葛藤
オルババ村の門が見えたころ、門番のロッチとボブが手を振った。
「おお、帰ったか! 無事でなによりだ!」
「お前さん、また森で暴れてきたんだろ? 血、めっちゃ付いてるぞ!」
「…まぁ、ちょっと」
アイオンは苦笑しながら答える。
ロッチがにやつき、親指で村の奥を指した。
「ラクトさん、今日も畑だぜ。ちゃんと顔見せろよ?」
「わかってますよ」
「ほんとかな〜? この前も少し帰ってきて、またすぐ森に消えたじゃねぇか」
「…努力しますよ」
その時、背後で笑い声がした。
振り返るまでもなく、イザークの顔が浮かぶ。
「おい、聞いただろロッチ。こいつ、また誤魔化す気だぜ」
「アイオンって、ほんと家族と話すの苦手だよね」
エリーが肩をすくめる。
アイオンはわずかに眉を寄せた。
「苦手とかじゃないです。…なんて言えばいいかわからないだけです」
「じゃあ、しっかり考えとけ。ギルド登録なんて、親の許しもなく勝手にやったら後が大変だぞ。どうしたって、命の危険は付き纏う」
イザークの声は、さっきより少しだけ真剣だった。
「わかってますよ…」
ため息をひとつ落とし、視線を逸らす。
「ほら、行けよ。オレらは村長とフィギル子爵の代理人に報告しに行くから」
イザークが軽く拳を突き出す。
アイオンは無言で拳を合わせ、エリーには短く会釈した。
「ありがとうございました、2人とも」
「いいって。じゃあな、未来の大物冒険者さん?」
「…」
軽口を交わして別れると、村の喧騒がゆっくり近づいてきた。
アイオンは重い足取りで自宅――ではなく、教会へ向かう。
胸の奥にあるのは、戦いの疲れではなく――言葉を探す重さだった。
#
白壁の教会に入ると、ひんやりとした空気に包まれる。
ベンチの前で、レアとベティが掃除をしていた。
2人とも、アイオンの姿を見るなり笑みを浮かべる。
「あら? おかえりなさい。珍しいわね」
「血、ついてますよ〜。また無茶したんじゃないですか〜?」
「イザークさんたちに、解体のやり方を教えてもらって」
荷を下ろし、アイオンは女神像を一瞥した。
深呼吸をしてから、口を開く。
「…相談がありまして」
2人は顔を見合わせ、手を止めた。
レアがゆっくりと近づき、木の椅子を勧める。
「尚更珍しいわね…どうぞ。話してみなさい」
アイオンは腰を下ろし、視線を落としたまま言葉を探した。
「…バルナバに、行くことになるかもしれません。ギルドに登録して…その後は、しばらく戻らないかもしれない」
ベティのまん丸な目がぱちぱち瞬いた。
「えっ、急ですね〜…」
「ラクトとセアラには、なんて言うつもり?」
レアの声は穏やかだが、真っ直ぐだった。
「…なんて言えばいいか、わからなくて」
前世でも経験していない。
施設を出る時は――無言で、少ない荷物を持って出た。
しかし今世は――大事な家族がいる。
沈黙が落ちる。
ベティが頬に指を当て、困ったように笑った。
「うーん…どう言ったらいいんでしょうね〜?」
「…私たちが答えを出すものじゃないわよ」
レアは静かに首を振った。
「大事なのは、あなたがどうしたいか。どう伝えたいか。…そこを決めないと、どんな言葉も届かないわ」
「―どう、したいか」
アイオンはつぶやく。
その声に、ベティがやわらかく続けた。
「行きたいんですよね〜? 行かない理由を探すより…その気持ちを、大事にした方がいいですよ〜」
アイオンは答えず、深く息を吐いた。
胸の中で何度も響く言葉。
――「もっと広い世界を見なさい」
それは、自身の想いと同じだった。
今のアストライアを、女神に見せたいという想いと。
窓の外、陽は傾き始めていた。
石壁を染める橙が、静かな影を伸ばしていく。
「焦らずに決めなさい。後悔しないようにね」
その言葉を背に、外に出る。
夕陽はもう山際に沈みかけていた。
茜色が石畳を照らし、村の家々からは煙が立ちのぼっている。
遠くで子どもたちの笑い声が響き、畑からは遅くまで働いていた農夫たちの足音が戻ってきていた。
――この景色を、しばらく見られなくなるかもしれない。
そう思った瞬間、胸が重くなる。
アイオンは石垣に腰を下ろし、空を見上げた。
西の空は燃えるような朱。
反対側には、淡い月が顔を出している。
(…どうすればいい)
頭の中で、問いが巡る。
兄ゼアスの姿が浮かんだ。
2年前、彼もこの村を出た。
――「家族を頼む」
あの時、ゼアスはそう言って笑った。
去年、ナリアのために帰ってきて、また村を出る時にも。
その約束を、今の自分は破ろうとしている。
(ナリアは…まだ9歳だ)
胸の奥が、静かに疼いた。
家を出る自分を、ナリアはどう思うだろう。
寂しさを隠して笑うだろうか。それとも泣くか。
ゼアスの時は、塞いでいる期間が長かった。
それを、また味わわせるのか…。
想像しただけで、足が動かなくなる。
だが、もうひとつの声がある。
あの、女神の言葉―
《今世はお前のためにある。好きに生きろ!》
拳を握る。
爪が手のひらに食い込み、痛みが意識を現実に引き戻す。
(…世界を見せたい。それは、俺がクソ女神にできる、唯一の恩返しだ。でも―)
視界が滲む。
何が滲ませているのか、もう考える余裕もなかった。
――陽は沈み、村は静けさを増していく。
家々の窓に灯りがともり、夜の匂いが漂う。
虫の音と、遠くの犬の吠える声。
すべてが、自分に「まだここにいろ」と囁いているようだった。
それでも、足を動かした。
石畳を一歩、また一歩。
向かう先は、家。
ラクトとセアラ、そしてナリアが待つ場所。
(…話さなきゃ。決めなきゃ。このままじゃ、前にも後ろにも進めない)
顔を上げると、空には星が瞬き始めていた。
月が、淡く、見守るように輝いている。
――夜は、長くなる。
#
家の戸を開けると、温かな灯りと香ばしい匂いがアイオンを迎えた。
木の食卓には、焼きたてのパンと野菜のスープ。
セアラが湯気を立てる鍋をかき混ぜ、ラクトは椅子に腰を下ろしている。
その横で、ナリアが笑顔で駆け寄ってきた。
「アイくん! おかえり!」
小さな体が抱きついてくる。
その温もりを受け止めた瞬間、心臓が少し痛んだ。
――これを置いていけるのか?
「ただいま。…いい匂いだね」
「今日はね、私がパン丸めたんだよ!」
「そうなんだ、楽しみ」
笑って撫でながら、席に着く。
食卓を囲むと、ほんのり焦げたパンと、野菜の甘みを含んだスープが心を和ませた。
この何気ない光景が、急に遠く感じる。
やがて、セアラが静かに切り出した。
「森での魔物退治、無茶はしてないわよね?」
「はい。それは平気です」
「そう…よかった」
母の声には、安堵と、ほんの少しの影があった。
その視線を感じながら、アイオンは口を開きかけて――飲み込む。
何をどう言えばいいのかわからない。
すると、ラクトが低い声で言った。
「…ゼアスの時のこと、覚えてるか?」
「え?」
「俺たちは、あいつに『好きに生きろ』って言った。兵士になると決めたあいつを、止めなかった。…お前にも、同じことを言うつもりだ」
アイオンは顔を上げる。
ラクトの眼差しは、まっすぐで重かった。
「ただ――家族を思う責任だけは、捨てるな。どんな場所に行っても、それを忘れないなら、俺は何も言わない」
胸の奥で、何かが揺れた。
言葉を返そうとしたとき、ナリアが小さな声で尋ねる。
「ねぇ…アイくん? どこにも、行かないよね?」
無邪気な目が、真っ直ぐに射抜く。
アイオンは答えられなかった。
喉が詰まり、視界が滲む。
膝の上で、ナリアの小さな手が、自分の指をぎゅっと握っている。
――言えない。
――でも、言わなきゃ。
セアラが、そっと微笑んだ。
「答えを急がなくていいわ。…あなたがどうしたいのか、それだけを大事にして」
「……」
家の中に、静かな時間が流れる。
パンの香りと、薪のはぜる音だけが満ちていた。
だが、アイオンの胸は、重く、熱い。
《この場所じゃ、あなたはこれ以上伸びない。もっと広い世界を見なさい》
ライアの声が、頭の奥で響く。
(…どうする。俺は――)
スープを口に運ぶふりをしながら、視線を落とした。
ナリアの笑顔が、揺れる炎に照らされている。
その夜、結論は出なかった。
家を出るか、残るか。
答えを見つけるには、まだ時間が要る。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
アイオンは、拳を握った。
胸の奥に宿った迷いと決意を抱えたまま。
夜は、深く、静かに更けていった。
#
食後、ナリアは眠気に負けてセアラの膝で舟を漕ぎ、やがてベッドに運ばれた。
アイオンも「少し外の空気を吸ってくる」と言い、家を出る。
静けさが戻った家の中で、ランプの火が揺らいでいた。
ラクトは椅子に腰を下ろし、手を額に当てる。
その背に、セアラがそっと声をかけた。
「…言わなかったわね」
「ああ」
「でも、顔に書いてあった。…あの子、迷ってる」
ラクトは重く息を吐き、顎を撫でた。
「止めるべきなのか…わからねぇ」
「ゼアスの時も、あの子が兵士になるって言った時、…本当は心配で仕方なかった。でも、『好きに生きろ』って言ったのは、あなたよ」
「だから今回も同じように言うべきなんだろうけどな…」
拳を握る音が、小さく響いた。
その手を、セアラがそっと包む。
「私は、あの子がしたい事を言ってくれるのは…嬉しい。ずっと遠慮していた子が、今、私たち家族に向き合おうとしてる」
ラクトは俯き、低く唸った。
「あいつは考えすぎる。単純な俺に似れば良かったのに…」
セアラは、少し笑った。
「あら? 顔や体格は私に似たけど…中身はあなたそっくりよ」
「どこら辺が?」
「一度決めたら、どんなに苦しくても進む。迷っても悩んでも、最後は家族のために力を尽くす…あなたそっくりじゃない」
ラクトは言葉を失い、セアラはそっと寄り添う。
灯りが、2人の影を壁に揺らした。
「――信じましょう、あの子を」
「どんな道を選んでも、きっと後悔しないように生きる。…そう教えたのは、あなたよ」
ラクトは長く息を吐き、目を閉じた。
「ああ。信じるさ。結局、俺にできるのは…あいつの出した答えを受け入れるだけだ」
「ええ。私もよ」
2人の視線が、眠るナリアの部屋の方へ向いた。
「…ナリアだけかもな。初めから、あいつをあいつだと受け入れて、接してたのは」
「そうね。だからこそ、ナリアが一番悲しむかも…」
「それでも、受け入れてくれるさ。ナリアも強い子だからな!」
その顔には、諦めではなく、確かな信頼があった。
――子どもたちが選んだ未来を、最後まで見届ける。
それが親の役目だと、2人は知っていた。
窓の外では、白い月が夜空を洗っていた。
その光の届かない場所で、ランプの炎だけが揺れている。
静かに、見守るように。




