番外編 フォスター公爵
夜の帳が降りたフォスター公爵邸。
厚い扉に閉ざされた書斎の中は、言葉が漏れることはない。
完全に守られた空間に、ただワインの香りだけが満ちていた。
フィギルは深く息を吐き、グラスを置く。
対面のレオ・フォスター公爵は、黙したままワインをゆるやかに回していた。
その瞳の奥には、冷たい計算とかすかな苛立ちが混ざっている。
「――以上が、ジーナ王女殿下から王へと伝えられた顛末と、実際に起きたことです」
しばし沈黙。
公爵はグラスを唇に近づけたまま、低く問う。
「…なるほど。事実として残るのは、お前が指揮したという方か」
――事実、か。
口にしながらも、その言葉の重さが胸に沈む。
真実と事実――その差がどれほど人を殺すか、公爵は嫌というほど知っていた。
フィギルは目を伏せ、淡々と答える。
「――はい。…ですが、賊の本当の狙いは違います」
公爵の瞳がわずかに光る。
退屈な報告が一転、刃を孕む。
「ふむ…?」
「狙いは私です。…1年前の件を覚えておいででしょう」
――あの一件か。
公爵は目を細め、記憶をたぐる。
自身の娘を乗せた馬車が襲われ、奴隷商人に連れ去られた。
それを消し止めた夜の冷たい空気が、今でも肌に残っている。
「ああ――私ときみが懇意になった理由に関わると?」
フィギルは静かに頷いた。
「はい。あの一件で、商売をひとつ潰したのです。その報復として、王女殿下は攫われた」
公爵の指先が、肘掛けを軽く叩く。
その音は小さく、しかし苛立ちを隠せない。
――王女を使うか。
命の軽さに吐き気を覚える。
だが、それがこの国の現実だ。
「護衛失態。王家への不敬。それを口実にすれば、子爵ひとり消すなど造作もない」
言葉に自嘲が滲む。
腐敗は底なしだ。
だが、その腐った水で泳ぎ続けねば、生き残れない。
「しかも殿下は――」
「第3王女、継承順位6位。いてもいなくてもいい存在」
フィギルが先に言う。
「巻き込みやすく、処理しやすい。…駒としては、これ以上ない」
公爵は深く息を吐き、グラスを傾けた。
赤い液面に、己の顔が揺れる。
――この国は、どこまで腐るつもりだ。
「背後に誰がいるかまではわかったのか?」
フィギルは苦々しく答える。
「いえ。ただ、王族側にも内通者がいるという可能性だけ。ジーナ殿下に、それを示唆する発言が賊からあったと」
「――ほう」
公爵の眉がわずかに動く。
――内部に毒が回っている。
予想はしていた。だが、想像以上に速い。
「ただ、それが誰かまでは…。ガーリンたちを護衛団に任命したのは第2王子。黒幕に頼まれたという線も捨てきれませんが…ないでしょうな」
「…そうだな」
公爵は唇の端をわずかに歪める。
あの方の性格を思い浮かべながら、頭の中で駒を並べる。
――動くなら、もっと別の手を使うはずだ。
だとすれば、背後はもっと深い。
「賊たちからすれば想定外だっただろうな」
フィギルの声が、暗い愉悦を帯びる。
「自分らで仕込んだヒュドラに足を取られ、その隙を村の少年に突かれた。情報戦は見事でしたが、実行部隊がこれでは…お粗末です」
公爵はワインを飲み干し、目を閉じた。
――想定外。
その言葉に、自身の心が僅かにざわめく。
不確定要素――それは、力を持たぬ者であればあるほど、危うい。
「失態が広まるスピードは速かった。…ジーナ王女の生存は絶望的だとまでな。それをひっくり返した。お前の評判は上がったよ。――だが、その少年…偉いな。どさくさに紛れて助けただけだから、王からの礼も賛辞もいらんとは」
フィギルの声が一拍、低く落ちる。
「…その少年、不思議では済まない者かもしれません」
公爵の眉が、目に見えて動いた。
胸の奥で、氷の欠片が落ちる音がする。
――この話、ここからが本題か。
「どういう意味だ?」
公爵の声が低く沈む。
その奥に、好奇とわずかな警戒が混じっていた。
「…騒動が起きた村、オルババ村には旧女神教の教えが残っています。このローズレッド王国ではありえない、新女神教が一切伝わっていない形で、です」
フィギルの言葉に、公爵は眉をひそめる。
「それは先ほど聞いた。ハーフエルフのシスターが長く活動している村だろう? どこからの干渉もなく、というのは不自然だが」
「はい。私も父から『オルババ村には関わるな』と告げられていました。その真意を確かめることもできず、死に別れましたが…。不思議なことに、領主になる前もなった後も、視察は部下に任せ、自分で確認しようとも思わなかった」
その言葉に、公爵の視線が細くなる。
「何故だ?」
「…わからないのです。もう一つの村カルララには視察や領民の声を聞きに行きましたが、オルババ村には足を運ばなかった。今回の遊行で初めて村を見て…驚いたのです。なんて穏やかな村だ、と」
公爵は唇の端をわずかに吊り上げる。
「ふむ。ありえんな。村が数多くあるなら、部下に任せきりもよくある話だが、その程度の数で…」
フィギルは小さく息を吐き、話を戻した。
「怠慢だと言われればそれまでですが…。――少年の話に戻ります。ライアという冒険者を覚えていますか?」
「ライア? 赤髪の?」
「そうです。あの、王家の騒動に巻き込まれ、仲間とランクを失った双剣の冒険者。彼女はオルババ村にいて、その少年を鍛えていたようです」
公爵は小さく笑みを漏らした。
「…贅沢な話だな。うちが抱えようとスカウトしたが、鼻で笑って断られたことをよく覚えている」
――冒険者として生きていく。
そう言い放ち、屋敷を出ていった背中が、今も脳裏に残っている。
「その彼女が言ったのです。…ヒュドラと賊を倒したのはその少年だ、と」
「…ありえないだろう。未成熟な個体とはいえ、そんなことができるなら――Bランク冒険者以上は確実だ。どさくさ紛れというだけでも奇跡的なのに」
「しかし、王女殿下の報告には彼の名は出ていません。私や村人にも、『お願いではなく、命令だ』と、漏らすことのないようにと」
公爵は無言のまま、フィギルのグラスにワインを注ぐ。
そして自分のグラスにも。
――考えながら、赤い液面を見つめた。
「ふむ。目立つことを嫌い、ジーナ様にそう頼んだ。と?」
「私は信じていませんが、オルババ村のシスター2人も、他の冒険者の少年も、同じように確信していました」
フィギルはワインを一口飲み、呼吸を整える。
そして、少し照れくさそうに言った。
「そのうえで――ジーナ様の彼に対する反応です。…あれは恋する乙女でした」
公爵は吹き出し、ついに声を上げて笑った。
「ガハハッ! お前がそんなことを言うとは! なんと愉快な夜だ!」
「…しかし、あれは…。公爵様も見ればそう思うはずです。いや、驚くはずです」
「ほう。変わりようにか。…興味深いな。私の知るジーナ王女は、いじけた少女だったが」
「…なら、確実に驚かれます」
フィギルは残りのワインを飲み干した。
「楽しみだ。…お前たちが会う日は決まっているのか?」
「ええ。王都を出る前に。――2日後です」
「そうか。ならば、その場に私も同席しよう。命令に背いたお前の罰を、軽減してもらわねばならん」
「…黒幕の手がかりが見えるかもしれませんしね」
公爵は再びワインを注いだ。
すでに酔いを覚える量に達していたが、断る気はなかった。
「して、お前は今後どうする?」
フィギルは真っ直ぐに答える。
「領地を発展させます。それ以外に選択肢はない。今回の件で私の評価は下がった。しかし、上がった面もある。ならば、進むしかありません」
「ふむ…。発展させ、評価を上げれば――また災いを呼ぶことになるぞ」
フィギルの眉がわずかに動く。
「――というと?」
公爵の声に、冷ややかな諦観が滲んだ。
「ローズレッド王国は、とっくに死に体だ。女神教が長らく実権を握り、貴族の評価はお布施の額で決まる。真に有能な者は追いやられ、領地を失い、代わりに無能どもが巣食い、利益を貪る。…腐敗は、もはや制度だ」
室内の空気が、重く沈んでいく。
「そんな連中の欲望に、終わりはない。だが、新たに与えられる領地はもう少ない。となれば、芽吹いた土地を刈り取り、それを与えるだろう」
「…つまり、フィギル地方を奪われる、と?」
公爵は淡々と答える。
「人材が乏しく、辺境で、禁断の森を抱える土地。今までは見向きもされなかった。だが――私の娘の件とリアラ王女の回復、そして今回の騒動で、お前は少し目立ちすぎた」
公爵はワインを回し、ゆっくりと口に含んだ。
赤い液面に映る己の影が、冷たく歪んで見える。
「――まだやりすぎるな。でなければ、あっという間に飲み干される」
フィギルは静かに頷いた。
「…肝に銘じます」
遠くで鐘が鳴り、夜が深く落ちていった。




