月と灯火の誓い
朝靄がまだ地面に薄く残り、草の露がきらめいていた。
アイオンは村の外れ、畑道が見える場所に座って、ただ遠くの景色を見つめていた。
(―やっぱり、まだ決めきれない)
ラクトもセアラも「お前も好きに生きろ」と言ってくれた。
兄ゼアスが兵士になると決めたときも、笑って送り出した両親だ。
わかっている。止められないことも、理解している。
でも―。
(ナリアが、まだ9歳だ)
俺を頼りに笑ってくれる妹を置いていくなんて、いいのか?
ゼアスもいない。自分までいなくなったら……。
そんな迷いを抱えたまま、朝風に髪を揺らしていたとき―。
「何してんの? こんなとこで」
軽やかな声と、近づく足音。
振り向けば、カーラが手を腰に当てて立っていた。
「…カーラさん、か」
「“カーラさん、か”じゃないよ。朝っぱらから暗い顔して、どうしたの?」
アイオンは肩をすくめた。
「別に。ただの散歩途中ですよ」
「ふぅん……嘘つくの、下手だよね」
カーラは一歩近づき、覗き込むように顔を傾ける。
その視線に、アイオンは息を詰めた。
「…なんか悩んでるんだろ?」
彼女はじっと見据え、短く言った。
「―村を出るかどうか…か?」
アイオンの肩が、わずかに震える。
ごまかす余地はなかった。
数秒の沈黙のあと、彼は低く答える。
「…わかりますか。凄いですね、カーラさんは」
カーラの瞳が一瞬だけ揺れた。
だが次の瞬間、ふっと笑う。
その笑みは、どこか硬かった。
「…まぁ、そうだろうとは思ったからね」
「…」
「ライアさんの影響? それとも、王女様?」
強がった声。
だが、その拳はぎゅっと握られている。
アイオンは、それを見てしまった。
「カーラさん…」
「なに?」
振り返らずに問う声は、少しだけ震えていた。
「…怒ってます?」
カーラは立ち止まり、肩をほんの一瞬だけ揺らす。
そして、低い声で答えた。
「―本当にバカだね、あんたって」
それだけ言うと、踵を返す。
陽の光を受けて、背中の影が長く伸びた。
「カーラさん!」
呼び止めたが、カーラは振り向かない。
足音だけが、村に消えていった。
アイオンは深く息を吐き、額に手を当てる。
(……やっぱり、簡単じゃないよな)
遠ざかる背を見つめる彼の耳に、風が囁いた。
また、悩みがひとつ増えた。
#
その夜。
オルババの空は澄み、月と星が村を優しく照らしていた。
家の中ではランプの灯りが揺れ、木の壁に長い影を落としている。
静けさの中、家族4人が向かい合っていた。
ラクトは椅子に深く腰をかけ、組んだ手を膝に置いたまま動かない。
セアラは裁縫箱を膝に乗せ、そっと指を組んでいた。
ナリアは兄の袖を握り、足をぶらぶらと揺らしている―不安を隠しきれずに。
その光景を見つめながら、アイオンは胸の奥で言葉を探していた。
何度も飲み込み、何度も作り直して――やがて、深く息を吐く。
「―ラクトさん、セアラさん。少し…話があります」
ラクトの視線が、ゆっくりとこちらに向く。
セアラは小さく頷き、笑みを崩さぬまま「うん」と返した。
――その笑顔が、どこか痛々しく見えた。
アイオンは拳を膝に置き、低く呟く。
「…俺、冒険者になります。それが目的じゃないけど、しばらく村から離れます」
沈黙が落ちた。
ランプの炎が、かすかに揺れる。
ナリアの足が止まり、大きな瞳が揺れた。
「…やだ」
小さな声が、夜の静けさを震わせる。
「アイくん、いなくなっちゃうの?」
袖をぎゅっと握り、ナリアは首を振った。
「…やだよ、ぜったいやだ…!」
アイオンはその手を握り返す。
「…いなくなるわけじゃない。必ず戻ってくる」
声が震えた。
胸が詰まり、言葉が続かない。
そのとき、セアラが静かに口を開く。
「…そう。やっと言えたのね」
アイオンが顔を上げると、母は笑っていた。
――けれど、その頬を、一筋の涙が伝っていた。
彼女は慌ててそれを拭い、笑みを保ったまま続ける。
「ゼアスが兵士になるって言ったときと、同じ顔をしてる。…あのときも、止めなかった。だって、私たちは…あなたたちに、好きに生きてほしいから」
「セアラさん…」
「だから、行きなさい。…でもね、アイオン―」
セアラはナリアの頭をそっと撫で、息子を見据える。
「―後悔だけはしないで。あなたの選んだ道を、胸を張って歩いて」
そのとき、黙っていたラクトが低く言った。
「お前はよくやったよ! この家を、村を、全部守ってくれた。なーに! 俺はまだまだ現役だし、村人も増えてる! どうにでもなるさ!」
父の言葉に、アイオンの胸が熱くなる。
――その横で、ナリアが声を上げて泣き出した。
「…やだ、やだよアイくん…!」
小さな体で、必死に袖を掴む。
「ずっと一緒がいいよ!」
しゃくりあげる声に、アイオンは抱きしめた。
「…ナリア、ごめん」
ナリアのすすり泣きが、夜の静けさに溶けていく。
セアラは震える手を膝の上で握りしめ、ラクトは目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
その頬に、光がかすかに反射していた。
やがて、誰も言葉を発しないまま、長い沈黙が流れる。
外からは、虫の声と、かすかな風の音だけが届いていた。
――旅立ちの日は、まだ決まっていない。
でも、もう迷わない。
その夜、アイオンはようやく、自分の道を選んだ。
#
教会のステンドグラスは夜の闇に沈み、わずかな燭台の炎だけが白壁を照らしていた。
その温かな光の中に、アイオンの影が長く伸びる。
「―さっき話しました」
静かな声に、レアは祈りを終え、ゆっくりと立ち上がった。
その横で、ベティがほっと息をつく。
「そう。どうだった?」
「…もともと反対する気もなかったようで。ゼアスさんのときと同じで、好きにしろって…。
でも、ナリアは泣かせてしまった。…駄目ですね」
アイオンは小さく笑う。
だが、その笑みに影が差しているのを、レアは見逃さなかった。
「いつ出るの?」
問いかけは柔らかく、それでいて核心を突く。
アイオンは一瞬だけ目を伏せ、唇を結んだ。
「まだ決めてません。やりたいことがあるから。それが終わったら」
「やりたいこと?」
レアの問いに、アイオンはただ「はい」と頷いた。
詳しくは語らず、袋の紐を握る手に力を込める。
「…家族の事、頼みますね」
そう言うと、彼は一礼して、静かに教会を出ていった。
扉の音が重く閉ざされ、再び炎の揺らぎだけが残る。
沈黙を破ったのは、ベティの低い吐息だった。
「やっぱり、行っちゃうんですね〜」
「ええ。あの子は、ここに収まる器じゃないもの」
「…それはそうですが〜」
レアは遠くを見るように、女神像に視線をやる。
淡い光が、その横顔を静かに照らした。
「どうなるかはわからない。けど、アイオンが決めたのなら、尊重しないと、ね?」
「わかっていますよ〜。…ですが、女神様の事があります〜。
…俗物共に勘付かれれば、命が危険になります〜」
「この村にいる方が安全なのは確かね。
でも、それもアイオンの人生よ。…あなたの気持ちもわかるけど、信じましょう」
レアは目を閉じ、祈るように呟く。
「―女神様の祝福を」
ベティはしばらく炎を見つめ、ぽつりと漏らした。
「…なんだか、寂しくなりますね〜」
村の子が外に出る。
ベティは、姉のような気持ちで子どもたちに接してきた。
“女神の干渉を受けたアイオン”ではなく―
“弟の一人であるアイオン”の旅立ちを、素直に寂しがった。
教会の外で、夏の虫の声が静かに重なっていった。
#
「―で、何の用だよ。こんな時間に」
イザークがあくびをしながら問いかける。
隣では、エリーがにこにことカーラを見ていた。
「…別に、用ってわけじゃないけどさ」
カーラは腕を組み、ランプの明かりに照らされた顔を伏せる。
胸の奥が、どうにも落ち着かない。
アイオンが村を出る―いつかは訪れると思っていた。
けれど、こんなに早いなんて。
「ふーん? 顔に“用ある”って書いてるぜ」
イザークがニヤリと笑う。
「…アイオンのこと、知ってんでしょ?」
その名前を口にした瞬間、胸がぎゅっと締まった。
2人は目を合わせ、「やっぱりな」という顔をする。
「朝、畑道で黄昏れてて…聞いたら、村を出るって」
「そう答えたのか? …なら、もう家族にも伝えたかな」
「…やっぱり知ってたんだな」
カーラの視線に、イザークは肩をすくめてグラスを掴む。
一口飲み、静かに言った。
「お前には悪かったと思うよ。
でもあいつがこの村にいる理由、もうないだろ?
自警団じゃ手に負えない魔物も、今は冒険者が狩ってくれる。
畑仕事も、村人が増えて手伝う必要はなくなった。
…なら、旅立つべきだ。若いうちに世界を知れば、あいつはとんでもない領域までいける。
…正直、もったいねぇよ」
グラスを置く音が、やけに大きく響いた。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
「…わかってるよ、そんな事は。あいつは、とんでもない奴だよ。…でもなぁ」
カーラは笑った。
だが、笑ったのは口だけで、胸の奥はまったく笑っていなかった。
「で? …2人も?」
イザークは火に照らされた顔で笑う。
「ああ。俺らも近いうちに出るつもりだ」
「…まぁ、そうなるよな」
「ここでやれる事は俺もエリーもやった。そろそろ次の場所だ。なぁ、エリー?」
「うん。…居心地はいいけど、旅がしたくて村を出たからね。
それに、ウルもいい人と別れるって話をオニクから聞いたし、いい機会かなって」
エリーの笑顔が、カーラには遠い世界のものに見えた。
(…みんな、行っちゃうんだ)
胸がずしんと重くなる。
ランプの炎が滲んで見えた。
「ふーん。いいね、自由で」
無理やり軽く言ったが、喉が少し痛い。
イザークが首をかしげる。
「…お前、アイオンについて行きたいんじゃねーの?」
「はぁ!? なに言ってんの!? 私は…!」
反射的に声を張った瞬間、心臓が跳ねた。
図星だった。
そして、答える。
「…私が付いていっても、なんの役にも立てない。…足手まといだよ」
その言葉は、やけに弱々しかった。
イザークは肩をすくめる。
「そりゃあ、今さら武器を扱え! なんてあいつも言わねーだろ。
完全に分業してるパーティなんて、いくらでもある。
要は―依頼を受ける窓口や交渉をやるやつと、実際に戦うやつだ。
あいつが上に行くほど、雑多な依頼を捌く役は必要になる。
…言っとくけど、すぐに上に上がるぞ、あいつ」
「…それは、誰にでもできるの?」
「んなわけねーだろ! アイオンとの信頼関係が必要だ。
だが、お前があいつと一緒に旅に出たいってんなら、それしかねぇ!
必要なのは知識と客観性だ。
依頼の難易度とアイオンの実力を客観視して、できるかどうかを正確に見極める。
そして、アイオンの価値を理解して、正当な報酬を交渉する。…冷静にな」
カーラは返事をしなかった。
ただランプを見つめ、唇をかみしめる。
(…一緒にいたい。それができるなら…)
その様子を見て、エリーが口を開いた。
「わかるよ、カーラの気持ちは。
…私も武器を手に取ったけど、正直、ついていけないなーって思うときあったし」
「エリー…」
「だから、この村で文字や計算を習えて良かったと思ってる。
…イザークには伝えたけど、私は冒険者を引退して、裏方になるんだ。
交渉技術はこれからだけど」
イザークとカーラは黙って耳を傾ける。
「傍で支えてあげたい。…そう思っても、向き不向きがあるし、迷惑をかけることの方が多かった。
…でも、今度は違う恐怖と戦わなきゃいけない」
カーラは、その言葉に反応する。
「ど、どんな?」
「イザークが、帰ってこないかもしれないっていう恐怖」
「…エリー」
イザークに微笑みかけるエリー。
「冒険者なんて、いつも命の危険があるものだもの。
それは仕方ないでしょ? でも、待つ事しかできなくなるんだなって。
…でもねカーラ? 村で待つのと、変わらないでしょ?」
そして、カーラにも微笑む。
その表情は、いつもより大人びて見えた。
「決めるのはカーラだし、受け入れるかはアイオン次第。
でも、傍にいたいなら―カーラ次第よ」
「…なんだか、レア様と話してるみたいだ」
その言葉に、エリーは笑った。
「長いことこの村にいたからね。私も旧女神教になっちゃったのかも」
3人で笑う。
そして、話を続けた。
どうすればいいのか、なにが必要なのかを。
(…やれることをやるだけだ。あいつと一緒にいるために)
カーラもまた、静かに決意した。




