜?」
ベティが膝をついて迎えた。
しばしの沈黙。
やがて、震える声が落ちる。
「…アイくん…いなくなっちゃうの…」
その言葉に、レアとベティは視線を交わした。
ベティはそっと肩に触れ、優しく問いかける。
「そうですか〜。それを聞いて、悲しくなっちゃいました〜?」
「…今どこかに行ってて一回戻るけど、その後、村を出るって…。アイくん、もう…帰ってこないの…?」
声がかすれ、涙が頬を伝う。
レアは無言で抱き寄せ、その小さな背を包んだ。
「旅立つのは本当。でも、帰ってこないわけじゃない」
「…本当に?」
「ナリア、大丈夫よ」
レアの声は柔らかく、温かかった。
「あの子はちゃんと戻ってくる」
ナリアの肩が震えた。
その目から、涙がにじむ。
「…でも…遠くに行っちゃう…」
「会えなくなるのは寂しいわ。私たちもそうよ。でも、一生会えないわけじゃない」
レアはナリアの頬に触れ、涙をぬぐう。
「会える。必ず帰ってくる。だって、あの子は誰よりもあなたを大切に思ってるから」
「…本当に?」
「本当です〜」
ベティが微笑み、ナリアの手を握る。
「私たちだって、信じてるんです〜。だから、ナリアちゃんも…信じてあげて〜」
ナリアは嗚咽をこらえ、ぎゅっと目を閉じた。
そして、小さく、震える声で答える。
「…うん…」
「大丈夫? 笑って送ってあげられる? あの子は、あなたが笑ってるのが一番好きなのよ」
「…頑張る」
「偉いです〜。ナリアちゃんも、優しい子ですからね〜。大丈夫です〜! 女神様が守ってくれますよ〜! アイオンさんを〜」
「女神様…白いお姉さん?」
その言葉に、二人が顔を見合わせる。
レアが恐る恐る問いかける。
「そ、それは…どうして?」
ナリアはなにかを思い出そうとし、答える。
「…どこだっけ? どこかでお話したの…。思い出せないけど…。白いお花畑で…?」
「白い花畑? そんなの、この村にはないわね」
「夢だったのかな?…思い出せないけど、アイくんのこと、なにか言ってた気がする」
「―もう、寝る時間ね。家まで送るわ」
レアが話を切り上げる。
それをベティが遮った。
「もう少しいいじゃないですか〜」
「ラクトたちが心配するわ。ナリア、黙って出てきたんでしょう?」
その声に俯くナリア。
「安全な村でも、知らない人が増えた。なにかあってからじゃ遅いんだから、ちゃんと知らせて。夜道の一人歩きはだめよ? ベティ、行ってくるわね」
「…はい〜。お気をつけて〜」
不満げなベティを置いて、レアとナリアは手を繋ぎ、教会を出た。
#
教会の扉が静かに閉じ、再び静寂が戻っていた。
蝋燭の炎が細く揺れ、長い影を壁に落とす。
レアはナリアを家まで送ったきり、まだ戻らない。
広い聖堂にひとり残されたベティは、女神像の前でそっと膝を折った。
「―女神様」
指を胸に当て、目を閉じる。
声は小さく、でも震えていた。
「やっぱり…あの子は、女神様の御使様なのですね?」
脳裏に浮かぶのは、不器用な優しさを持ち、誰かのために走り続ける少年―アイオン。
死の淵から蘇り、妹を救った奇跡の子。
「では、どうしてですか? なぜ、私たちにお声を聞かせてくださらないのですか?」
問いかけるように呟き、目を伏せる。
女神像は沈黙を守ったまま、炎だけがかすかに揺れていた。
「―私は信じています。あの方が、あなたに遣わされた御使様だと…。そして、愚かな私たちを、もう一度、見てくださったのだと」
言葉が震え、熱いものが頬を伝う。
涙が膝に落ちる音が、やけに大きく響いた。
「お願いです! どうか…お声を! 一度だけでもいい…! 私じゃなくても…レア様だけでも…!」
祈りの声が涙声に変わった、その瞬間―。
冷たい風が、聖堂の奥から吹き抜けた。
ベティは驚いて顔を上げる。
重厚な扉は閉じたまま。
それでも、蝋燭の炎が大きく揺れ、いくつかがぱちぱちと消えた。
「…風…?」
胸の奥で、ざわりと何かが騒ぐ。
ふと、足元に白い光が落ちていた。
ベティはそれを拾い上げる。
―白い花弁。
ここには白い花などないのに、どこから?
「ベティ」
振り向くと、扉のところにレアが立っていた。
視線は花弁に釘づけだ。
「…それ、どこで?」
「いま…ここに…」
レアは花弁をそっと掌に受け取り、長い沈黙ののち、低く呟いた。
「―やっぱり、女神様はアイオンを通して、私たちを見ておられるのね。二百年ぶりに」
「御使様…ですよね? あの方は」
「ええ。それはもう、疑いようがない。今までとは違う、新しい御使様よ」
ベティの胸に、安堵と不安が同時にこみ上げる。
けれど、どうしても問わずにはいられなかった。
「では、どうしてお声を聞かせてくださらないのでしょう?」
レアは静かに目を伏せ、答えた。
「…それは、誰にもわからないわ。私たちの罪を許してくれたのかどうかも」
「…でも…」
ベティは花弁を見つめ、涙をにじませながら呟く。
「せめて、レア様にお声をかけてくださっても…。これだけ女神様の教えを守られているのです。労いの言葉を…かけてくださっても、いいと思います」
レアはそっとベティの肩に手を置いた。
その声は優しく、確かなものだった。
「そんなもの、望まないわよ。私たちが勝手に信じてるだけ。誰かの意思じゃない。でしょ?」
「それは、そうですが…」
「私は大丈夫よ。…それより、口調を戻してくれる? いつものように話しなさい。…緊張するわ」
笑いながら注文するレア。
「…はい〜」
「ふふっ、いじけないの。まだまだ子どもね」
レアはベティの頭を撫でると、花弁を大事そうに握った。
「小瓶に入れて、像の横に置いておきましょう。なんの花弁かしらね?」
「詳しくないのでわかりませんが〜。明日、カーラさんに聞いてみますか〜」
「あら? あの子、まだ花に興味あったのかしら?」
ベティはお返しとばかりに笑う。
「そうですよ〜。バルナバで花の種を買っては〜ここに植えてくれてます〜。最近は私が世話してますが〜。忘れん坊ですね〜」
「…生意気。さ、休むわよ!」
蝋燭を一本ずつ消していく。
ベティは小瓶に花弁を入れ、女神像の横にそっと置いた。
最後に残った一本の炎だけが揺れていた。
白い花弁は、その淡い光を受け、月光のように儚く揺らめいていた。
二人はその前で静かに祈りを捧げ―
やがて、明かりはすべて消えた。




